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「うぅん……お水を持ってくるべきだったかしら?」
父や使用人たちに内緒にして夜中に部屋を抜け出し走り込みをしていたルザミラはそうつぶやいた。彼女はこの世界が前世でプレイしたゲーム『トリスタ』の世界であると知っている。トリスタでは選択したキャラクターが走り込みを行うミニゲームがあり、それによって育成したいキャラクターの素早さや防御力と言ったステータスを上昇させることができたのだ。ゲームどおりに力を身につけられるのであれば死亡フラグも回避できるかも知れない。
「お水でございます」
「あぁ、ありがとう」
斜め後ろから差し出されたコップを自然に受け取り水を口にする。走りに走ってカラカラに乾いた喉に冷たい水が染み渡って行き格別なうまさが感じられる。
しかし、ルザミラは誰にも気づかれないようこっそり抜け出して特訓をしていたはずである。一体誰がどうして水を差し出せるだろうか。そんな疑問を抱いたその瞬間にその誰かが視界に映る。
「お嬢様、何をなさっておいでですか?」
「ひょぇっ! あ、アガネル!?」
「はい、アガネルにございます」
ルザミラの特訓の可能性を考慮して持ってきた水が無駄にならなくてよかった、とアガネルは思う。わざわざ調理場まで寄り道をしてきたのだ。これでもしもルザミラではない変質者でもいたらきっと手が出るほどの怒りを覚えていただろう。変質者がいたのなら無駄になる労力をかけていなくとも手は下すのだが。
ルザミラは驚いた様子で手をわなわなと震えさせている。寝ろと怒られるだろうか、父に報告されてしまうだろうか、そんなことを心配しながらルザミラは尋ねた。
「どうしてわかったのよ」
「執事ですので」
「えぇ……やっぱり執事って凄いのね」
アガネルはポケットから取り出したハンカチでルザミラの頬についた砂の混じった汗を優しく拭き取る。時間遡行したかも知れないお嬢様にはこの屋敷の人間に対して信頼するという発想がない可能性もある。もしもそうだとしたらそれは酷く悲しいことだ。そんなことを思ったアガネルは思わずルザミラの頭を撫でていた。
頭を撫でられたルザミラは何故撫でられたのか理解できずにキョトンとする。夜中に部屋を抜け出して何をしているのかと怒られることを覚悟していただけにこれは拍子抜けである。よく見てみると、アガネルは少し寂しげに目を細めている。
「アガネル……?」
「ああ、申し訳ございません」
「そうじゃなくて……その……」
今下手に話して地雷を踏んでしまわないだろうかとルザミラは言葉に詰まる。何がそんなに寂しいのか、どうして我儘だったルザミラに優しくしてくれるのか、知りたくても聞いてはいけない気がした。
黙り込んでしまったルザミラを見て、アガネルはなにか間違えてしまっただろうかと思案する。急に頭に触れてしまったことが不快だったというわけではないようだが、それ以上のことはアガネルには分からなかった。仕方もないので、空気を変えるためにアガネルはルザミラに問いかける。
「時にお嬢様、私の疑問に答えを与えていただけますか?」
「う……答えなきゃダメ、よね……」
どうやらルザミラは叱られていると思っているらしい。彼女を怯えさせることも、彼女に自白を強要することも、アガネルの本位ではないので一拍置いて会話を続ける。
「答えられないのであらば詮索は致しません。しかし、このような時間に、私どもも旦那様も心配します」
「そ、そうよね……えっと、私ね、強くなりたいんですの。辺境伯の娘として、強く賢い淑女になりたくて……」
「それで走っておいででしたか」
「ええ、そうなの! やっぱりまずは体力が必要でしょう?」
怒られているわけではないのだと察したルザミラは少し元気が出てきたようだ。先程まで言い訳を探すように泳いでいた視線がしっかりとアガネルに向けられている。
アガネルはふっと軽く息をつき、笑っていない目をしてルザミラの方法に口を出す。
「お嬢様、体力は寝なければつきませんよ」
「そ、そんなっ!」
健康のためには睡眠が重要だ。それは前世の知識とは無関係にアガネルにとっての常識であった。つまりこれはこの世界でも通用する人体の仕組みの問題である。この領内にある冒険者ギルドにおいても、睡眠などの体調管理を徹底した人間のほうが成果を上げて長く生存する傾向にある。
ショックを受けたままのルザミラを放っておくことは避けたい。そう思うアガネルは元からルザミラの特訓そのものに反対するつもりは毛頭ない。睡眠時間を削らず、信用できる大人の庇護の下、安全に特訓するのであれば何も言うことはないのである。
「私がお嬢様の期待に答えられる師となってくれる冒険者を探してまいりますので、どうか昼間に訓練なさってくださいまし」
「そ、そうね……」
ルザミラは消極的に同意した。時間を戻る前、あまりにも多くのことをしでかしてしまったルザミラは父にさえも見放されたのだ。遡行によって原因である悪事の大半はなかったことになったとは言え、もしも父などの周囲の人間に見放された原因がそれだけではなかったら。いつかまた身近な人々に厳しい視線を向けられたら。訓練することを知らせてもし敵対的な関係になれば手の内を全て知られてしまうことにもつながる。
「裏庭の一角に、私が管理を任されている場所がございます。そこは10時から昼ごろまでは基本的に私以外の者は立ち入りませんので、知られたくないのであらばそこを使っていただいて構いません」
「い、いいの? 迷惑じゃない?」
ルザミラはやはり、ベルリツや他の使用人たちに訓練のことを知られたくないのだろうと察したアガネルはそう提案した。ルザミラもルザミラで、遡行前に唯一最後まで自分のために行動してくれたアガネルだけは何があっても見捨てられないと無意識下で信じている。
なるべく誰にも知られたくないであろう秘密を自分のエゴのもと解き明かしてしまったのだと思っているアガネルは、ルザミラの望みを叶えるために更に他の人間を巻き込まねばならない矛盾に僅かに罪悪感を覚える。
「よろしいのです。私は旦那様に雇われてはいますがルザミラ様の専属執事。私はルザミラ様のものであり、私の全ては貴女様のためにあるのです。他の誰がお嬢様の願いを止めようとしても私だけは貴女の願いを諦めはしません」
前世の物語でも令嬢たちは自身の特訓を人に隠すことが多かったように思う。それは描写が省かれることが多かったためにアガネルが作り出した解釈に過ぎないかも知れないが、本人が隠したいというのならアガネルにそれを公開するつもりなど一切ない。『秘密は女を美しくする』とは誰が言った言葉だったか、アガネルにはもう思い出せない。
「アガネル、ありがとう。でもね、自分を物みたいに言うのはよくないわ」
「ふふっ、ルザミラ様は法律にお詳しいですね。昨年公布された1120年法律第15号『使用人の諸権利に関する調整のための法律』の内容でございますね」
「え、ええ、そのとおりでしてよ」
「その法律が思考されるのは再来年の11月からですので現時点では私のような使用人は主の所有物、つまり物であるという扱いですがね」
「え!? そうでしたの!?」
ころころと表情が変わるルザミラのその愛らしいことは言葉にできない。少し気が緩み、からかいすぎてしまっただろうかと思いながらアガネルは手を差し出した。
「各家々でのルールの改定が間に合うよう、3年の猶予があるのです。詳しく知りたいのであれば明日にしましょう」
「そ、そうね……ありがとう、アガネル」
ルザミラは大人しくアガネルの手を取り部屋に戻る。この世界はまだ知らないことだらけなのだと思いながら。




