特任女官と、茶会に潜む小さな妖狐
「……あー、もうっ! 思い出すな、私のバカバカ!」
翌日の朝。瑞凰国の後宮(こうきゅう:帝の妻たちが暮らす男子禁制の場所)。
私——小春は、支給された中級女官の着物である袿の袖をバサバサと振り回しながら、自室で一人、顔を真っ赤にして転げ回っていた。
原因は、昨日の出来事だ。
呪いの石が投げ込まれた古井戸の調査で、危うく水に落ちそうになった私を、冷徹皇帝と恐れられる若き帝・暁月様が助け上げてくれたのだ。
それだけなら「主君の気まぐれな優しさ」で済んだのに、あろうことか、暁月様はその美しく長い指で、私の頬についた泥をそっと拭ってくれたのである。
『特任女官が泥だらけでは、私の顔に泥を塗るようなものだからな』
「……ひゃああああっ! 思い出しただけで顔から火が出そう!」
私は両手で顔を覆った。
私の実家は、かつて星占いや呪術で悪霊を祓うことを仕事としていた「陰陽師」の家系だ。
すっかり没落してしまったが、私には「あやかしの声が聞こえ、おしゃべりができる」という秘密の特技がある。
その特技を暁月様に買われ、彼直属の「特任女官(とくにんにょかん:特別な任務を与えられた役人)」として、後宮の怪事件を解決している私。
没落陰陽師の娘と、この国の最高権力者である帝。
どれだけ逆立ちしたって、絶対に釣り合わない身分差だ。
色恋沙汰やドロドロの権力闘争なんてまっぴらごめんなのに、暁月様のちょっとした行動でドキドキしてしまう自分が悔しい。
『ひっひっひ。小春や、朝から盛大に発情しておるのう。若いっていいことじゃ』
「は、発情って言わないでよ、幽霊のおじいちゃん!」
天井の梁から逆さまにぶら下がってニヤニヤしている、座敷童代わりの幽霊のおじいちゃんに抗議した、その時だった。
コンコン、と部屋の戸が叩かれた。
「小春殿。暁月様からのお召し(お呼び出し)です。至急、清涼殿(せいりょうでん:帝のプライベート空間)へ」
「ひゃいっ! 今すぐ参ります!」
私は慌ててパンパンと自分の頬を叩いて気合を入れ、飛び出していった。
「遅いぞ、小春」
清涼殿の裏手にある小さな茶室に入るなり、いつものように氷のように冷たい声が降ってきた。
そこに座っていたのは、紺青色の直衣(のうし:貴族の日常着)を完璧に着こなし、隙のない美しさを放つ暁月様だった。
「も、申し訳ございません! 着物の帯がうまく結べなくて……」
私が平伏(へいふく:額を床につけるお辞儀)して言い訳すると、暁月様は短く息を吐いた。
「まあよい。急ぎの任務だ。……今日の昼下がり、紅葉が自らの宮で『観花の茶会(かんかのちゃかい:花を愛でながらお茶を飲む貴族の宴)』を開く。そこに、撫子が招待された」
「えっ!」
私は思わず顔を上げた。
紅葉様といえば、実家が大貴族であり、後宮で最も強い権力を持つ、次期皇后(こうごう:帝の正妻)候補の筆頭。
そして、自分の手を汚さずにあやかしを使って呪いを振りまく、恐ろしい悪女だ。
一方の撫子様は、心優しく病弱な妃。
現在、暁月様の子を秘密裏に身ごもっており、昨日、紅葉様が(おそらく)仕掛けた古井戸の呪いによって命を狙われたばかりだった。
「撫子様、断らなかったんですか!? そんなの、絶対罠に決まってるじゃないですか!」
「撫子は人が良すぎるのだ。紅葉のような高位の妃からの誘いを無下に断れば、角が立つと思ったのだろう」
暁月様はギリッと奥歯を噛み締めた。
「昨日の『水毒の呪法』が失敗に終わったことに気づいた紅葉は、茶会という公の場で、直接撫子に何かを仕掛けるつもりかもしれない。……私は政務があり、お茶会には顔を出せん」
「……わかりました。私が、お茶の給仕(きゅうじ:お世話係)のふりをして潜入するんですね?」
私が気合を入れて尋ねると、暁月様は少しだけ驚いたように目を瞬かせ、やがてフッと口角を上げた。
「察しが良くて助かる。お前のその特技を使い、茶会に潜むあやかしや呪いの気配を探れ。そして、何としても撫子を守り抜け」
「お任せください! この特任女官・小春が、撫子様と赤ちゃんに指一本触れさせません!」
私はドンッと胸を叩いた。
頬の泥を拭ってもらったから頑張るわけじゃない。
ただ、罪のない命を権力闘争の道具にする卑劣なやり方が、どうしても許せないのだ。
昼下がり。紅葉様が暮らす「牡丹宮」の庭園は、むせ返るような花の香りと、色とりどりの豪華な着物を着た妃たちで溢れかえっていた。
「まあ、撫子様。今日はよくいらっしゃいましたわね。お加減が優れないと伺っておりましたが……少し、ふっくらなさいました?」
上座に座る紅葉様が、燃えるような紅色の十二単を揺らしながら、氷のような笑みを浮かべて言った。
その言葉の裏に隠された「お前、まさか妊娠しているんじゃないだろうな」という探るような視線に、私は背筋が凍る思いがした。
「あ、ありがとうございます、紅葉様。……最近は、少し体調もよろしいので」
末席(まっせき:一番端の身分の低い席)に座る撫子様は、薄桃色の控えめな着物を着て、緊張で顔をこわばらせながら答えた。
(これが、女たちのマウント合戦……! 怖すぎる!)
私はお茶の道具を運ぶ下働きの女官に紛れ込みながら、周囲に全神経を集中させていた。
今のところ、あやかしの気配はない。
やがて、茶会のメインである「お茶」が振る舞われる時間になった。
紅葉様の側近である古参の女官が、お盆に載せた美しい茶碗を一つ一つ、妃たちの前に配り始めた。
その古参女官が、撫子様の前にやってきた時だった。
『……やだなぁ。こんな苦くて臭い粉、入れたくないのに……』
(えっ!?)
微かに、本当に微かに、小さな子供のような声が私の耳に届いた。
私はハッとして、声のする方——古参女官の着物の袖口を凝視した。
すると、女官の袖の陰から、ひょっこりと小さな顔が覗いているのが見えた。
竹筒にすっぽり入ってしまうほど小さな体、黄金色の毛並み、そしてつぶらな瞳。
(管狐だ……!)
管狐とは、陰陽師や邪悪な呪術師が使役する、小さな狐のあやかしである。
狭い竹筒の中で飼いならされ、主人の命令に従って病を流行らせたり、呪いを運んだりする恐ろしい式神の一種だ。
しかし、その管狐の顔はちっとも恐ろしくなく、むしろ涙目でブルブルと震えていた。
『……おばさんに「この粉をあの女の茶碗に落とせ」って言われたけど……この粉、すごく悪い気が出てる。赤ちゃんが死んじゃう粉だ。入れたくないよぉ……でも、逆らったら竹筒に閉じ込められて火で炙られちゃう……』
管狐の小さな前足には、黒い和紙に包まれた怪しい粉が握られていた。
堕胎(だたい:無理やり流産させること)の呪いが込められた毒薬だ!
古参女官が撫子様の前でお茶を置く一瞬の隙をついて、袖口から管狐に毒を落とさせる気なのだ。
(あんな小さなあやかしを脅して、毒殺の道具にするなんて……!)
私の頭の中で、何かがブチッと切れた。
「さあ、撫子様。紅葉様から賜った、特別なお茶でございます。どうぞお召し上がりを」
古参女官が嫌味な笑みを浮かべ、撫子様の茶碗に手を伸ばした。
管狐が、泣きながら毒の包みを開けようとする。
「——ああっ! 大変!!」
私は突然、持っていたお湯の入った重い急須を、わざと派手に宙に向かって放り投げた。
「キャアアアッ!?」
「な、何事!?」
熱いお湯が空中に飛び散り(もちろん誰にも当たらないように計算している)、妃たちが悲鳴を上げてパニックになった。
その隙に、私は床を蹴って猛ダッシュし、古参女官の横に滑り込んだ。
「あぶなーい!!」
ドスッ! と肩から体当たりをかまし、古参女官を見事に突き飛ばした。
「ぎゃあっ!?」
古参女官がひっくり返り、お茶の入った茶碗がガシャンと音を立てて床に割れる。
その衝撃で、女官の袖口から小さな竹筒がコロコロと転がり出た。
私はすかさずその竹筒を拾い上げ、懐に忍ばせていた『懐紙(かいし:お菓子などを包む和紙)』で素早く筒を塞いだ。
「ねえ、管狐ちゃん! 私、あやかしとお話ができる陰陽師の娘だよ。もうあんな悪いおばさんの言うこと聞かなくていいからね。あとで、最高に美味しい油揚げ(あぶらあげ)をご馳走してあげる!」
私が小声で早口に囁くと、竹筒の中の管狐はパァッと顔を輝かせた。
『ほんと!? 苦い粉じゃなくて、甘い油揚げ!? お姉ちゃん、ありがとう!』
「何をするのよこの愚か者!!」
私が管狐を懐に隠した瞬間、上座から紅葉様の怒号が飛んできた。
「神聖な茶会で暴れるなど……! お前、暁月様のところにいる生意気な下働きね! 今すぐその小娘を捕らえて、鞭打ち百回の刑にしなさい!」
紅葉様の命令で、周囲の護衛たちが一斉に私を取り囲もうとした。
(や、やばい。やりすぎたか……!)
私が青ざめて後ずさった、その時だった。
「——私の直属の女官に、誰が鞭を打つと?」
凛とした、しかし絶対的な威圧感を持った冷たい声が、庭園に響き渡った。
その声を聞いた瞬間、怒り狂っていた紅葉様も、護衛たちも、ビクッと肩を震わせて一斉にその場に平伏した。
花びらが舞う庭園の入り口から、悠然と歩いてきたのは。
紺青色の直衣を風に揺らし、腰に黄金の太刀を佩いた、この国の絶対君主——暁月様だった。
「あ、暁月様……! 政務でお忙しいと伺っておりましたのに……」
紅葉様が、先程までの般若のような顔を一瞬でか弱い乙女に変え、甘ったるい声を出した。
「たまたま庭を通りかかったら、騒ぎ声が聞こえてな。……小春。何があった」
暁月様は私を一瞥し、短く尋ねた。
私は居住まいを正し、はっきりと答えた。
「はい! 私が不注意で急須を落としてしまい、撫子様にお怪我があってはいけないと、庇おうとしてこちらの女官殿にぶつかってしまいました。すべて私の不始末でございます!」
私は管狐のことも、毒のことも口に出さなかった。
証拠の粉は混乱に乗じて管狐が回収してくれているし、ここで騒ぎ立てても「下働きが嘘をついている」とはぐらかされるだけだ。
しかし、暁月様にはすべて「視えて」いた。
古参女官の袖口から漂っていた呪いの気配が消え、私の懐から微かにあやかしの気配がしていることを。
私が機転を利かせて、撫子様を毒牙から救ったのだということを。
「そうか。……お前がぶつかったせいで、撫子に出されるはずだった茶がこぼれたのだな」
暁月様は床に割れた茶碗の残骸を見下ろし、それから冷酷な視線を紅葉様へと向けた。
「紅葉。お前の宮で出される茶は、随分と『どす黒い気』を放っているように視えるが? まるで、飲んだ者の命を縮める毒でも入っているかのようにな」
「なっ……!?」
紅葉様の顔から、スゥッと血の気が引いた。
暁月様の「気」を視る力は、後宮の妃たちにも知られている。
彼のこの言葉は、「お前が茶に毒を盛ろうとしたことはバレているぞ」という強烈な警告だった。
「そ、そのようなこと! 決して……! 私はただ、皆様と楽しくお茶を……!」
「ならばよい。だが、撫子は最近体が弱い。万が一、彼女の身に何かあれば……原因を作った者が誰であれ、私は決して容赦はしない」
暁月様の声は静かだったが、その背後には見えない巨大な龍が睨みを効かせているような、圧倒的な殺気が漂っていた。
紅葉様はガタガタと震え、「は、はい……」と力なくうつむくことしかできなかった。
「撫子。気分が優れぬなら、私が宮まで送ろう。立て」
暁月様は優しく撫子様に手を差し伸べた。
撫子様は涙ぐみながら、「もったいないお言葉です」とその手を取った。
「小春、お前も来い。不始末の罰として、私の執務室の掃除を命じる」
「はっ、はいぃっ!」
私は紅葉様たちを残し、暁月様の後ろを小走りで追いかけた。
背後から、紅葉様が扇子をへし折る「バキッ!」という恐ろしい音が聞こえたが、私は絶対に振り返らなかった。
「……全く、お前は本当に無茶をする」
清涼殿に戻り、二人きり(と一匹)になった途端、暁月様が大きなため息をついた。
私は懐から竹筒を取り出し、管狐にこっそり持ってきていた甘い油揚げを与えていた。
『おいちい! お姉ちゃん、神様!』
「よしよし、いっぱいお食べ。……いやぁ、でも暁月様、あそこでお湯をぶちまけるしかなかったんですよ。管狐ちゃんが毒を盛らされそうになってたんですから!」
私が胸を張って言い訳すると、暁月様は私の顔をじっと見つめ、不意に、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「ああ。わかっている。……お前が機転を利かせてくれたおかげで、撫子も、腹の子も無事だった。またお前に救われたな、小春」
その真っ直ぐな瞳と、普段の冷徹な顔からは想像もつかない優しい笑顔に、私の心臓はまたしても「ドクン!」と大きく跳ねた。
いけない。お仕事もの のはずなのに、これじゃまるで恋愛物語みたいじゃないか。
私は慌てて視線を逸らし、咳払いをした。
「えへへ……特任女官のお仕事ですからね! それに、この管狐ちゃんが証言してくれたおかげで、紅葉様の後ろ暗い秘密も色々と聞き出せそうですし!」
「ほう。それは頼もしいな」
暁月様は満足そうに頷き、再びいつもの凛々しい皇帝の顔に戻った。
「紅葉の背後にある闇を暴く日も近い。……これからも頼むぞ、私の特任女官」
「はいっ!」
夕暮れの光が差し込む清涼殿で、私は力強く頷いた。
没落陰陽師の娘と冷徹皇帝のコンビは、華やかな後宮に渦巻く陰謀を、着実に暴きつつあった。
平穏無事な生活への道のりはまだまだ遠そうだけれど……このお仕事も、案外悪くないかもしれない。




