第2話「銀狼の目覚めと黄金の塊」
巨大な銀狼の胴体には、鋭利な刃物でえぐられたような深い傷跡が口を開けている。
傷口からは、赤い血とともに、かすかな光の粒子が漏れ出していた。
呼吸に合わせて、巨体がわずかに上下している。
まだ生きている。
アルトは残された力を振り絞り、銀狼のそばへと這い寄った。
こんな不毛の地で、これほど巨大で美しい生き物が命を落とそうとしている。
彼の中で、土の再生を願うのと同じ、命を慈しむ衝動が湧き上がってきた。
自分の命さえ風前の灯火だというのに、アルトの手は自然とその傷口へと伸びていた。
アルトの指先が、銀狼の傷口の縁に触れる。
熱い。
血の温度だけでなく、尋常ではない熱量がその体内に渦巻いているのを感じる。
魔法による攻撃の痕跡だった。
切り裂かれたというよりは、強大な魔力の奔流で強引に引き裂かれたような不自然な裂傷だ。
アルトは自分の着ている上着の袖を力任せに引き裂いた。
布切れを手に取り、傷口の周りにこびりついた砂と血の塊を丁寧に拭い去っていく。
水はない。
傷口を洗い流す手段もない。
それでも、放っておけば確実に傷口から腐敗が始まる。
アルトは周囲を見渡した。
わずかに生えている枯れ草の中に、薬効成分を持つ植物の痕跡がないかを探す。
前世の知識が、荒野の過酷な植生と記憶の引き出しを照らし合わせていく。
視界の端に、灰色に変色した小さな葉を見つけた。
乾燥しきっているが、強力な抗菌作用を持つハーブの一種に酷似している。
アルトは這うようにしてその葉をむしり取り、自分の口に放り込んだ。
わずかに残った唾液で噛み砕き、ペースト状にしていく。
強烈な渋みと苦味が舌を刺すが、それを構わず吐き出し、裂いた布に塗りつけた。
それを銀狼の傷口にそっと押し当てる。
傷口にハーブのペーストが触れた瞬間、銀狼の巨体が大きく跳ねた。
喉の奥から、地鳴りのような低い唸り声が響き渡る。
周囲の空気がびりびりと震えるほどの音圧だった。
アルトは咄嗟に身構えるが、逃げる体力は残されていなかった。
ゆっくりと、銀狼のまぶたが開く。
現れたのは、黄金色に輝く巨大な瞳だった。
その瞳孔が細く収縮し、アルトを真っ直ぐに射抜く。
捕食者としてのすさまじい威圧感が放たれていた。
もしこの獣がその気になれば、アルトの首など一瞬で噛み砕かれるだろう。
しかし、アルトは視線を逸らさなかった。
恐怖よりも、この美しい命を失わせたくないという純粋な願いが勝っていた。
彼は両手をゆっくりと上げ、敵意がないことを示す。
「大丈夫だ。傷の手当てをしただけだ」
かすれた声でつぶやきながら、アルトはそっと手を伸ばした。
銀狼の鼻先に、自分の手のひらを近づける。
銀狼は警戒するように鼻をひくつかせていたが、やがてその黄金の瞳から険しい光が消えていく。
冷たい鼻先が、アルトの手のひらに押し当てられた。
続いて、大きな舌がアルトの指先をざらりと舐める。
安堵の息を吐き出しながら、アルトは銀狼の銀色の毛並みに指を沈めた。
驚くほど柔らかく、温かい感触が指先を包み込む。
命の熱が、そこには確かに存在していた。
そのとき、背後から乾いた足音が近づいてくるのが聞こえた。
砂利を激しく蹴散らすような、焦燥に駆られた足音だ。
アルトが振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
ボロボロの外套を羽織り、頭からは獣のような耳が突き出している。
獣人の少女だった。
彼女の息は乱れ、肩が激しく上下している。
その視線はアルトではなく、彼に寄り添う銀狼に釘付けになっていた。
「ルヴァ様……!」
少女の口から、悲痛な叫びが漏れる。
彼女はふらつく足取りで駆け寄り、銀狼のそばにひざまずいた。
銀狼――ルヴァと呼ばれたその獣は、少女の顔を見ると安心したように目を細める。
少女は震える手でルヴァの毛並みをなでながら、アルトに鋭い視線を向けた。
敵意と警戒心があらわになった、射抜くような視線だった。
「あなたが、手当てをしてくれたの?」
警戒と戸惑いが入り混じった声だった。
「気休め程度の応急処置だけどな。俺はアルトだ」
アルトは座り込んだまま、静かに答える。
「私はリリア。ルヴァ様をお守りする一族の者よ」
リリアはルヴァの傷口に巻かれた布を見て、わずかに顔をほころばせた。
警戒の糸が少しだけ緩んだのがわかる。
「ルヴァ様は、私たち一族が信仰する神聖な存在なの。でも、人間たちに追われて怪我をしてしまって」
リリアの言葉の端々に、人間に対する深い不信感がにじんでいる。
アルトは何も言わず、ただ静かにうなずいた。
魔法至上主義のこの世界では、獣人や魔法を持たない生き物は常に迫害の対象となっている。
侯爵家を追放された自分の境遇と、どこか重なるものを感じていた。
しばらくして、ルヴァがゆっくりと立ち上がった。
まだ足取りはおぼつかないが、傷の痛みは和らいでいるようだ。
巨大な四肢が地面を踏みしめるたびに、周囲の空気がかすかに震える。
ルヴァはアルトとリリアから少し離れた場所へ歩いていくと、深く腰を落とした。
そして、重い音を立てて巨大な塊を地面に排泄した。
リリアが気まずそうに目を逸らす。
神聖な存在であるルヴァの無防備な姿を見ないようにする配慮だろう。
しかし、アルトの反応はまったく違っていた。
彼の目は、信じられないものを見るように大きく見開かれている。
アルトはふらつく足で立ち上がり、その排泄物へとまっすぐに近づいていった。
「ちょっと、何してるの」
リリアが慌てて止めるが、アルトは構わずその前にしゃがみ込む。
鼻を突く悪臭はまったくない。
むしろ、陽だまりのような暖かな匂いと、かすかな甘さが漂っている。
森の奥深くで、長い時間をかけて熟成された腐葉土の香りに酷似していた。
アルトはそっと手のひらを当てる。
じんわりと熱を帯びていた。
ただの体温ではない。
これから新たな命を爆発的に育むための、底知れぬ熱量だ。
前世の記憶が脳裏を駆け巡る。
窒素、リン酸、カリウム。
いや、そんな単純な化学式を超越した、濃密な魔力と生命力の結晶がそこにあった。
通常、動物の排泄物を肥料として使うためには、長い時間をかけて発酵させ、堆肥化するプロセスが必要不可欠だ。
未発酵のものをそのまま土に混ぜれば、ガスが発生し、根を痛めて作物を枯らしてしまう。
しかし、目の前にあるこの黄金色の塊は違った。
ルヴァという霊獣の体内ですでに見事なバランスで精製され、魔力と栄養素が結合している。
これを適度に乾燥させ、土に混ぜ込めば、どんな不毛な土地であっても瞬時に微生物が繁殖し、豊かな土壌へと変貌するはずだ。
「これは……」
声が、かすれた。
ただの排泄物ではない。
これは、死にかけた大地を蘇らせるための、最上の堆肥の原石だ。
アルトは震える手で、その黄金の塊の一部をすくい上げた。
手のひらから伝わってくる強烈な生命の鼓動が、彼自身の渇ききった体にも活力を与えていく。
見捨てられた不毛の荒野。
しかしアルトの目には、ここが大陸一の黄金の麦畑になる未来が、はっきりと見えていた。
「これなら、いける」
アルトの言葉に、リリアが不思議そうに首を傾げる。
「いけるって、何が?」
「この土地を、蘇らせることができるかもしれない」
アルトは黄金の塊を持ったまま、リリアに向かって力強くうなずいた。
ルヴァがその様子を見て、満足そうに短く鳴き声を上げる。
アルトは胸のポケットに押し込んでいた小さな小瓶を取り出した。
故郷から持ち出した、あの豊かな黒い土。
この種となる土と、ルヴァの残した奇跡の恩恵を掛け合わせれば、不可能が可能になる。
魔法で無理やり搾取するのではなく、自然の循環と命の熱を利用した、真の意味での豊穣。
追放された荒野の真ん中で、アルトの新たな戦いが始まろうとしていた。




