表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放された魔力ゼロの土壌オタク、モフモフ神狼の落とし物で死の大地を豊穣の楽園に変える~土を殺した兄は地脈枯渇で破滅する~  作者: 黒崎 隼人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/16

第1話「追放の荒野と乾いた土」

 冷気を帯びた大理石の床が、膝を通して体温を容赦なく奪っていく。

 磨き上げられた石の表面には、うつむく自身の顔がかすかに映り込んでいた。

 背後には数人の使用人たちが控えているが、衣擦れの音すら立てようとはしない。

 しんと静まり返った広間に、規則的な足音だけが響き渡る。

 硬い靴底が石を叩く音が、少しずつ近づいてくる。

 足先から伝わる微細な振動が、床を這って膝へと到達した。


「魔力を持たない無能め」


 頭上から降ってきたのは、感情の微塵も感じさせない冷酷な声だった。


『こんなことだろうとは思っていた』


 アルトは心の奥底で静かに息を吐き出す。

 肺から押し出された空気が、冷たい床に当たってわずかに白くかすむ。


「我が侯爵家の恥さらしが。土いじりにうつつを抜かすなど、貴族の風上にも置けない」


 次期当主である兄、ガリウスの声が頭上から降り注ぐ。

 アルトはゆっくりと顔を上げる。

 視線の先には、豪華な金糸の刺繍が施された衣装をまとう兄が立っていた。

 ガリウスの瞳には、路傍の石ころを見るような冷ややかな侮蔑の色が浮かんでいる。


「お前など、もうこの家には不要だ。辺境の荒野へ行け」


 きっぱりと言い放たれた言葉が、張り詰めた空気の中を滑っていく。

 アルトは何も言い返さず、ただ静かに兄の靴の先を見つめていた。

 反論したところで、魔法こそがすべての価値を決めるこの世界では何の意味もない。

 魔力を一切持たずに生まれたアルトは、物心ついたときからいないものとして扱われてきた。

 彼に与えられたのは、屋敷の片隅にある小さな裏庭だけだった。

 そこでの土いじりだけが、アルトの唯一の安らぎだった。

 前世で農学部の土壌研究者だったアルトにとって、土は命の循環そのものだった。

 指先で土に触れ、匂いをかぎ、微生物の気配を探る。

 しかし、侯爵家は代々、強力な魔法で大地から無理やり魔力を搾取し、不自然なほどの豊作を維持してきた。


「聞いていないのか。荷物をまとめてすぐに出て行け。二度と私の視界に入るな」


 ガリウスは眉をひそめ、背を向けて立ち去る。

 豪華な衣装の裾が重く擦れる音が、廊下の奥へと遠ざかっていく。

 アルトはゆっくりと立ち上がる。

 膝についた埃を払い、壁際の大きな窓の外へ視線を向けた。

 魔法で無理やり咲かされた色鮮やかな花々が、不自然なほど真っ直ぐに茎を伸ばして揺れている。

 表面上は美しいその庭も、土の匂いは完全に失われている。

 土壌の栄養を魔法で強制的に吸い上げ続けるやり方は、やがて土地そのものを完全に殺す。

 微生物が死滅し、有機物が枯渇した土は、やがて作物を一切育てられなくなる。

 アルトはその危機を幾度となく訴え、自ら裏庭で土壌改良の実験を繰り返してきた。

 だが、魔法に依存しきった彼らにとって、それはただの汚らしい行動でしかなかったのだ。

 アルトは窓から視線を外し、自室へと向かって歩き出す。

 廊下ですれ違う使用人たちは皆、腫れ物に触れるように目を逸らしていった。

 同情の視線すらなく、ただ関わり合いになりたくないという明確な拒絶だけがそこにあった。

 自室に戻ったアルトは、木製の机の上にある小さな布袋を手に取る。

 着の身着のままで放り出される彼に許された持ち物は、水筒とわずかな干し肉だけだ。

 そしてもう一つ、皮の袋に包んだ小さなガラスの小瓶。

 アルトは小瓶を胸のポケットに深く押し込む。

 誰にも見送られることなく、アルトは侯爵家の重厚な扉を背にした。


◆ ◆ ◆


 小さな布袋一つだけを手に、アルトは荷馬車の硬い木板の上に座っていた。

 車輪が石畳を転がるたびに、容赦ない振動が尻から背骨へと突き抜ける。

 馬車の窓から見える景色は、王都の華やかな街並みから、徐々に色彩を失っていく。

 見慣れた緑の平原は次第に姿を消し、ひび割れた茶色の地面が広がり始めていた。

 乾燥した風が窓の隙間から入り込み、アルトの頬をなでる。

 風に乗って運ばれてくるのは、生命の気配が完全に抜け落ちた、乾いた土の匂いだけだった。

 侯爵領の周辺は、魔法による過剰な搾取の代償として、すでに深刻な土壌崩壊が始まっている。

 本来なら、落ち葉や動物の死骸が土に還り、長い時間をかけて豊かな腐葉土を形成していくはずだ。

 だが、魔法で無理やり植物の成長を促進させることで、土の中の栄養素は根こそぎ奪われている。


『これでは、いずれこの土地全体が砂漠になる』


 アルトは胸のポケットの上から、小瓶の硬い感触を確かめる。

 瓶の中に入っているのは、彼が何年もかけて手入れしてきた、柔らかく豊かな黒い土だ。

 蓋を開けて匂いをかげば、森の奥深くのような豊潤な香りがするはずだった。

 しかし、今のアルトにはその土を広げる場所すらない。

 馬車は数日間にわたり、休むことなく進み続けた。

 御者席の男はアルトに一言も話しかけることなく、ただ淡々と馬を操っている。

 日が沈むと寒さが肌を刺し、日が昇るとじっとりとした暑さが体力を奪う。

 硬い木板の上でまともな睡眠もとれず、アルトの疲労は確実に蓄積していった。

 持ち込んだ干し肉は固く、噛みちぎるたびに顎が痛む。

 水筒の水は少しずつ減り、皮の袋を振ると水が跳ねる微かな音が響く。

 その音が聞こえるたびに、残された時間の少なさを突きつけられるようだった。

 窓の外の景色は、ついに緑の欠片すら見当たらない完全な荒野へと変わっていた。

 土は白茶色に変色し、ひび割れが網の目のようにどこまでも続いている。

 風が吹くたびに細かい砂が舞い上がり、馬車の隙間から容赦なく入り込んでくる。

 アルトは目を細め、布袋の端で口元を覆う。

 息を吸い込むたびに、土埃が肺の奥に張り付くような感覚があった。

 数日間の揺れの末、馬車は唐突に速度を落として停止した。

 御者台から降りてきた男が、無言で荷台の扉を開け放つ。


「ここから先は馬車が入れない。降りろ」


 事務的な声でそう告げると、男はアルトが地面に足をついた瞬間に扉を閉めた。

 馬車はすぐに向きを変え、土煙を上げながら来た道を戻っていく。

 遠ざかる車輪の音が風にかき消されると、後には完全な静寂だけが残された。

 アルトは周囲を見渡す。

 見渡す限りの荒野だった。

 遮るものは何一つなく、ひび割れた赤茶色の地面が地平線の彼方まで続いている。

 空には雲一つなく、容赦のない太陽光が直接突き刺さってくる。

 肌を焦がすような熱線が、アルトの体力を容赦なく奪っていく。

 足元の土を踏みしめる。

 乾ききった土は、靴底の下で簡単に崩れ落ちた。


「ひどい状態だ」


 声に出してつぶやくと、喉の奥が張り付くように乾いていることに気づく。

 水筒の中身はもう三分の一も残っていない。

 アルトはしゃがみ込み、手のひらで地面の土をすくってみた。

 指の隙間から、生命力のない細かい砂粒が滑り落ちていく。

 湿り気は一切なく、有機物の欠片すら見当たらない。

 完全に死に絶えた土壌だ。

 前世の知識を総動員しても、水も肥料もなしにこの土地を再生させることは不可能に思えた。

 太陽が中天に差し掛かると、気温はさらに上昇した。

 アルトは布の切れ端で頭を覆い、ただひたすらに歩き続ける。

 どこへ向かっているのか、自分でもわからなかった。

 ただ、このまま立ち止まれば確実に死ぬことだけは理解している。

 一歩踏み出すごとに、乾いた熱風が耳をなでる。

 足元の硬い土を踏みしめる鈍い音が、等間隔で響いていた。

 呼吸をするたびに、熱風が肺の奥まで入り込み、内臓を直接あぶられるような感覚に襲われる。

 額からにじみ出た汗は、あごを伝う前に乾いて消えていく。

 視界の端がぐらりと揺れた。

 熱と疲労で、意識が遠のきかけている。

 喉の渇きは限界に達し、唾液すら飲み込むことができない。

 水筒の中身はすでに空になっていた。

 最後の一滴を喉の奥へ流し込んだのは、数時間前のことだ。


『ここで終わりなのか』


 自嘲気味な思考が頭をよぎる。

 土を愛し、土と共に生きようとした彼が、死んだ土の上で誰にも知られず命を落とす。

 なんとも皮肉な結末だった。

 足がもつれ、アルトは前のめりに倒れ込んだ。

 ひざまずき、そのまま地面に両手をつく。

 熱を帯びた地面が、手のひらを激しく焼く。

 顔を上げると、陽炎がゆらゆらと風景を歪ませていた。

 そのとき、視界の隅に異質なものが映り込んだ。

 赤茶色の景色の中で、そこだけが周囲の光を反射して白く輝いている。

 岩ではない。

 植物でもない。

 アルトは目を細め、熱気でかすむ視界を必死に凝らした。

 巨大な銀色の塊が、少し先の地面に横たわっている。

 這うようにして近づいていくと、かすかに生温かい風が鼻先をかすめた。

 鉄の匂い。

 血の匂いだ。

 さらに距離を詰めると、その銀色の塊の正体がはっきりとわかる。

 それは、馬よりもはるかに巨大な狼だった。

 月の光をそのまま紡ぎ出したような美しい銀色の毛並みが、乾いた風に揺れている。

 しかし、その美しい毛皮のあちこちが赤黒く染まっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ