第12話「経済の包囲網と霊獣の威圧」
侯爵家の軍勢が豊穣商会の境界線に到達する頃には、太陽は西へ大きく傾きかけていた。
アルトの視界に映る兵士たちの姿は、およそ正規軍の威容とはかけ離れた惨憺たるものだった。
磨き上げられていたはずの鉄の鎧は、数日間に及ぶ荒野の行軍で赤茶色の砂埃にまみれ、本来の輝きを完全に失っている。
重装備は太陽の熱をたっぷりと吸い込み、彼らの体力を容赦なく奪う熱の檻と化していた。
兵士たちの顔には深い疲労と飢えが刻まれ、眼窩は落ち窪み、乾ききった唇はひどくひび割れている。
足取りは鉛のように重く、革のブーツが地面を擦る鈍い音が不規則に響いていた。
騎馬隊の軍馬たちも限界に達しており、あばら骨が浮き出た体を揺らしながら、口の端から白い泡を吹いている。
彼らが歩んできた侯爵領からの道のりは、魔力が枯渇し、水の一滴すら存在しない完全な死の土地だったのだ。
しかし、彼らがひび割れた赤茶色の地面から、アルトたちが作り上げた黒褐色の柔らかな土へと足を踏み入れた瞬間、軍勢の動きがぴたりと止まった。
目に見えない壁を突き抜けたかのように、空気の密度と温度が劇的に変化したのだ。
荒野の焦げるような熱風は消え去り、澄み切った冷気と濃厚な命の匂いが彼らを包み込む。
兵士たちの鼻腔に、水路を流れる清らかな水の匂いと、甘く香ばしい麦の香りが強烈に流れ込んだ。
極限の飢えと渇きに苦しんでいた兵士たちの胃袋が、一斉に悲鳴を上げる。
彼らの血走った視線が、大人の背丈を越える黄金色の麦畑と、その奥に見える巨大な紫色の根菜の山に釘付けになった。
武器を握る手が震え、隊列が崩れ始める。
統制された軍隊ではなく、ただ食料にすがりつこうとする飢えた獣の群れに成り下がろうとしていた。
「陣形を崩すな。立ち止まるな。この土地のすべてを制圧し、侯爵家の名の下に接収するのだ」
隊列の先頭で、立派な装飾の鎧を着た騎士団長が声を張り上げる。
しかし、水分を失った彼の声はひどく掠れており、兵士たちの心に届くような威厳は微塵も残っていなかった。
騎士団長はいらだたしげに腰の剣を引き抜いた。
金属が鞘と擦れる甲高い音が、静寂に包まれた農園の空気を無遠慮に切り裂く。
その音が合図となったかのように、麦畑の奥から巨大な銀色の影がゆっくりと姿を現した。
ルヴァだった。
背後から差し込む夕日を浴びて、銀色の毛並みが神々しい光の輪をまとっている。
足音すら立てず、ただ静かに歩みを進めるその姿は、大地の意志そのものが具現化したようだった。
ルヴァは境界線の直前で立ち止まり、黄金色の瞳を細めて騎士団長を見下ろす。
そして、ルヴァの巨体から放たれた身をすくませるほどの威圧感が、音もなく戦場を支配した。
咆哮はない。
牙を剥くことすらない。
ただ、そこに存在するだけで、周囲の重力が倍増したかのような錯覚を引き起こす。
濃密な魔力と生命力の奔流が、兵士たちの肉体と精神を物理的な重みとなって押さえつけた。
息を吸うことすら困難になり、空気が粘り気のある水に変わったかのように肺が軋む。
最前列にいた軍馬たちが、恐怖に耐えきれず次々と膝を折り、口から泡を吹いて地面に倒れ込んだ。
兵士たちの膝もガクガクと震え、自らの体重と鎧の重みを支えきれなくなる。
次々と地面に崩れ落ち、汗ばんだ手から槍や剣が滑り落ちていった。
鈍い金属音が連続して響き渡り、戦意は一瞬にして跡形もなく粉砕された。
その静寂の中、アルトがルヴァの横を通り抜け、ゆっくりと前へ歩み出る。
彼は鎧も剣も身につけておらず、泥で汚れた農民の服を着ているだけだ。
腰に下げた鉄のカマだけが、夕日を反射して鈍く光っている。
「武器を収め、そこから退きなさい」
アルトの静かでよく通る声が、身をすくませるほどの威圧感に押し潰された兵士たちの耳に澄んだ響きを持って届く。
「この土地は、土を愛し、命の循環を守る者だけの場所だ。魔法で土から搾取し、枯渇させ、略奪することしか知らないあなたたちに、この麦を触る資格はない」
騎士団長は地面に手をつきながら、震える顔を上げてアルトを睨みつけた。
「たかが、追放された無能が……。我々は侯爵家の正規軍だ。貴様らが束になろうと、法と武力の前には……」
「その武力で、死んだ土から作物が育ちましたか」
アルトの冷徹な問いかけに、騎士団長は言葉を詰まらせた。
痛いところを突かれた屈辱で、彼の顔が怒りに歪む。
しかし、彼が再び剣を握り直そうとしたその時、軍勢の後方からすさまじい土煙と複数の車輪の音が轟いた。
荒野の地平線を埋め尽くすほどの、巨大な馬車の隊列だった。
馬車には辺境都市の有力な商人たちの紋章が誇らしく掲げられており、よく太った馬たちが力強く地面を蹴っている。
隊列の先頭を走っていた片目の銀狼が、アルトの元へと軽やかに駆け戻り、誇らしげに喉を鳴らした。
馬車が軍勢の背後を取り囲むように停止し、中から豪華な衣装を着た商人ギルドの幹部たちが次々と降り立つ。
彼らの手には、分厚い羊皮紙の束や革張りの帳簿がしっかりと握られていた。
「そこまでにしていただきましょうか、侯爵軍の皆様方」
恰幅の良い商人ギルド長が進み出ると、冷ややかな声で告げた。
「あなた方の領地が抱えている莫大な負債、そして今後の食料輸入に関するすべての契約書がここにあります。もし、豊穣商会のアルト様に一振りでも刃を向ければ、我々商人ギルドは侯爵領との一切の取引を永久に凍結する」
その言葉は、武器を持たない商人からの、最も残酷で決定的な死刑宣告だった。
侯爵領はすでに自力で食料を生産する力を完全に失っている。
外部からの物資の流入を絶たれれば、数週間以内に領地は完全に崩壊し、ガリウスもろとも全滅することは明白だった。
軍を動かすための兵糧すら底を突きかけている彼らに、包囲網を突破する力など残されていない。
「ば、馬鹿な。平民の商人風情が、貴族に向かって……」
騎士団長の顔から完全に血の気が引き、その声は惨めに震えていた。
「土を殺し、民を飢えさせた貴族に、もはや何の価値もありませんよ」
商人ギルド長が冷たく言い捨てると、兵士たちの間で絶望のざわめきが広がった。
彼らはもはや戦う理由すら失い、ただ目の前に広がる黄金の麦畑に向かって、力なく両手を合わせる。
それは命を奪うための動作ではなく、純粋に食料と救済を求める祈りの姿勢だった。
騎士団長の手から剣が滑り落ち、乾いた土の上に力なく転がる。
一切の血を流すことなく、そして一滴の暴力も用いることなく、アルトは侯爵家の武力をいとも容易く無力化した。
夕日が地平線の彼方へと姿を消し、星々が瞬き始める中、豊穣商会の拠点には深く穏やかな静寂が戻っていた。




