8 帰ってきた熱
母が帰ってきたのは、夜も深くなってからだった。
雨の匂いをまとって。
濡れた外套を羽織ったまま、静かに扉を開ける。
「お母さん!」
エマがぱっと顔を明るくする。
セラも立ち上がった。
リディアは少し驚いたように笑う。
「まだ起きてたの?」
その声を聞いた瞬間。
セラの身体から、少しだけ力が抜けた。
帰ってきた。
ちゃんと。
生きて。
それだけで涙が出そうになる。
けれど。
セラはまだ安心できなかった。
前の人生でも、母は一度帰ってきている。
問題はその後だった。
「セラ?」
リディアが不思議そうに首を傾げる。
セラは慌てて目元を擦った。
「……なんでもない」
「変なお姉ちゃん」
エマがくすくす笑う。
その穏やかな空気に、セラは小さく息を吐いた。
まだ。
まだ間に合う。
そう信じたかった。
その時だった。
「……ごほっ」
小さな咳だった。
本当に。
誰も気にしないような咳。
けれど。
セラだけは凍り付いた。
空気が止まる。
笑顔が消える。
リディアはすぐに口元を押さえ、困ったように笑った。
「ごめんなさい。少し冷えたみたい」
前の人生でも、最初はそうだった。
小さな咳だった。
ただの風邪みたいに。
だから。
誰も気づかなかった。
「……お母さん」
セラの声が震える。
リディアは大丈夫だと言うように、優しく笑った。
「平気よ」
違う。
平気じゃない。
知っている。
この咳を。
この始まりを。
セラの喉が苦しくなる。
「今日はもう寝て」
掠れた声だった。
リディアは少し驚いた顔をしたあと、ふっと目を細める。
「心配してくれてるの?」
「……っ」
違う。
心配なんかじゃ足りない。
怖いのだ。
また失うのが。
リディアはセラの頭を撫でる。
温かい手。
昔から変わらない。
「大丈夫」
その言葉に、セラは泣きそうになる。
前の人生でも、母はそう言った。
そして――。
「……っ」
嫌だ。
その先を思い出したくない。
その夜。
セラは眠れなかった。
隣ではエマが寝息を立てている。
静かな夜。
なのに胸の奥だけが、ずっと騒がしかった。
怖い。
また失う。
また、何もできない。
「……っ」
その時。
小さな咳が聞こえた。
セラは飛び起きる。
部屋の向こう。
リディアのいる場所からだった。
続けて、苦しそうな咳。
セラの血の気が引く。
「お母さん……?」
返事はない。
代わりに、浅い呼吸音だけが聞こえる。
嫌だ。
違う。
やめて。
知ってる。
この音を。
前の人生で、何度も聞いた。
エマが弱っていった時の音。
「お母さん!」
セラは駆け寄る。
リディアは熱に浮かされたように、苦しそうな呼吸をしていた。
頬が赤い。
額が熱い。
前の人生と、同じだった。
「……っ」
視界が滲む。
怖い。
苦しい。
泣きそうになる。
前の人生と同じだ。
同じなのに。
今度は違う。
今度は知っている。
今度は薬もある。
今度はまだ、間に合う。
セラは震える手で、リディアの額へ触れた。
温かい。
まだ生きている。
まだ。
間に合う。
「……絶対に」
掠れた声が落ちる。
涙で滲む視界の中で。
セラは母の手を強く握った。
「絶対に助ける」




