第3話「混ざり合う命と発酵の熱」
アルトの指先は、黄金色に輝く塊の表面から伝わる確かな熱を感じ取っていた。
枯渇しきった体に、その熱量が静かに流れ込んでくるような錯覚に陥る。
しかし現実の肉体は限界を迎えていた。
無理やり立ち上がろうとした途端、視界が激しく上下に揺れる。
足首から力が抜け、乾いた地面に再び膝をつきそうになった。
そのとき、銀色の柔らかな毛並みがアルトの体を横から支えた。
ルヴァが巨体をすり寄せ、アルトが倒れ込むのを防いでいた。
黄金色の瞳が、アルトの顔を静かに見つめている。
ルヴァはゆっくりと首を巡らせ、荒野の奥にある岩肌が露出した地帯へと視線を送った。
そして、アルトの上着の裾をそっと口にくわえる。
そのまま歩き出すように、かすかに生地を引っ張った。
「ついてこい、と言っているのか」
アルトのかすれた問いかけに、ルヴァは喉の奥で短く鳴く。
少し離れた場所で様子を見ていたリリアが、駆け寄ってきた。
「ルヴァ様が案内してくれるつもりみたい。私につかまって」
リリアは細い腕をアルトの背中に回し、彼の肩を支えようとする。
人間に対する警戒心は抜けきっていないはずだが、神聖なルヴァを救った恩人を見捨てることはできないのだろう。
彼女の体温が、薄い外套越しに伝わってくる。
アルトは短く礼を言い、リリアの肩を借りて歩き出した。
ルヴァの歩みはゆっくりとしており、手負いの体に負担をかけないよう配慮しているのがわかる。
ひび割れた赤茶色の地面が、単調なリズムで後ろへと流れていく。
太陽は少しずつ傾き始めているが、熱気は一向に衰える気配がない。
呼吸をするたびに、熱い空気が肺を焼く。
足元が細かい砂利から、ごつごつとした岩場へと変わっていった。
巨大な岩と岩の隙間に、人一人がようやく通れるほどの細い裂け目がある。
ルヴァはその前で立ち止まり、鼻先で裂け目の奥を示した。
リリアに支えられながら岩の隙間を抜けると、ふっと周囲の空気が冷たくなった。
岩の陰になったその場所は、太陽の熱から完全に守られている。
そして、かすかに湿った風がアルトの頬をなでた。
「水だ」
アルトの口から、無意識のうちに声がこぼれる。
岩肌の奥深くに、小さな窪みがあった。
そこには、周囲の岩から少しずつ染み出した水が集まり、澄んだ水たまりを作っている。
アルトはリリアの肩から離れ、這うようにして水際へと近づいた。
震える両手で水をすくい、乾ききった唇に運ぶ。
冷たい水が、ひび割れた喉の奥を滑り落ちていく。
胃袋の底に到達した水が、細胞の隅々にまで染み渡るのがわかった。
何度も何度も両手で水をすくい、息が詰まるまで飲み込む。
ようやく顔を上げると、顎から滴る水滴が水面に波紋を広げた。
生き返る心地だった。
隣では、ルヴァも長い舌を伸ばして静かに水を飲んでいる。
「よかった。ここは干上がっていなかったのね」
リリアが安堵のため息をつき、自分もそっと水を口に含んだ。
水という命の源を確保できたことで、アルトの頭脳は再び冷静な思考を取り戻し始める。
彼は水辺の土に視線を落とした。
水気はあるものの、やはり土そのものは灰色に変色し、栄養素が完全に抜け落ちている。
指でこすり合わせると、粘土のようなまとまりはなく、パラパラと崩れてしまう。
土壌微生物が存在しない、死んだ土の証拠だった。
アルトは立ち上がり、裂け目の外へ向けて足を踏み出した。
リリアが驚いたように振り返る。
「どこへ行くの。まだ休んでいたほうがいいわ」
「取りに行くんだ。あの黄金の塊を」
アルトの言葉に、リリアは目を丸くした。
「ルヴァ様の、あれを。どうするつもりなの」
「この土地を蘇らせるための、最初の肥料にする」
真剣なアルトの瞳を見て、リリアは何かを言いかけたが、やがて諦めたように口を閉ざした。
彼女も岩の陰から外へ出て、アルトの横に並ぶ。
二人はルヴァが休んでいた場所まで戻り、先ほどの排泄物の前に立った。
改めて見ても、強烈な生命力と魔力が凝縮されているのがわかる。
アルトは周囲を見渡し、乾燥して反り返った巨大な枯れ葉を数枚拾い集めた。
それを重ねて即席の器を作り、黄金の塊を崩さないようにそっと乗せる。
リリアは顔をしかめることもなく、アルトが葉の端を持ち上げるのを手伝った。
再び岩陰の水場へと戻ると、アルトは作業を開始した。
水辺から少し離れた岩のくぼみに、土を寄せ集めて浅い鉢のような形を作る。
そこに、葉で運んできた黄金の塊をそっと移した。
アルトは胸のポケットから、大切に持ち歩いていたガラスの小瓶を取り出す。
コルクの栓を抜くと、豊かな森の腐葉土の香りが漂った。
故郷の裏庭で、彼が何年もかけて育て上げた微生物の詰まった黒土だ。
「これに、俺の土を混ぜる」
アルトは小瓶の黒土を、黄金の塊の上から少しずつ振りかけた。
リリアが不思議そうにその手元をのぞき込む。
指先を使って、黄金の塊を細かく砕きながら黒土と混ぜ合わせていく。
手のひらに伝わる感触が、少しずつ変わっていくのを感じた。
ルヴァの体内を通過したことで、塊はすでに適度な水分と極上の有機物を含んでいる。
そこに黒土の微生物が触れた瞬間、目に見えない次元で爆発的な反応が起きるのがわかった。
アルトは水場から少量の水をすくい、土の山に振りかける。
水分量が少なすぎれば発酵は進まず、多すぎれば腐敗してしまう。
前世で培った指先の感覚だけを頼りに、土を握って水分の含み具合を確かめる。
指の間から水が滴らない程度。
握った土が形を保ちつつ、触れると簡単に崩れる硬さ。
見事な水分量だった。
アルトは両手を使って、土の山を下から上へとひっくり返すように混ぜ続ける。
空気をたっぷりと含ませることで、好気性の微生物の活動を促すのだ。
作業を続けていると、アルトの手のひらにじんわりとした熱が伝わってきた。
気のせいではない。
土そのものが、自ら発熱を始めている。
微生物が有機物を分解し、凄まじい勢いで増殖している証拠だった。
隣で見ていたリリアにも、その熱気が伝わったらしい。
「あたたかい。土から、熱が出ているの」
彼女は驚いたように目を丸くし、そっと土の表面に手をかざした。
アルトは額の汗を手の甲でぬぐいながら、力強くうなずく。
「発酵が始まったんだ。この熱が、命を育む力になる」
アルトは岩場にあった枯れ草をかき集め、土の山の上からふんわりと被せた。
急激な温度変化を防ぎ、適度な湿度を保つための保温材だ。
これで発酵床の準備は整った。
ルヴァの残した奇跡の栄養素と、アルトの持ち込んだ微生物。
二つの命が混ざり合い、静かに脈打ち始めている。
外はすでに日が沈み、急激な冷気が岩陰に忍び込んできていた。
しかし、アルトの作った小さな土の山からは、陽だまりのような優しい温もりが絶えず立ち上っている。
その夜、アルトとリリアは発酵床の熱を暖炉代わりに身を寄せ合った。
ルヴァも彼らを囲むように巨体を丸め、外の冷たい風から二人を守っている。
アルトは目を閉じ、土の中で無数の命がうごめき、増殖していく音なき音に耳を澄ませた。
それは、死に絶えたこの荒野が、再び産声を上げるための確かな胎動だった。




