第7話「辺境都市への行進と初めての商い」
夜明け前の青暗い空気の中、アルトとリリアは黙々と荷造りを進めていた。
手製の丈夫な蔦で編んだ巨大な籠が、銀狼たちの背中にしっかりと固定されていく。
籠の中には、黄金色に輝く麦が隙間なく詰め込まれていた。
狼たちは重さを気にする素振りも見せず、むしろ誇らしげに胸を張り、四肢でしっかりと地面を踏みしめている。
アルトは先頭に立つ片目に傷のある狼の首筋を優しくなでた。
美しい銀色の毛並みは、朝露を含んでしっとりと濡れている。
ルヴァは群れを統率する立場のまま拠点に残り、新たに蒔いた種の警護と畑の拡大を引き受けてくれていた。
彼が排泄する極上の肥料がある限り、この荒野の畑は無限の可能性を秘めている。
「準備はいいか。ここから人間の街までは、かなりの距離になる」
アルトの問いかけに、狼たちが一斉に低い喉鳴りで応える。
リリアは自分の背中にも小さな布袋を背負い、決意に満ちた表情でうなずいた。
獣人である彼女にとって、人間の多く集まる街へ向かうことは少なからず恐怖を伴うはずだ。
それでも、彼女の瞳に迷いはなかった。
太陽が地平線を割り、荒野を赤く染め上げるのと同時に、一行は出発した。
硬く乾いた土の上を、狼たちのしなやかな足裏がリズミカルに捉えていく。
馬車の硬い車輪とは違い、彼らの歩みは驚くほど静かで、かつ迅速だった。
熱風が吹き荒れる不毛の地を、一行は滑るように突き進んでいく。
太陽が真上に昇り、そして西へ傾き始める頃、風景にわずかな変化が訪れた。
ひび割れた赤茶色の地面に、くすんだ緑色の低木がちらほらと混ざり始める。
大気の乾燥が和らぎ、土の匂いがかすかに鼻腔をくすぐった。
前方に、石造りの高い防壁で囲まれた巨大な街の輪郭が浮かび上がる。
周辺の農村で収穫された作物が集まる、辺境最大の交易都市だった。
近づくにつれて、壁に設けられた巨大な鉄格子の門と、その前に並ぶ人々の列が見えてくる。
武装した門番たちが、荷馬車や商人の通行証を厳しく検めている。
狼の群れを連れたアルトたちが最後尾に並ぶと、周囲の空気が一気に張り詰めた。
商人たちは怯えたように道を開け、門番たちは槍の穂先をわずかに下げる。
「止まれ。その獣たちはなんだ。魔物なら街の中へは入れられないぞ」
兜を被った屈強な門番が、鋭い視線をアルトに突き刺してきた。
「この狼たちは商会の荷運びです。決して人を襲うことはありません」
アルトは両手を広げ、敵意がないことを明確に示しながら静かに答える。
門番の視線が、アルトのすり切れたボロボロの外套から、隣で顔を伏せるリリアの獣の耳へと移った。
明確な侮蔑の色が、門番の瞳に浮かび上がる。
魔法至上主義のこの国において、獣人とみすぼらしい平民の組み合わせは、路傍の石以下の扱いを受ける。
「貧民と獣人が、こんな立派な獣を従えて商売だと。盗品ではないだろうな」
吐き捨てるような言葉に、リリアの肩がびくりと跳ねた。
アルトはリリアの前に半歩進み出て、彼女を庇うように立つ。
「中身は私たちが育てた麦です。確認していただければわかります」
アルトが狼の背にある籠の蓋を開けると、黄金色の粒があふれんばかりに顔を出した。
夕暮れの光を浴びて、麦の表面が自ら発光しているように錯覚するほどの艶やかな輝きを放っている。
門番はその麦の品質に一瞬だけ目を見開いたが、すぐに鼻で笑った。
「ふん。まあいい。通行税は銀貨一枚だ。払えないなら引き返せ」
明らかに法外な額だった。
持ち合わせのないアルトたちを体よく追い払うための嫌がらせだ。
しかしアルトは動じず、籠の中から両手いっぱいの麦をすくい上げた。
「今は貨幣を持っていません。この麦を現物として納めることで、通行の許可をいただけないでしょうか」
門番は呆れたようにため息をつき、槍の柄で地面を叩く。
「農民の麦など、税の代わりになるわけがないだろうが」
「一口だけ、噛んでみてください」
アルトの真っ直ぐな視線に気圧されたのか、門番はいらだたしげに数粒の麦をひったくった。
そして、粗雑な動作で口に放り込む。
次の瞬間、門番の咀嚼する顎がぴたりと止まった。
彼の見開かれた瞳孔が収縮し、呼吸が荒くなる。
硬い殻を噛み砕いた途端、極上の甘みと、全身の細胞が粟立つような濃密な魔力が口内へすさまじい勢いで広がったのだ。
立ちっぱなしで疲労しきっていた門番の脚に、信じられないほどの活力がみなぎっていく。
彼は震える手で自身の口元を覆い、喉の奥を鳴らして麦を飲み込んだ。
「……通れ」
かすれた声で絞り出されたその一言に、周囲の商人たちがざわめく。
アルトは深く一礼し、狼たちを引き連れて重厚な門をくぐり抜けた。
街の中は、多くの人々と露店がひしめき合い、騒がしい熱気に包まれている。
石畳の道に狼たちの爪音が響くたび、道行く人々が驚いて壁際へ身を寄せる。
アルトは市場の端にある、誰にも使われていない小さな空き地を見つけ、そこで足を止めた。
狼たちに指示を出し、籠を下ろさせて円形に並べる。
「ここで店を開く。リリア、籠の蓋をすべて開けてくれ」
アルトの指示に、リリアが手際よく籠の蓋を取り払っていく。
夕闇が迫る市場の中で、黄金色の麦の山が異様な存在感を放ち始めた。
しかし、行き交う人々は遠巻きに様子をうかがうだけで、誰一人として近づこうとはしない。
巨大な狼の群れと、貧しい身なりの二人が並べている名もなき作物を、信用する者などいないのだ。
時間は容赦なく過ぎていき、周囲の露店が次々と片付けを始めていく。
リリアが不安そうにアルトの袖を引いた。
「このままじゃ、一つも売れないかもしれないわ」
「焦る必要はない。本物の価値は、一度触れさせれば必ず伝わる」
アルトは平らな石を取り出し、布袋に忍ばせていた自作のパンを乗せた。
そして、水筒のわずかな水と一緒に石の表面を磨き、そこへ火の点いた細い枝を近づける。
温め直されたパンから、香ばしく濃厚な麦の匂いが立ち上り、市場のざわめきを切り裂いて広がっていった。
風に乗って運ばれたその香りに、帰り支度をしていた人々の足が次々と止まる。
一人の身なりの良いふくよかな商人が、匂いに吸い寄せられるように近づいてきた。
「なんという芳醇な香りだ。それは、どこの魔法農園で作られたものだ」
商人の問いかけに、アルトは静かに首を振る。
「魔法は一切使っていません。命の循環だけで育てた、俺たちの麦です。試食をどうぞ」
アルトがパンを小さくちぎって差し出すと、商人は半信半疑の表情でそれを受け取った。
彼がパンを口に含んだ瞬間、その場にいた全員の視線が彼に釘付けになった。
商人の丸い頬が微かに震え、両目から大粒の涙があふれ出したのだ。
彼は言葉を発することすら忘れ、ただ一心不乱にパンを咀嚼し続けている。
その異様な光景が、豊穣商会の伝説の幕開けとなった。




