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悪役令嬢や悪役令息が主役の物語が流行っていたことをアガネル・オールゲルは知っていた。彼はちょうどそのくらいの時期までの日本での記憶のある転生者だからだ。そんな彼は内心焦っていた。
「今日は何年の何月何日だったかしら?」
今朝、アガネルが仕えているフェリゲラーノ家のお嬢様、ルザミラ・フェゲラーノを起こしに向かった際に彼女がはなった発言がこれである。これではまるで時間遡行モノの冒頭、死んで時間を戻った令嬢の第一声ではないか、とアガネルは思う。しかし、アガネルは執事である。お嬢様の問には冷静に答える義務があるのだ。
動揺を悟らせないように配慮して、とは言え数秒の沈黙は空けてしまったのだが、作り笑顔でそれを誤魔化してアガネルは答える。
「ペベル歴1121年の4月2日にございます」
「そう、ありがとう……ええと……あなたの名前は何だったかしら?」
「アガネルでございます」
「そう、感謝しますわ、アガネル」
口調が安定しない、お嬢様を観察してそう感じたアガネルは彼女の顔色を伺う。体調には問題なさそうな健康的な肌、なにか怖いことでもあったかのように僅かに引きつった作り笑顔、シーツに触れた小さな手は、その周りに細かい波がたくさんできるほど強くシーツを握りしめて小刻みに震えている。
ああ、お可哀想にお嬢様。きっと恐ろしい目に合われたのだろう。お嬢様を怯えさせるなどとは、何者かは知らないが生かしておけない。必ずや抹殺してくれよう、そんな思考が浮上する。
「本日は歴史と魔法の教師であるカラム様がいらしております」
「そう……ありがとう」
お嬢様の言葉に思わず眉が寄る。彼女は勉強が嫌いで、昨日までは家庭教師が来ていると聞いただけで癇癪を起こしていたはずだ。よもや、力不足を痛感しながら死んで時間遡行をしたのではなかろうか。もしもそうなら、かような無力感を再び味合わせるわけには行かない。自信を喪失して心が傷ついている可能性もある。彼女の心をケアしたいところだが、一介の使用人であるアガネルにできることなどたかが知れている。
もしくは、憑依転生の線もないだろうか。そんな予想もしてしまう。アガネルは心の底からルザミラのことを推している。そんな大事な彼女が転生者に乗っ取られたのだとすれば、それは世界の損失だ。しかし、彼女の体は彼女の体、憑依転生だとしても怒りを向けることはできない。
「本日のお召し物は何色がよろしいでしょうか?」
「そうですわね……緑色のドレスはありますこと?」
「ええ、もちろんにございます。装飾はどのように?」
「一番シンプルなものでいいわ」
ああ、やはりおかしい。彼女のお気に入りのドレスはピンク色のフリルとレースで豪華に可愛らしく装飾された白いもののはずだ。その影響からか彼女の衣装室にはピンクや白のドレスが溢れかえり、その他の色は2着ずつしかないほど。その好みから大きく外れたシンプルな緑色のドレスをご所望だとは、十数年先の未来から遡行してきたか憑依転生したとしか思えない。いや、これは流石に思考の飛躍だろうか、などとアガネルは考えた。
「それではお持ちしましょう。こちらのミルクを飲みながらお待ちくださいませ」
そう言ってアガネルが温かいミルクを手渡すと、ルザミラはホッとしたようにそれを受け取った。震えていた手は柔らかくカップを包み込み、まるでふわふわの綿毛のように見える。
アガネルはルザミラの部屋の中にある衣装室の扉に手をかけながら彼女の現状について考察する。ルザミラお嬢様が時間を遡行したというのなら、きっとそれは今すぐの時間軸ではないだろう。なぜなら服の趣味が昨日までと打って変わって妙に大人びているからだ。これはかつて日本人だった頃に読んだ死に戻り令嬢モノの特徴と一致する。しかしそれは、悪役転生モノにも言えること。どちらにせよ、お嬢様の危機であることに変わりはないだろう。
目的の緑色のドレスを手に取りお嬢様の元へと戻る。
「こちらでよろしいでしょうか」
「ええ、ありがとう」
今日のお嬢様はやけに感謝を口にする、とアガネルは感じる。昨日までは使用人の仕事に対する粗探しをしては文句ばかり言っていた幼少期の悪役令嬢を体現していたルザミラが、だ。昨日までの彼女であれば、言われた通りのドレスに難癖をつけ、指示を捻じ曲げて無理矢理間違ったドレスを持ってきたことにしていたはずだ。
これは彼女の父親である辺境伯に伝えるべき案件かも知れない、そんな思考が浮上する。
「ねえ、ホットミルクを持ってきてくれるのは貴方だけだったと記憶しているのだけれど、どうして貴方はホットミルクを入れてくださるの?」
お嬢様のその問いは、彼女が乗っ取られたわけではないことの証明だと言える。アガネルが彼女にホットミルクを入れて渡していることはアガネル自身とルザミラしか知らないはずなのだ。お嬢様を起こす当番のたびにホットミルクを入れて渡す執事といったキャラクターが描かれた物語に覚えもない。
習慣化こそしているが、ホットミルクを渡すという一連の流れは偶然の産物として始まったものなのだ。
「それはですね、お嬢様が3歳の頃のお話になります。今からおよそ2年ほど前のことですね」
「それって、お母様がお亡くなりになった年……」
「ええ、あの日、奥様が亡くなられて棺のそばから離れようとしなかった貴女に何かを口にしていただきたく思った私はホットミルクを入れてお持ちしたのです。あの頃の私はまだ雇われて日も浅く、ルザミラ様の好物がリンゴであると存じ上げませんでしたからね」
そう、ルザミラの好物はリンゴなのだ。特にアップルパイには目がないらしく、それはお茶の時間には必ずアップルパイをせがむほど。
「そうしたら、幼い貴女はそれを口にして笑顔でこう言ったのです、『とてもおいしいわ、お母様にも飲ませてあげて』と」
「そんなこと、言ったかしら?」
「ええ、ハッキリと覚えておりますとも。それからですね、私は貴女に笑顔でいてほしくて、ついホットミルクを入れてしまうのです」
今思えば、あれはルザミラがホットミルクを好きだというわけでもなくただ、空いたお腹にミルクの優しい甘さが広がり美味しく感じただけのことだったのだろう。そうだと考えていたとしても、彼女の平穏を守る決意を具現化する儀式のように感じられるためやめられないのが実情なのだが。
ドレスを着せられながらルザミラはその大きくすこしツリ目な美しい赤色の瞳でアガネルのことを見つめる。アガネルはこれに弱かった。その瞳に見つめられるだけで多幸感を抱き、一生をかけて守り通したいという気持にさせられるのだ。
「できましたよ、本日もルザミラ様は大変お美しいです」
「いえ、それは貴方がた使用人の皆のおかげよ、ありがとう」
お嬢様のその微笑みに、今日も生きてきてよかったと感謝する。彼女の異変の原因は必ず見つけ出して排除しなければならないが、感謝を覚えたお嬢様には何の罪もなく、ただただ天使のように思える。
「それでね、アガネル、私お願いしたいことがありますの」
「ええ、この不肖にできることであらばなんなりと」
お嬢様の幸せのためならば、自分は何だってやってみせる。誰にも彼女を害させなどしないのだ。




