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アガネルはお嬢様のことを妹を愛するように強く愛している。そんな彼にとってはお嬢様のお願いごとに答えることこそ最高の名誉である。
「アガネル、家庭教師の先生を呼んでいただけないかしら?」
「ええ、お嬢様の仰せのとおりに」
だからこそ、彼女への違和感を強く感じてしまうのだ。お嬢様は昨日まで勉強を嫌がり、少しのミスで家庭教師を追放しようとする物語の幼少期の悪役令嬢そのものだったというのに、今はこうして自ら家庭教師を呼び出し自発的に行動しようとしている。
嗚呼、あの天真爛漫で暴虐舞人なお嬢様に少しずつ礼儀作法を教えて幸せになる手伝いをすることを楽しみにしてきたというのに、アガネルは少し残念に思ってその思いを全て心の奥底に隠しこむ。
「カラム様を呼ぶということは、彼女はお嬢様の敵ではないのでしょうね……。ルザミラお嬢様……一体誰の何まで把握してらすのか」
万が一にも自分が転生者であることはお嬢様に知られてはならない。転生者などという存在を知ることで文明を急激に作り変えてしまえば彼女の幸せを守れる自信はないのだから。しかし、アガネルの名前すらお嬢様は把握していなかった。そうなればきっとその秘密はまだ彼女に知られていない。
転生してからそれなりに経つ彼には前世で読んだ物語の一つ一つを詳細に思い出すことはもうできない。しかし、ルザミラはもしかしたら転生前に読んだ漫画の登場人物だったかも知れないと思うほどに美しい。10人に聞いて10人が美しいと答えるほどの美貌ではないが、アガネルのオタク用語的意味の性癖を正確に貫くビジュアルの彼女はまさしくアガネルへの特攻持ちの強キャラクター。あの吸い込まれるブラックホールのように綺麗なストレートの黒髪に、ルビーのような美しい紅眼。意思を感じさせるツリ目なんかはアガネルの心を狂わせる。
「カラム様、執事のアガネルにございます。ただいまお時間よろしいでしょうか?」
扉を軽く打ってそう声をかける。するとすぐに扉が開かれ、明るい茶髪を後ろで1つのお団子状にまとめた女性、家庭教師のカラムが姿を現した。彼女の緑色の瞳は観察するようにアガネルの全身を映し、アガネルは自身が警戒されているのだろうと思った。
カラムのいた控室の時計が3度ほど秒針を刻んだとき、彼女は静かな声で言葉を発した。
「何の御用でございましょうか」
突き放すようなその声音に、この屋敷の者たちへと向けられた不信感が垣間見える。それもそのはずだ、現在彼女の生徒はルザミラただ一人、これまでに辺境伯らと築き上げたらしい信頼関係も彼女をこの場に呼び寄せる以上の役目はすでに果たさなくなるほどルザミラは彼女を拒絶してきたのだ。何度も何度も解雇してくれと父親である辺境伯へ進言するのを見てきたアガネルには彼女らの間にある大きな溝の存在などわかりきったものである。
しかし、どのような事情があろうとアガネルにとっての最優先事項はお嬢様の幸福。そのために彼女の指示はきちんと遂行する必要がある。
「ルザミラ様がお呼びです」
「またあの子は何を企んでいるのでしょうね」
「そうはおっしゃらず……」
「貴方、一体何様なのかしら。あの子は私のことが嫌いで、私もあの子のことが得意ではありません。新人でもないのにどうしてそれがわからないというのでしょう」
予想外に強い拒絶にアガネルは目を細める。言葉を遮られるほどとは骨が折れそうなものだ。
「カラム様、お嬢様はお変わりになりました。それはもう天地をひっくり返したかのようなご変貌ぶりにございます」
「なにを言っているの?」
こうなれば強い言葉で気を引くより他にない。そう決心したアガネルは言葉を探す。
ルザミラ以外の何物も、アガネルにとってはどうだって良い他人である。そんな彼が他人に向けて説得の言葉を振るうなど至難の業であり、ここはルザミラの様子を一度でも見ようと思わせたら勝ちの絡め手で落とすより他にない。
「これまでのルザミラ様は私ども使用人に対しても粗探しばかりをなさるお方でしたね、お兄様方とは違うその態度がカラム様にとっては大変煩わしいものだったのでしょう」
「ええ、まったくその通りだわ」
「それでは先程のお嬢様のことをお教えいたしましょう。まだ、旦那様にもお伝えしていない情報にございます」
ごくり、と唾を飲む音が聞こえた気がした。
「先ほどお目覚めになったお嬢様はまず、私に本日の日付をご確認なさりました」
「あの子がそんなことをするなんて思えないのだけど……」
「ええ、ですので私も驚きましたとも。これまでにそのようなことをなさったことは一度もございませんでしたから」
事実だけをただ淡々と語れば良いのだ。こういった相手にわざわざ嘘を混ぜてまで説得しようと失敗する、その程度の人間理解しかないという自己認識のアガネルは淡々と続ける。
「次に彼女は私に感謝の言葉を述べました。他者の行動の粗ばかりを探していたあのルザミラ様がです」
「なんてこと、まるで悪魔が抜けたかのような変わりようではありませんか」
「はい、否定はしません。それほどまでにお嬢様はお変わりになったのです」
上音傑という名の日本人だったとき、アガネルは、推しのことを守れる身近な人間に、ただし恋人以外の立場の人間になりたいと思う性分であった。きっと今の人生はそんな彼の望みを神様が叶えてくれたものなのだから、ルザミラの悪印象という試練も乗り越えこの幸せを永遠のものにしたいと願うことは当然である。
「さらには、お嬢様は本日ご自身で質素な緑色のドレスをお選びになりました。その色はまさしく、カラム様、貴女のその若葉のような瞳と同じ色にございます」
この国において、これから会おうという相手の瞳にドレスの色味を揃えることを瞳合わせと呼び、深い敬愛を示そうとする行為とされる。この場合においては、ルザミラがこれまでの過ちを認め誠意を示そうとしていることを表す。
カラムは閉じている口に反して大きく目を見開いて驚いている。まさかルザミラがそのようなことをするなどとは思っても見なかったのである。これこそギャップ萌えの入口といったところかと内心考えたアガネルは一度深く頭を下げる。
「カラム様、どうか御一度お嬢様にお会いになっていただけませんか」
ルザミラが未来で殺された可能性については言及できない。それをするとお嬢様に自身の秘密を知られるリスクにも、お嬢様を狙う不逞の輩の行動を誘発することにも繋がりかねない。彼女が未来で殺されたかも知れないと思うだけで腸は煮えくり返るが、ここは冷静にルザミラの味方になってくれる人間を増やすべきであることがわからないアガネルではない。
「良いでしょう、ルザミラ様の様子が本当に変わっているのであればそれでよろしい」
「カラム様、感謝申し上げます」
「ただし、貴方の言葉に嘘があったときは……」
「ええ、私のことは煮るなり焼くなりお好きにどうぞ。私は私の守るべき人のためならばどんなことにも耐えてみせましょう」
「貴方になにかをするつもりはないですが良い覚悟ですね」
これで第一段階は突破だ。彼はカラムを連れすぐさまルザミラの待つ部屋に引き返した。




