特任女官と、御匣殿で泣く蜘蛛のあやかし
「……ううっ、思い出すだけで顔から火が出そう……」
翌朝。私——小春は、自室の布団の中でミノムシのように丸まり、ゴロゴロと転げ回っていた。
私の実家は、かつて星占いや呪術を司っていた「陰陽師」の没落した一族だ。
「あやかしの声が聞こえ、おしゃべりができる」という特技を瑞凰国の帝・暁月様に知られ、彼直属の「特任女官」として後宮(こうきゅう:妃たちが暮らす男子禁制の園)の怪事件を解決している。
昨日の夕方。後宮を覆っていた「眠り病」の呪いを解決した直後、三日三晩寝ずに瘴気(しょうき:悪い気)を視ていた暁月様が限界を迎え、私の肩によりかかって眠ってしまったのだ。
『……少しだけ、このままでいさせろ』
普段は「冷徹皇帝」と恐れられているあの美しいお方が、無防備に私に体重を預けてきた感触と、首筋にかかった温かい吐息。
身分差がありすぎる雲の上の人だとわかっているのに、私の心臓はいまだに警鐘を鳴らし続けている。
『ひっひっひ。小春や、朝から顔が真っ赤じゃのう。春が来たのかえ?』
「おじいちゃん、うるさい!」
天井から逆さまにぶら下がる幽霊のおじいちゃんに枕を投げつけた、その時だった。
「小春殿。暁月様からのお召し(お呼び出し)です」
戸の向こうから聞こえた声に、私はビクッと肩を跳ねさせた。
(や、やばい。どんな顔して会えばいいの!?)
私は慌てて布団から這い出し、懐に居着いている小さな管狐(くだぎつね:狐の式神)の入った竹筒を忍ばせ、逃げるように部屋を出た。
清涼殿(せいりょうでん:帝のプライベート空間)の執務室。
そこには、昨日の疲労など微塵も感じさせない、隙のない紺青色の直衣(のうし:貴族の日常着)を身に纏った暁月様が座っていた。
「遅いぞ、小春」
氷のように冷たい、いつも通りの声。
昨日の甘えたような態度は完全に鳴りを潜めている。
「も、申し訳ございません! あの、昨日はお加減いかがですか……」
私が恐る恐る尋ねると、暁月様はピタッと筆を止め、ほんの一瞬だけ気まずそうに視線を逸らした。
「……昨日のことは忘却しろ。私の不覚だ」
「あ、はい。忘れます! スパッと!」
(ちょっと恥ずかしがってる! 珍しい!)と内心ニヤニヤしつつ、私は居住まいを正した。
「さて、仕事だ」
暁月様は咳払いをして、真剣な表情に戻った。
「お前にはこれから、『御匣殿』の調査に向かってもらう」
「みくしげどの……というと、後宮の皆様のお着物を仕立てている場所ですよね?」
「そうだ。現在、夏の宴に向けて、下位の妃たちに新しい夏用の袿(うちき:絹の着物)を下賜(かし:身分の高い者から与えること)するための仕立てが進んでいる。だが……」
暁月様の切れ長の瞳が、スッと細められた。
「その『新しい着物』に袖を通した妃たちが、次々と原因不明の奇病に倒れているのだ」
「奇病……ですか?」
「ああ。二十歳にも満たない若い妃たちの肌から潤いが消え、髪は白髪になり、まるで『老婆』のように急激に老け込んでしまうという恐ろしい病だ」
「老婆に!?」
私は思わず叫んだ。
それは、美しさを競い合う後宮の女たちにとって、死よりも恐ろしいことではないだろうか。
「私の目には、倒れた妃たちの着物から、生命力を吸い取るようなドス黒い『気』が視えた。ただの布ではない。あやかしの力が込められた『呪いの糸』が使われている」
暁月様の言葉に、私はピンときた。
下位の妃たちばかりを狙った若さを奪う呪い。
これは間違いなく、後宮で最も強い権力を持つ悪女・紅葉様が裏で糸を引いているに違いない。
彼女は自分より若く、帝の寵愛を受けそうな妃を片端から呪いで潰そうとしているのだ。
「その呪いの糸がどこから来て、誰が作っているのか。御匣殿に潜入して突き止めろ。……頼んだぞ、小春」
「はいっ! お任せください!」
私は力強く頷き、お裁縫道具を入れた籠を手に、御匣殿へと向かった。
御匣殿は、後宮の北側にある広大な建物だった。
中に入ると、数十人の針子(はりこ:裁縫を担当する女官)たちが、色とりどりの絹布を広げて忙しそうに作業をしている。
私は「今日からお手伝いに来ました、下働きの小春です!」と元気に挨拶し、布の切れ端を片付ける掃除係として部屋の隅に潜り込んだ。
(さて、呪いの気配はどこかな……)
陰陽師としての「視る」力と「聞く」力を研ぎ澄ませながら、作業場を観察する。
すると、部屋の奥にある「特上」と書かれた木箱から、微かにあやかしの気配が漂ってくるのに気づいた。
その木箱の周りには、意地悪そうな顔つきの恰幅の良い女官長が陣取っており、他の針子たちを怒鳴り散らしていた。
「おい! その箱の糸は、紅葉様から特別に賜った最高級の絹糸だよ! 粗末に扱うじゃないよ!」
(……やっぱり。紅葉様が関わってるんだ)
私は雑巾がけをするふりをしながら、その木箱にそっと近づいた。
箱の中には、真珠のように美しく光り輝く白い糸の束が入っていた。
しかし、その輝きの中に、どろりとした黒い瘴気が混じっているのが私には視えた。
『……ごめんなさい……ごめんなさい……』
糸の束から、細く、すすり泣くような声が聞こえてきた。
(糸が付喪神になっているわけじゃない。これは、この糸を吐き出したあやかし本人の声だわ)
「ねえ、女官長様」
針子の一人が、怯えたような声で尋ねた。
「この糸、すごく美しいのですが……触っていると、手が氷のように冷たくなって、気分が悪くなるのです。それに、奥の蔵から、夜な夜な女の泣き声が聞こえるという噂も……」
「うるさいね! 余計な詮索をするな! さっさとその糸で、下っ端の妃たちの着物を縫い上げるんだよ!」
女官長は針子を扇子でピシャリと叩き、怒鳴りつけた。
(奥の蔵……そこに、この糸を作らされているあやかしが捕まっているんだ!)
私はこっそりと作業場を抜け出し、建物の裏手にある薄暗い蔵へと向かった。
蔵の入り口には頑丈な南京錠がかかっていたが、私は懐から一枚の「懐紙(かいし:神聖な和紙)」を取り出し、呪文を唱えた。
「——開け!」
カチャリ、と音を立てて錠前が外れる。
こういう時、陰陽師の特技は本当に便利だ。
重い扉を押し開けると、蔵の中は真っ暗だった。
しかし、部屋の中央に、巨大な蜘蛛の巣のようなものが張られているのが見えた。
『……だれ……? また、無理やり糸を絞り出しに来たの……?』
暗がりの中から現れたのは、息を呑むほど美しい女性の姿をしたあやかしだった。
ただし、彼女の下半身は巨大な黒い蜘蛛の形をしている。
『絡新婦』——古い蜘蛛が強い魔力を持って変化したあやかしだ。
彼女の手足には、陰陽道の札が貼られた太い鎖が巻き付けられ、無理やりこの蔵に縛り付けられていた。
「驚かせてごめんなさい。私は小春。あやかしとお話ができる人間よ」
私が優しく声をかけると、絡新婦は驚いたように赤い瞳を見開いた。
『人間の女の子が、わたしの声を聞き取れるの……?』
「うん。あの木箱に入っていた糸、あなたが作ったのね? 若さを吸い取る呪いがかかっているって聞いたけど」
絡新婦は悲しげに顔を歪め、ポロポロと涙を流した。
『ちがうの! わたしはただ、月明かりを紡いで、美しくて丈夫な絹を織るのが大好きなだけなの! でも……あの悪い女官が、悪い陰陽師から買った「呪いの鎖」でわたしを捕まえて……人間の若さを吸い取る毒を混ぜた糸を、無理やり吐き出させているのよ……!』
絡新婦の涙が、糸を引いて床に落ちた。
あやかしの純粋な能力を、醜い権力闘争の道具として悪用する。
お妃争いのためなら何でもする紅葉様のやり口に、私は強い怒りを感じた。
「わかった。もう泣かなくていいよ。私が、その鎖を外してあげる!」
私が鎖に貼られた呪符を剥がそうと一歩踏み出した、その時だった。
「おやァ? どこからネズミが入り込んだかと思えば……お前、暁月様のところの生意気な下働きじゃないか」
背後から、ねっとりとした気味の悪い声が響いた。
振り返ると、先程の恰幅の良い女官長が、意地悪な笑みを浮かべて立っていた。
その手には、不気味な黒いオーラを放つ「巨大な裁ち鋏」が握られている。
「女官長……! あやかしを捕まえて呪いの糸を作らせるなんて、大罪ですよ!」
私が睨みつけると、女官長はケタケタと笑った。
「大罪? なにを証拠に。この後宮では、紅葉様のお言葉こそが正義なのさ。紅葉様の美しさを脅かす小娘どもは、あの蜘蛛の呪いの糸で、みんなシワシワのババアにしてやるんだよ!」
女官長は狂気じみた目で、巨大な鋏をジャキィッと鳴らした。
「せっかく嗅ぎつけたんだ、生かして帰すわけにはいかないね。その鋏のサビにしてやるよ!」
女官長が恐ろしいスピードで私に向かって突進してくる。
その鋏には、悪い陰陽師の呪いが込められており、ただの武器ではない。
(やばい、斬られる!)
私は咄嗟に懐から数枚の懐紙を引き抜き、両手で挟んで気を練り上げた。
「——急急如律令! 邪気を祓う刃となれ!!」
私が放った懐紙は、空中で硬い手裏剣のように変化し、女官長の鋏にガチンッ! と激突した。
火花が散り、女官長は「ぐあっ!」とたじろぐ。
その隙に、私は絡新婦のもとへ駆け寄り、彼女を縛っていた鎖の呪符を一気に引き剥がした。
「今だ! 逃げて!」
『……ありがとう、優しい人間の女の子!』
呪縛から解き放たれた絡新婦は、美しい女性の顔で微笑むと、天井の梁に向かってシュルルッと白い糸を伸ばし、あっという間に蔵の高窓から外へと逃げていった。
これで、これ以上呪いの糸が作られることはない。
「ああっ! 私の蜘蛛が!! おのれぇぇ、よくも紅葉様の計画を邪魔してくれたね!!」
女官長が顔を真っ赤にして激昂し、再び鋏を振り上げて私に襲いかかろうとした。
「邪魔をしたのはそちらのほうだ」
——氷の刃のような、冷たく鋭い声が蔵の中に響き渡った。
女官長がビクッと動きを止めた瞬間、蔵の入り口からスッと姿を現したのは、美しい紺青色の直衣を風に揺らす、暁月様だった。
彼の背後には、武装した近衛兵たちがズラリと控えている。
「あ、暁月様……!?」
女官長は手から鋏をポロリと落とし、ガタガタと震えながらその場に平伏した。
暁月様は冷酷な視線で女官長を見下ろした。
「私の直属の特任女官に、刃物を向ける権限を誰が与えた。……あやかしを監禁し、呪いの糸で妃たちを害した罪。言い逃れはできんぞ」
「ひぃっ! わ、私ではありません! 私はただ、紅葉様に命じられて……!」
「紅葉に命じられた、だと?」
暁月様が鋭く問い詰めると、女官長は「ああっ」と口を塞いだ。
自分が主人の名前を出してしまったことに気づいたのだ。
「連行しろ。地下牢でたっぷり吐かせるとしよう」
暁月様の短い命令で、近衛兵たちが女官長を引きずって蔵から出て行った。
(やった……! ついに、紅葉様を追い詰める証言が取れたかも!)
私がホッとしてへたり込むと、暁月様が静かに近づいてきて、私を見下ろした。
「怪我はないか、小春」
「はい! 私の特製・陰陽お札手裏剣で防ぎましたから!」
私がエヘンと胸を張ると、暁月様はふっと口角を上げ、大きな手で私の頭をポンッと撫でた。
「……よくやった。お前のおかげで、また多くの者が救われた」
頭に置かれた手の温もりに、昨日の出来事がフラッシュバックして、私の顔は一瞬で茹でダコのように真っ赤になってしまった。
「あ、あの! お仕事ですから! 特任女官の、お仕事ですからぁ!」
私が慌てて後ずさると、暁月様は不思議そうに小首を傾げた。
ずるい、その仕草は反則だ。
ふと、私の足元にキラキラと光るものが落ちているのに気づいた。
それは、絡新婦が逃げる間際に残していった、呪いの混じっていない、月明かりのように美しく透き通った絹糸の束だった。
『優しいお姉ちゃん。お礼に、わたしの最高の糸をあげるわ』
絡新婦の幻の声が聞こえた気がした。
「綺麗な糸……」
私がその糸を拾い上げると、暁月様もそれを見つめた。
「呪いの気配は一切ない。純粋な霊力だけで紡がれた、最上級の絹糸だ。……小春、それはお前が持っておけ」
「えっ、私がですか? でも、こんな高級なもの……」
「お前はもう、ただの下働きではない。私の特任女官だ。その糸で新しい袿を仕立てろ。……お前なら、きっと似合うだろうからな」
暁月様はそう言って、フッと優しく微笑んだ。
「~~~っ!!」
もうダメだ。私の心臓はキャパオーバーである。
お仕事で成り上がって、平穏無事な生活を手に入れるはずだったのに。
冷徹皇帝の不意打ちの甘さに、私は完全にノックアウトされてしまったのだった。
「呪いの糸」の元凶を断ち切ったことで、老化の呪いにかけられていた妃たちも、無事に元の若さと美しさを取り戻した。
そして、捕らえられた女官長の証言により、紅葉様の立場はいよいよ危ういものとなっていく。
華やかな後宮に渦巻く陰謀の決着は、すぐそこまで迫っていた。




