第11話「迫る鋼の群れと静かなる迎撃」
太陽が中天に向かって昇り始め、豊穣商会の拠点に力強い日差しが降り注いでいた。
アルトは自らが設計した水路のそばにしゃがみ込み、水面の様子を静かに観察している。
岩山の奥深くから引き込んだ地下水は、ひんやりとした冷気を保ったまま広大な畑の隅々へと行き渡っていた。
澄み切った水の流れの中にはかすかに緑色の藻が揺らめき、新たな命の気配を漂わせている。
彼は指先を水に浸し、その心地よい冷たさを肌でじっくりと味わった。
濡れた指先を黒褐色の土に押し当てると、ふかふかとした柔らかな感触が押し返してくる。
適度な湿り気と、発酵によるじんわりとした熱が指の腹を優しく包み込んだ。
ルヴァの恩恵と微生物が織りなす命の網目は、すでにこの荒野の地中深くまで強固な根を張っている。
水路の周囲には、大人の背丈を越えるほどに成長した黄金の麦が密生していた。
風が吹き抜けるたびに、重みのある穂が互いに擦れ合い、ざわざわと波のような音を奏でる。
その音は、死に絶えていた大地に脈打つ、力強い心臓の鼓動のようにも聞こえた。
アルトは指先に付着した土を丁寧に払い落とし、ゆっくりと立ち上がる。
少し離れた場所では、リリアが新しい鉄のカマを使って手際よく麦を刈り取っていた。
彼女の着ている深い森の緑色をしたチュニックが、黄金色の畑の中で鮮やかな対比を描き出している。
獣人特有のしなやかな筋肉が、上質な綿の布地の下で滑らかに躍動していた。
彼女の頭頂部にある獣の耳は、周囲の微細な音を拾うために時折小刻みに動いている。
リリアの足元には、すでに山のようになった麦の束が整然と積み上げられていた。
その横では、銀狼の群れが満腹の腹を上に向けて寝転がり、のどかな休息の時間を楽しんでいる。
彼らの美しい銀色の毛並みは太陽の光を反射してきらきらと輝き、穏やかな寝息が畑の静寂に溶け込んでいた。
平和な時間が流れる中、アルトの足裏に微かな異変が伝わった。
硬い岩盤を通して響いてくるような、等間隔で繰り返される鈍い震動だった。
水路の水面を見ると、さきほどまで滑らかだった水の表面に、細かな波紋が絶え間なく広がっている。
寝転がっていた銀狼たちが一斉に跳ね起き、東の荒野へ向けて鋭い視線を向けた。
彼らの耳がピンと立ち、喉の奥から警戒を知らせる低い唸り声が漏れ始める。
アルトはただちに岩山の高い場所へと駆け上がり、震動のする方角へと目を凝らした。
陽炎が揺れる赤茶色の荒野の奥に、不自然な土煙が空高く舞い上がっているのが見えた。
風に乗って運ばれてくるのは、商人の馬車が立てる砂埃の匂いではない。
鉄と汗、そして乾いた革が擦れ合う、ひどく生臭くて重苦しい匂いだ。
土煙が少しずつ近づくにつれて、その正体がはっきりと視界に浮かび上がってくる。
分厚い鉄の鎧をまとった兵士たちの隊列と、重そうに足を引きずる軍馬の群れだった。
太陽の光を反射してギラギラと光る槍の穂先が、無数に揺れている。
隊列の先頭には、風に煽られてはためく巨大な旗が掲げられていた。
赤い生地の中央に、魔法の杖と茨を交差させた紋章が金糸で刺繍されている。
『間違いない。侯爵家の軍勢だ』
アルトは目を細め、冷たく研ぎ澄まされた思考を巡らせる。
数日前に街の商人から、侯爵領の地脈が完全に沈黙し、深刻な飢饉が発生しているという噂を聞いていた。
魔法による過剰な搾取の果てに、土壌の微生物が死滅し、土地そのものが命を育む力を失ったのだ。
追い詰められた兄のガリウスが、この豊穣の地と奇跡の作物を奪い取るために武力を行使してきたことは容易に想像がついた。
アルトの背後で、小石が崩れる乾いた音がした。
振り返ると、リリアが青ざめた顔で岩肌にしがみつくようにして立っていた。
彼女の視線は、真っ直ぐに侯爵家の軍勢に釘付けになっている。
獣の耳は恐怖で完全に伏せられ、小刻みに震える両手で自身のチュニックの裾を強く握りしめていた。
「アルト……人間の、軍隊よ。私たちを、殺しに来たの」
リリアの声は掠れ、呼吸が浅く乱れている。
迫害され、理不尽に命を奪われてきた一族の凄惨な記憶が、彼女の心を激しく締め付けていた。
アルトはゆっくりとリリアに近づき、彼女の震える肩に両手を置く。
厚い剣だこができたアルトの手のひらから、静かで確かな体温が彼女の肌へと伝わっていく。
「大丈夫だ。誰にも指一本触れさせない。この畑の麦一本すら、奴らには奪わせない」
アルトの真っ直ぐな瞳と落ち着いた声色が、リリアの過呼吸を少しずつ和らげていく。
「でも、あんな数の兵士と戦ったら、畑がめちゃくちゃになってしまうわ」
「戦わないさ。血と憎しみは、土を最も深く汚染する毒だ」
アルトは手を離し、迫り来る鋼の群れへと再び視線を向ける。
「力で奪おうとする者には、力ではなく、命の循環と経済の理屈で引導を渡す」
アルトは岩を駆け下り、作業用の天幕へと向かって歩き出した。
入り口の分厚い布をめくり、薄暗い内部へと足を踏み入れる。
木の板を組み合わせた簡素な机の上には、街で買い付けた羊皮紙とインク壺が置かれていた。
彼は椅子に腰を下ろすこともなく、立ちのまま羽ペンを手に取る。
インク壺の縁で余分な墨を落とし、羊皮紙の表面に滑らせた。
書き付けるのは、辺境都市の商人たちに向けた緊急の伝令だ。
侯爵軍が豊穣商会の拠点を武力で制圧しようとしていること。
もしこの土地が彼らの手に渡り、魔法による搾取が行われれば、奇跡の作物は二度と生み出されなくなること。
そして、商会との取引を継続したいのであれば、侯爵家が抱える負債の証書と帳簿を持ってただちに合流してほしいということ。
商人たちにとって、豊穣商会はすでに絶対に失うことのできない莫大な利益の源泉となっている。
金の卵を産む鶏を殺そうとする侯爵軍の暴挙を、彼らが黙って見過ごすはずがなかった。
アルトは書き終えた羊皮紙に素早く砂を振りかけ、インクを乾かす。
端から細く丸め、革の紐で固く縛り上げた。
天幕を出ると、片目に傷のある銀狼のリーダーがすでにアルトを待っていた。
アルトは丸めた羊皮紙を狼の首輪にしっかりと結びつける。
「街の商人ギルドへ走ってくれ。お前なら、あの軍勢の何倍も速くたどり着けるはずだ」
片目の狼は短く吠え、地を蹴った。
銀色の弾丸のような速度で、土煙を上げながら荒野の彼方へと消えていく。
アルトは残された銀狼たちに向き直り、静かに指示を出した。
畑の境界線に沿って等間隔に配置につき、決して自分からは攻撃を仕掛けないこと。
ただそこに立ち、霊獣としての威厳だけを放つこと。
狼たちはアルトの意図を完全に理解したように、しなやかな足取りでそれぞれの配置へと散っていった。
ルヴァは自ら進み出て、アルトのすぐ隣に腰を下ろす。
黄金色の瞳が、遠くから迫り来る無数の軍靴を静かに見据えていた。
アルトは鉄のカマを腰に下げ、大きく息を吸い込む。
死んだ土の上を歩んでくる絶望の軍勢を、豊穣の楽園が静かに迎え撃とうとしていた。




