1 『毒』
午後の陽射しが、白いレースのカーテンを透かしていた。
窓から入り込む春風が柔らかく揺れ、紅茶の香りが静かに部屋へ広がっていく。
穏やかな昼下がり。
王宮の一室。
本来なら、何も起こらないはずの時間だった。
「今日は風が気持ちいいですね」
穏やかな声が響く。
第一王子――エリアスだった。
銀糸のような髪。
静かな薄青の瞳。
雪のように整った横顔は、どこか儚い。
その白い肌には、わずかに疲労の色が滲んでいた。
最近、少し痩せた気がする。
セラはずっと、それが気になっていた。
エリアスが穏やかに笑う。
けれど直後、小さく咳き込んだ。
「兄様、また無理しただろ」
呆れた声が飛んでくる。
第二王子――レオだった。
艶のある黒髪。
鮮やかな青の瞳。
兄とはまるで似ていない。
鋭い目つきと、感情の出やすい表情。
整った顔立ちなのに、黙っていれば近寄り難いのに、口を開けば全部台無しになる。
「少し書類が多かっただけですよ」
エリアスが苦笑する。
“少し”ではないことを、セラは知っていた。
最近、夜更けまで執務室の灯りが消えない。
食事量も減っている。
時折ぼんやり窓の外を見つめることも増えた。
休んでほしい。
何度そう思ったかわからない。
「はい、エリアス様」
セラは紅茶を注ぎながら答えた。
白磁のティーカップへ、琥珀色が満ちていく。
「セラ、また寝不足だろ」
横から呆れた声が飛んできた。
「問題ありません」
「ある」
「ありません」
「あるって」
即答だった。
セラは視線を逸らす。
昔から、この人は妙に勘が鋭い。
「その顔、お前が嘘ついてる時の顔」
「失礼ですね」
「八歳の頃から見てるからわかる」
「記憶違いでは?」
「絶対違う」
レオが眉を寄せる。
その隣で、フィアがくすくす笑った。
「お二人とも、本当に仲が良いですね」
「良くありません」
「えぇー?」
第三王女――フィアが頬を膨らませる。
ふわりと波打つ金髪。
右は青、左は緑。
宝石みたいに色の違う瞳は不思議なのに、彼女が持つとどこまでも柔らかかった。
兄二人とも似ていない。
けれど三人とも、人目を引くほど綺麗だった。
母親が違うから顔立ちは似ていないのに、不思議と並ぶと“兄妹”だとわかる。
それはきっと、彼らの空気が似ているからだった。
セラが唯一、少しだけ肩の力を抜ける相手。
「セラ、少し休んでください」
「フィア様……」
セラは胸元を押さえた。
「癒しです……ありがとうございます……」
「またそんなこと言って」
「本当にフィア様がいてくださらなければ、私は干からびております」
「人はそんな簡単に干からびません」
「干からびます」
「干からびません」
フィアが笑う。
エリアスも静かに目を細めた。
レオは呆れた顔をした。
「なんでフィアにはそんな甘えるんだよ」
「フィア様は癒しなので」
「俺は?」
「圧です」
「は???」
フィアが吹き出した。
エリアスも肩を揺らして笑う。
その笑い方すら、どこか少し疲れて見えた。
セラは胸の奥がざわつく。
休んでください。
その言葉を飲み込む。
きっとエリアスは笑って“大丈夫ですよ”と言うから。
セラはその光景を見つめながら、小さく息を吐く。
好きだ、と思った。
この時間が。
この人たちが。
血が繋がっていなくても、互いを大切にしているこの兄妹が。
王宮は苦手だった。
人を値踏みする視線も。
上辺だけの会話も。
全部嫌いだった。
けれど、この人たちに仕えることだけは誇りだった。
ここにいたい。
そう思えた場所だった。
「セラ」
エリアスが彼女を呼ぶ。
「最近、本当に無理をしていませんか?」
優しい声だった。
昔から変わらない。
八歳で王宮へ連れて来られたばかりの頃も、エリアスだけは普通に話しかけてくれた。
怖くて俯いていたセラへ、初めて笑いかけてくれた人だった。
だから。
この人には幸せでいてほしかった。
エリアスがティーカップを持ち上げる。
その動作が、ほんの少しだけ重そうに見えた。
「……エリアス様?」
セラが違和感を覚える。
けれど。
エリアスはいつものように穏やかに微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
一口。
その瞬間。
カップが床へ落ちた。
甲高い音が部屋を裂く。
何が起きたのかわからなかった。
エリアスの身体が傾く。
苦しそうに喉を押さえ、椅子から崩れ落ちる。
「……え?」
理解が追いつかない。
世界が揺れた。
足元が抜け落ちるような感覚。
天と地がひっくり返ったみたいだった。
息ができない。
音が遠い。
フィアの悲鳴が聞こえる。
「兄様!?」
レオが立ち上がる。
護衛たちが駆け込んでくる。
なのに。
セラだけが動けなかった。
頭の中が真っ白だった。
何が起きている。
どうして。
どうしてエリアスが倒れているの。
「毒だ!!」
誰かが叫ぶ。
その瞬間。
空気が変わった。
視線が集まる。
床へ散った紅茶。
――セラが淹れたもの。
違う。
違うのに。
けれど。
頭の奥で、何かが崩れた。
もし。
もし私が、あのお茶を淹れなければ。
もし別の侍女が運んでいたら。
もし今日は体調が悪いと言って休んでいたら。
エリアスは。
エリアス様は。
「まさか……」
誰かが呟く。
違う。
違う。
違うのに。
声が出ない。
呼吸ができない。
頭が真っ白になる。
その時だった。
「ふざけんな!!」
怒鳴り声が部屋を裂いた。
レオだった。
鮮やかな青い瞳で周囲を睨みつける。
「セラじゃない!!」
空気が凍りつく。
レオは迷いなく言い切った。
「こいつが兄様に毒なんか盛るわけねぇだろ!!」
セラは目を見開く。
けれど、その声すら遠かった。
世界が壊れていく。
何も掴めない。
エリアスが苦しそうに顔を上げる。
そして。
セラを見た。
泣きそうなほど優しい目で。
「……君は……」
震える手が伸びる。
セラの指先へ触れて。
落ちた。
「兄様ッ!!」
レオの叫びが響く。
フィアが泣き崩れる。
誰かがセラの腕を掴んだ。
冷たい。
何も聞こえない。
頭の中で、同じ言葉だけが繰り返される。
私が。
私があのお茶を。
私が。
私が。
――私が、エリアス様を殺した。




