第13話「崩壊する権威と王家の鉄槌」
騎士団長の手から滑り落ちた長剣が、乾いた音を立てて黒褐色の土の上に転がった。
その甲高い金属音は、豊穣の地に満ちていた静寂に吸い込まれ、二度と響くことはなかった。
彼に続いて、背後に立ち尽くしていた数百の兵士たちも、次々と手にした槍や剣を地面へと投げ捨てる。
重い金属が次々と土に落ちるくぐもった音が、波紋のように戦列の奥へと広がっていった。
誰一人として、アルトや商人たちに向かって反抗の声を上げる者はいない。
極限の飢えと渇きに苛まれていた彼らにとって、商人ギルド長の宣告は、戦う理由を根底から消し去る決定的な一撃だった。
最前列で膝をついていた若い兵士が、ふらつく手で足元の黒い土をすくい上げる。
彼のひび割れた唇から、嗚咽のような吐息が漏れ出した。
土からは、彼らが長年嗅いだことのない、濃密で甘い命の匂いが立ち上っている。
魔法によって搾取され、白く干からびた侯爵領の死んだ大地とは対極にある、真の豊穣の香りだった。
若い兵士はすくい上げた土に顔をうずめ、肩を震わせて泣き崩れた。
その姿を見た他の兵士たちも、次々と武器を捨てて土の上に這いつくばり、枯渇した涙を流し始める。
「よく耐えてくれましたね、アルト様」
恰幅の良い商人ギルド長が、豪華な上着の裾を揺らしてアルトの隣へと歩み寄る。
「彼らの暴走を止めるには、これが最も確実な方法でした。侯爵家の借入金を示す証書は、すでに我々ギルドがすべて買い取っております」
ギルド長は分厚い羊皮紙の束を胸元で軽く叩き、穏やかながらも冷徹な視線を兵士たちへ向けた。
「侯爵領への物資の流入を絶つ。その事実だけで、彼らの帰る場所は実質的に消滅したのです」
「……感謝します。これ以上の無用な血が流れずに済みました」
アルトは腰に下げていた鉄のカマから手を離し、深く息を吐き出した。
張り詰めていた筋肉から力が抜け、指先に微かな痺れが走る。
アルトの背後から、リリアが駆け寄ってきた。
彼女は新しい綿のチュニックの袖で目元を強くぬぐいながら、アルトの背中にそっと額を押し当てる。
獣の耳が安堵で力なく垂れ下がり、彼女の細い肩が小刻みに震えていた。
アルトは振り返り、リリアの背中に手を回して静かになでる。
手のひら越しに伝わってくる彼女の確かな体温と柔らかな呼吸が、アルトの心に深い安らぎをもたらした。
「もう終わったんだ。誰も、この畑を奪うことはできない」
アルトが優しくささやくと、リリアは涙で濡れた顔を上げ、何度も強くうなずいた。
ルヴァは役割を終えたとばかりに威圧感を完全に収め、黄金色の瞳を細めて大きなあくびをする。
そして、そのまま黒褐色の柔らかな土の上に横たわり、心地よさそうに長い尻尾を揺らした。
商人たちが馬車から荷下ろしを始め、兵士たちに向けて水と硬く焼かれたパンの配給を開始する。
それは慈悲ではなく、彼らを豊穣商会の新たな労働力として組み込むための、ギルド側の冷徹な計算に基づく投資だった。
兵士たちは泥にまみれた手でパンを受け取り、喉を詰まらせながら夢中で咀嚼を続けている。
かつての威厳を完全に失い、地面にへたり込む騎士団長の姿を見下ろし、アルトは西の空へと視線を向けた。
太陽は完全に沈み、夜の帳が荒野を包み込もうとしている。
この冷酷な事実が、遠く離れた侯爵邸に届くのも時間の問題だった。
◇ガリウス視点
夜の静寂が支配する執務室は、まるで墓所のような重苦しい空気に満ちていた。
部屋の隅に置かれた銀の燭台で、数本の蝋燭が頼りなく炎を揺らしている。
ガリウスは血走った目で、机の上に広げられた白紙の羊皮紙を睨みつけていた。
西の辺境へ軍勢を派遣してから、すでに数日が経過している。
早ければ今日の夕刻には、制圧を完了したという伝令の鳥が舞い込んでくるはずだった。
しかし、窓の外に広がる死んだ大地からは、乾いた風の音以外、何の報告も届かない。
「遅い。あの無能の首一つ持ち帰るのに、どれだけ時間をかけているのだ」
ガリウスはいらだたしげに爪を噛み、革張りの椅子から立ち上がった。
足元の分厚い絨毯を苛立たしく踏みしめながら、窓辺へと歩み寄る。
月明かりに照らされた庭園は、どこまでも白くひび割れ、不気味なほどの静けさを保っていた。
地脈の魔力は完全に枯渇し、この領地は今や巨大な砂漠と何ら変わりはない。
早くあの奇跡の作物と豊かな土地を手に入れなければ、領民の暴動は邸宅の門を打ち破るだろう。
そのとき、執務室の重厚な扉の向こう側から、多数の硬い足音が近づいてくるのが聞こえた。
軍靴の響きだ。
ガリウスの顔に、歪んだ歓喜の笑みが浮かび上がる。
『ようやく戻ってきたか』
彼は自身の乱れた襟元を正し、尊大な態度を作って扉の方へと向き直る。
扉が乱暴な音を立てて外側から蹴り開けられた。
しかし、そこから姿を現したのは、泥と疲労にまみれたガリウスの私兵たちではなかった。
月光と蝋燭の光を反射して青白く輝く、純白の全身鎧。
肩には、王家の紋章である双頭の鷲をあしらった青いマントが重々しく垂れ下がっている。
王宮直属の近衛騎士団だった。
「な、何事だ。王家の騎士が、無断で侯爵の執務室に踏み込むなど……」
ガリウスの声が裏返り、喉の奥が引きつった。
数人の騎士たちが無言で部屋に侵入し、退路を断つように壁際へ展開する。
最後に、装飾の施された兜を小脇に抱えた初老の騎士隊長が、重い足取りで進み出た。
彼の瞳には、冷ややかな軽蔑の色がはっきりと浮かんでいる。
「ガリウス侯爵。貴殿に、王家からの勅命を伝える」
騎士隊長は懐から、赤い封蝋が施された巻物を取り出し、無造作に広げた。
「一、代々にわたる過剰な魔法搾取により、領地の地脈を破壊し、回復不能な損害を与えたこと。二、飢饉の事実を隠蔽し、民の救済を怠ったこと。三、王家の許可なく私兵を動かし、正当な商取引を行う市民へ武力侵攻を企てたこと。以上の罪により、貴殿の爵位を直ちに剥奪する」
冷徹な声が、執務室の壁に反響してガリウスの鼓膜を容赦なく打ち据える。
「爵位の……剥奪だと。馬鹿なことを言うな。私は侯爵だ。この土地の正当な支配者だ」
ガリウスは目を血走らせ、両手を激しく振り回した。
「それに、武力侵攻だと。西の辺境にいるのは、我が家から追放した無能な弟だ。あのようなゴミから土地を取り上げて何が悪い」
「その『無能な弟』殿が、貴殿が殺した大地を蘇らせ、今や辺境都市の経済を根底から支えているのだ。王家は豊穣商会を国家の重要拠点と認定した。貴殿の軍勢はすでに武装解除され、ギルドの監視下に置かれている」
騎士隊長の言葉に、ガリウスの膝から力が抜けそうになる。
自分の軍隊が、戦うことすらなく敗北したというのか。
あの、魔力すら持たない路傍の石以下の弟に。
屈辱と絶望が入り混じり、ガリウスの思考は完全に沸点を突破した。
「認めない。私は選ばれた人間だ。魔法こそが絶対の力なのだ」
ガリウスは右手を前に突き出し、自身の内に眠る魔力の回路を全開にする。
侯爵家に代々伝わる、強大な炎の魔法陣を空中に描こうとした。
指先から赤い光の粒子が漏れ出し、空間を焼き焦がすような熱が発生しかける。
騎士たちが一斉に剣の柄に手をかけた。
しかし、ガリウスの魔法が形を成すことはなかった。
彼の魔法は、足元の地脈から無尽蔵の魔力を吸い上げることで成立する術式だ。
だが、彼が魔力を引き出そうと床へ意識を向けた瞬間、そこには果てしない虚無だけが広がっていた。
生命の息吹も、魔力の残滓も、一切が存在しない完全な空洞。
無理やり吸い上げようとした反動が、ガリウスの肉体を直接襲う。
「が、あぁぁっ」
ガリウスの指先から発生していた赤い光が、砂のようにポロポロと崩れ落ちて消滅する。
魔力の逆流が全身の神経を焼き切り、彼は激しい痙攣とともに大理石の床へ無様に倒れ込んだ。
肺から空気が押し出され、口の端からよだれが垂れ下がる。
豪華な金糸の刺繍が施された服が、自身の汗と埃で汚れていく。
「拘束しろ」
騎士隊長の短い命令とともに、二人の騎士が進み出る。
床に這いつくばるガリウスの両腕が背後に回され、重く冷たい鉄の枷が手首に食い込んだ。
金属の冷たさが肌を刺す痛覚だけが、彼に残された唯一の現実だった。
立ち上がる力すら失った彼は、騎士たちに両脇を抱えられ、引きずるようにして部屋の外へと連行されていく。
廊下へ引きずり出される直前、ガリウスは最後に窓の外を見た。
月光に照らされた、死に絶えた灰色の領地。
魔法の力に溺れ、命の循環を軽んじた男の、それがすべてを失った最後の景色だった。




