第8話「怒涛の対価と命の循環」
市場の端に位置する小さな空き地は、瞬く間に狂騒の渦へと飲み込まれていた。
先ほどまで遠巻きに見ていた人々が、商人の異様な反応を目の当たりにして我先に群がってきたのだ。
アルトが切り分けたパンの欠片を口にした者は、皆一様に言葉を失い、その場に崩れ落ちそうになる。
魔法によって土から搾取された薄っぺらな作物とは次元が違う。
ルヴァの魔力と微生物の発酵熱が凝縮されたその麦は、食べる者の肉体だけでなく、魂の奥底までをも深く満たしていく。
長年の粗悪な食事と過酷な労働で擦り切れていた人々の細胞が、急速に歓喜の声を上げていた。
「この麦を売ってくれ。銀貨十枚、いや、金貨一枚出す」
最初に試食したふくよかな商人が、血走った目で革袋から黄金の硬貨を鷲掴みにして突き出した。
それを皮切りに、周囲の群衆からも次々と怒号のような値付けの声が飛び交う。
普段は獣人を蔑むはずの人間たちが、リリアに向かって懇願するように硬貨の入った袋を差し出している。
リリアは驚きで目を丸くしながらも、アルトの指示に従って正確に麦を計量し、麻袋へ移し替えていった。
銀狼たちは群衆が暴走しないよう、静かに牙を見せて周囲を牽制している。
その統制された動きも相まって、暴動に発展することなく、商取引はすさまじい速度で進行していった。
「アルト、もう籠が半分空になったわ。硬貨も、これ以上は袋に入らない」
リリアの震える声に、アルトは振り返ってうなずく。
彼らが持参した手製の麻袋は、すでに銀貨と金貨で膨れ上がり、布の縫い目が悲鳴を上げている。
これほどまでの富を、アルト自身も前世を含めて手にしたことはなかった。
しかし、彼の心は驚くほど冷徹に研ぎ澄まされていた。
「これですべて売り切れだ。本日の取引は終了とする」
アルトが通る声で宣言すると、買い逃した人々から悲鳴に近い落胆の声が上がる。
「頼む、少しでいい。明日は来るのか。どこへ行けば買える」
すがりつく商人たちに対し、アルトは冷静に答える。
「次は三日後、同じ場所へ来る。それまでに必要な分を揃えておく」
その言葉を残し、アルトは空になった籠を狼の背に戻すと、群衆をかき分けて市場の中心部へと歩き出した。
熱狂の余韻が残る中、彼らが次に向かったのは鉄を扱う鍛冶屋の立ち並ぶ区画だった。
炉の熱気と鉄を打つ激しい音が交差する路地を抜け、アルトは一軒の大きな構えの店へ足を踏み入れる。
「農具が欲しい。一番頑丈な鉄で打たれたカマとクワを、あるだけすべて買い取る」
汗だくの店主は、みすぼらしい身なりのアルトを見て顔をしかめたが、硬貨で満杯に膨れ上がった袋が木のカウンターに置かれた瞬間、目の色を変えた。
アルトは惜しげもなく金貨を支払い、並べられていた数十本もの真新しい鉄の農具を狼たちの籠に積み込んでいく。
続いて向かったのは、街で最も大きな服屋だった。
絹や上質な綿の布地が色鮮やかに陳列された店内で、アルトは躊躇することなく店主を呼び止める。
「農作業に適した丈夫な綿の服を。それと、この娘に似合う、動きやすくて質の良い服を見立ててくれ」
アルトの言葉に、リリアは驚いて彼を振り返った。
「私に? 私は、この外套で十分よ。そんな贅沢は……」
彼女は自分のボロボロの外套をぎゅっと握りしめ、身を縮める。
獣人である自分が、こんな美しい布地を身にまとうことなど許されないという長年の刷り込みが、彼女の行動を縛っていた。
アルトは静かにリリアの前に立ち、その目を見つめる。
「お前はもう、豊穣商会の立派な一員だ。商会の顔として、胸を張って着てほしい。それに」
アルトはわずかに声のトーンを落とし、優しく続ける。
「お前の手伝いがなければ、あの麦は完成しなかった。これは、俺からの感謝の証だ」
リリアの大きな瞳が揺れ、やがて縁にうっすらと涙が浮かぶ。
彼女は言葉を詰まらせ、ただ深く、何度も首を縦に振った。
店主が手際よく選んだのは、深い森の緑色をした丈夫な綿のチュニックと、動きやすい革のズボンだった。
店の奥で着替えて出てきたリリアは、見違えるように美しかった。
新しい服は彼女のしなやかな体躯に完璧に調和し、獣の耳も不思議と愛らしく風景に溶け込んでいる。
アルトも新しい服に着替え、二人は不要になったボロボロの外套を店で処分してもらった。
大量の農具、生活に必要な塩や香辛料、保存食、そして新しい衣服。
荷物を満載した狼たちは、行きよりもわずかに足取りが重そうに見えたが、その表情はどこか誇らしげだった。
すべての用事を済ませ、街の門をくぐって荒野へ出た頃には、夜の闇が完全に周囲を包み込んでいた。
空には無数の星が瞬き、ひび割れた大地を青白く照らしている。
「本当に、夢みたい」
歩きながら、リリアが新しい服の袖を何度もなでてつぶやく。
彼女の足取りは軽く、歩くたびに微かな布の擦れる音が心地よく響いた。
「まだ始まったばかりだ。あの荒野をすべて緑に変えるまで、俺たちは止まらない」
アルトの腰には、新品の鉄のカマが揺れている。
これまでの手作業とは比べ物にならない速度で、土を耕し、作物を収穫できるはずだ。
ルヴァの肥料と、新しい農具、そして資金。
開拓の速度はここから飛躍的に跳ね上がる。
彼らが拠点とする岩陰が見えてきたとき、アルトは不意に立ち止まった。
夜風に乗って、かつては存在しなかった匂いが鼻腔をくすぐったからだ。
かすかな土の香りと、草花の甘い匂い。
足元を見ると、硬く乾燥していたはずの地面が、わずかに柔らかさを帯びている。
狼たちの足裏が土を捉える音も、以前の乾いた硬い響きから、しっとりとした音へと変わっていた。
「土が、広がっている」
アルトのつぶやきに、リリアも地面を見下ろす。
彼らが肥料を混ぜ込み、畑とした領域のさらに外側。
そこにまで、微生物たちが静かに根を伸ばし、死んだ土を蘇らせ始めていたのだ。
命の循環は、アルトの意図を超えて、自らの意思で大地を侵食し始めている。
遠くで、ルヴァの長く美しい遠吠えが夜空に響き渡った。
それは、帰還する彼らを歓迎する声であり、この大地が完全に目覚めたことを告げる勝利の産声でもあった。
アルトは星空を見上げ、深く息を吸い込む。
肺の奥底まで、豊穣の香りが満ちていく。
商会としての最初の成功。
それは、魔法に依存して破滅へと向かうこの世界に対する、静かで確実な反逆の烽火だった。




