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2  『申し訳ございません』


 薄暗い部屋であった。


 窓の外に月明かりはない。


 静まり返った空気だけが、室内を満たしている。


 セラは床に座り込んだまま、小瓶を強く握り締めていた。


 冷たい硝子が、震える指先の中でかすかに音を立てる。


 脳裏では、何度も同じ光景が繰り返されていた。


 床へ落ちるカップ。


 砕け散る白磁。


 崩れ落ちるエリアス。


 フィアの悲鳴。


 レオの怒声。


 そのすべてが。


 耳から離れなかった。


「……っ」


 喉が詰まる。


 うまく息を吸うことができない。


 目を閉じるたび、エリアスの顔が浮かんだ。


 苦しげに喉を押さえていた。


 顔色は蒼白で。


 呼吸も浅かった。


 それでも。


 それでも最後まで、セラを責めることはなかった。


 あの眼差し。


 泣き出しそうなほど優しい目。


『……君は……』


 そこで途切れた言葉。


 思い出した瞬間。


「っ……ぅ……!」


 吐き気が込み上げた。


 セラは慌てて口元を押さえ、床へ崩れ落ちる。


 胃の中がひっくり返るようだった。


 気分が悪い。


 苦しい。


 頭の奥が激しく揺れる。


「……っ、ぁ……」


 吐きそうなのに、何も出てこない。


 喉だけが痙攣する。


 涙が次々と零れ落ちた。


 なぜ。


 なぜあのような表情をしたのか。


 なぜ最後まで優しかったのか。


 怒ってくれればよかった。


 恐れてくれればよかった。


 責め立ててくれればよかった。


 その方が、よほど楽だった。


 それなのに。


 エリアスは最後まで、まるでセラを庇うかのような目をしていた。


 違う、と理性では理解している。


 毒など入れていない。


 そのようなことをするはずがない。


 だが。


 ならばなぜ。


 どうして、あのお茶を淹れたのが自分だったのか。


 もし。


 もし別の侍女が運んでいたなら。


 もし今日は体調不良を理由に休んでいたなら。


 もし。


 もし。


 エリアスは生きていたのではないか。


 考えれば考えるほど、胸の奥が崩れていく。


 恐ろしかった。


 周囲の視線も。


 疑念も。


 護衛に掴まれた腕の冷たさも。


 すべてが恐ろしかった。


 だが何より恐ろしかったのは。


 自分自身だった。


 ――私が、壊してしまった。


 ようやく見つけた居場所だった。


 王宮は嫌いだった。


 表面だけを取り繕う貴族たちも。


 人を値踏みするような視線も。


 すべて嫌いだった。


 けれど。


 あの三人だけは違った。


 八歳で王宮へ来たばかりの頃。


 セラは誰とも話すことができなかった。


 庶子。


 平民育ち。


 貴族でも使用人でもない曖昧な立場。


 どう振る舞えばよいのかわからず、ただ俯いていた。


 そんなセラへ、最初に声をかけたのはエリアスだった。


『昼食は召し上がりましたか?』


 ただ、それだけだった。


 それなのに。


 まるで普通の人間に接するように話しかけてくれた。


 怯えるセラへ、穏やかに微笑んでくれた。


 レオはさらに遠慮がなかった。


『お前、泣いてるのか?』


 ある日突然そう言って、勝手に隣へ座ってきた。


 慰めるわけでもない。


 励ますわけでもない。


 ただ。


『これ食べるか?』


 と、焼き菓子を押し付けてきた。


 しかも自分が食べかけのものだった。


『……結構です』


『えー。うまいのに』


 そう言いながら、結局レオはセラが食べるまで隣に居続けた。


 フィアは最初から距離感が近かった。


『セラの髪、とても綺麗』


 そう言って、何の躊躇いもなく髪へ触れてきた。


 侍女見習いにそのようなことをする王女などいない。


 セラは慌てた。


 しかしフィアは笑うだけだった。


『セラはもっと笑った方が可愛いですよ』


 そんな言葉を、ごく自然に口にした。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 あの三人は、セラにとっての居場所になっていった。


 エリアスの静かな優しさが好きだった。


 レオの不器用な優しさが好きだった。


 フィアが笑いながら手を引いてくれる時間が好きだった。


 あの部屋だけが。


 あの三人のそばだけが。


 セラにとって、“帰る場所”だった。


 本当は。


 本当はまだ生きていたかった。


 また紅茶を淹れたかった。


 またレオと言い争いをしたかった。


 フィアに甘えて笑われたかった。


 エリアスの穏やかな声を聞いていたかった。


 それなのに。


 すべて壊してしまった。


 自分の手で。


「……申し訳ございません……」


 涙が零れ落ちる。


 セラは震える指で、小瓶の蓋を開けた。


 微かな薬品の臭いが鼻を刺す。


 怖い。


 死にたくない。


 だが。


 死にたい。


 これ以上、ここにいたくなかった。


 なぜ。


 なぜ私は。


 大切な場所を、自らの手で壊してしまったのか。


 どうして。


 どうしてもっと慎重でいられなかったのか。


 頭の中で、何度も何度も言葉が巡る。


 ぐるぐると回り続け。


 苦しくなるほど考えて。


 それでも最後には、同じ答えへ辿り着いてしまう。


 ――私が悪い。


 ――私のせいだ。


 もう耐えられなかった。


 このまま生きることが。


 息をすることが。


 自分がここに存在していることが。


 いっそ。


 この世から消えてしまいたかった。


 セラは小瓶を唇へ運ぶ。


 震える喉で、毒を飲み込んだ。

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