第5話「規格外の成長速度と豊穣の連鎖」
朝の澄み切った光の中で、その小さな緑色の双葉は周囲の空気を震わせるような濃密な生命力を放っていた。
アルトは息を詰めたまま、ひび割れた大地から突き出した奇跡の芽を凝視し続ける。
ただの植物の成長ではない。
前世の知識と経験を総動員しても、目の前で起きている現象を論理的に説明することは不可能だった。
ルヴァの残した黄金の恩恵が持つ底知れぬ魔力と、アルトが持ち込んだ黒土の微生物が、土の中で爆発的な相乗効果を生み出している。
双葉の間から、真新しい本葉がゆっくりと、だが肉眼ではっきりと確認できる速度でせり出してきた。
植物の繊維が伸び、細胞が分裂していく微細な音が、静寂に包まれた荒野に響いているような錯覚に陥る。
葉の表面にはうっすらと産毛が生え、朝露を弾いてきらきらと輝いていた。
「アルト、麦が……動いているわ」
隣にへたり込んでいたリリアが、震える両手で自分の口元を覆いながらつぶやく。
彼女の獣の耳が、信じられないものを見るように小刻みに揺れていた。
「ああ。土の中の栄養と魔力を、根が限界まで吸い上げているんだ」
アルトは地面に手をつき、土の温度と感触を確かめる。
発酵を終えたばかりのふかふかとした堆肥は、適度な熱を帯びて作物の成長を力強く後押ししている。
通常、これほど急激に栄養を吸収すれば、根が焼けて植物はすぐに枯れてしまう。
しかし、微生物たちが過剰な魔力を緩衝し、植物が吸収できる最適な形に分解して供給し続けているのだ。
太陽が中天へと昇るにつれて、麦の成長速度はさらに加速していった。
親指ほどの高さしかなかった茎は、数時間のうちにアルトの膝の高さまで到達する。
周囲の熱気と乾燥した風を物ともせず、深く根を張り巡らせて大地のわずかな水分を吸い上げている。
青々とした葉が風に揺れ、擦れ合う心地よい音が岩陰の前に響き渡った。
ルヴァは少し離れた岩の上に腹ばいになり、黄金色の瞳を細めてその光景を静かに見守っている。
やがて、太陽が西へ傾き、荒野を赤茶色に染め上げる頃には、麦はアルトの腰の高さを超えていた。
茎の先端には、ずっしりと重みのある立派な穂が形成されている。
最初は淡い緑色だった穂が、夕日を浴びて次第に黄金色へと色づき始めた。
乾燥した風が吹き抜けるたびに、重みのある穂が揺れ、ざわざわと命の波音を立てる。
たった一粒の干からびた種が、わずか一日の間に完全な実りへと到達したのだ。
「信じられない。私の一族の伝承でも、こんな奇跡は聞いたことがないわ」
リリアは立ち上がり、黄金色に輝く麦の穂にそっと指先を触れる。
彼女の瞳には、夕日の反射とは違う、希望に満ちた輝きが宿っていた。
「収穫しよう。これが俺たちの、最初の糧になる」
アルトは落ちていた鋭利な石の破片を手に取り、麦の根元へと身をかがめる。
石の刃を茎に押し当てて力を込めると、みずみずしい繊維が断ち切られる小気味よい音がした。
刈り取った麦の束からは、太陽の熱をたっぷりと吸い込んだ、香ばしく甘い匂いが立ち上ってくる。
アルトとリリアは岩陰の平らな場所へ移動し、収穫した麦の穂から実を取り外す作業に取り掛かった。
両手で穂を挟み、擦り合わせるようにして脱穀していく。
手のひらに伝わる硬くふっくらとした実の感触が、これまでの飢えと疲労を忘れさせてくれた。
息を吹きかけて軽いもみ殻を飛ばすと、大きな葉の上には黄金色に輝く粒が山のように積み上がっていく。
『これを粉にして、水で練って焼く』
アルトは手頃な丸い石と、窪みのある平らな岩を見つけ出し、即席の石臼を作った。
黄金の粒をくぼみに入れ、丸い石に体重をかけてすり潰していく。
ゴリゴリという鈍い音が響くたびに、硬い殻が破れ、中から真っ白な粉がこぼれ出た。
額からにじんだ汗が頬を伝い落ちるが、作業の手を止める気にはなれない。
すべての粒を粉に挽き終えると、水場から澄んだ水を数滴垂らし、指先で丁寧に練り上げていく。
最初はぼそぼそとしていた粉が、水分を吸って次第に滑らかな粘り気を帯びてきた。
手のひらで丸め、平たく引き伸ばして円形の生地を形作る。
次は火の準備だ。
アルトは乾燥した苔と細い枯れ枝を集め、硬い石同士を勢いよく打ち付ける。
何度も何度も石を打ち合わせ、指の皮が擦りむけて血がにじんでも、彼は決して手を止めなかった。
やがて、小さな火花が苔に落ち、かすかな白い煙が立ち上る。
アルトはそっと顔を近づけ、火種を絶やさないように細く長く息を吹き込んだ。
煙が濃くなり、やがて赤い炎がぽつりと姿を現す。
枯れ枝を少しずつ足していくと、炎はパチパチと音を立てて安定した焚き火へと成長した。
熱した平らな石の上に、引き伸ばした生地をそっと乗せる。
ジューッという音とともに、香ばしい匂いが周囲の空気を一気に満たしていった。
生地の表面がぷくぷくと膨らみ、きれいな焼き色がついていく。
裏返して両面をしっかりと焼き上げると、即席のパンが完成した。
アルトは焼け焦げるほどの熱さを持つパンを指先でつまみ、二つに割る。
中からはふわりと湯気が立ち上り、鼻腔をくすぐる濃厚な麦の香りが広がった。
「食べてみてくれ」
アルトが半分を差し出すと、リリアは震える手でそれを受け取った。
彼女はパンを見つめた後、小さな口を開けて一口かじりつく。
サクッという軽い音の直後、リリアの大きな瞳からふたたび涙があふれ出した。
「おいしい……すごく、あたたかい」
リリアは涙を拭うことも忘れ、夢中でパンを口に運び続ける。
アルトも残りの半分を口に放り込んだ。
粗挽きの粉の食感と、噛めば噛むほどに染み出してくる強烈な甘み。
それ以上に驚いたのは、胃の奥に到達した瞬間に全身を駆け巡る凄まじい活力だった。
魔力と生命力が高密度に凝縮されたこの作物は、一口食べるだけで疲労を完全に拭い去ってしまう。
足の裏から頭の先まで、熱い血が勢いよく巡り始めるのがわかった。
「ルヴァ、お前の力のおかげだ」
アルトが声をかけると、ルヴァは近づいてきてアルトの顔をざらりとした舌でなめた。
ルヴァの排泄物は、まだいくらでも手に入る。
この奇跡の肥料と、今収穫したばかりの麦の種があれば、栽培規模は無限に拡大できる。
アルトは自分の手のひらを見つめ、力強く拳を握りしめた。
死に絶えた荒野に、反撃の産声が確かに響き渡っていた。




