特任女官と、開かずの古井戸で泣く水竜
「……はぁ。やっぱり和三盆は美味しいなぁ。口の中で雪みたいに溶けちゃう」
翌日のお昼下がり。
私——小春は、支給された中級女官の袿(うちき:絹の着物)の袖をまくり上げ、自室でこっそりと至福の時間を味わっていた。
昨日、見事に「首なし幽霊」の事件を解決したご褒美として、この瑞凰国の最高権力者である帝・暁月様から賜った最高級のお干菓子である。
私の実家は、かつて星占いや呪術で悪霊を祓うことを仕事としていた「陰陽師」の家系だ。
今は没落してしまったけれど、私には「あやかしの声が聞こえ、おしゃべりができる」という秘密の特技がある。
その特技を冷徹皇帝と恐れられる暁月様に買われ(というか弱みを握られ)、私は今、彼直属の「特任女官」として、後宮(こうきゅう:帝の妃たちが暮らす男子禁制の園)で次々と起こる怪事件の謎解きをさせられているのだ。
「甘いものを食べて体力を回復しないと、今日のミッションは乗り切れないもんね……」
私は最後の和三盆を名残惜しく口に放り込み、大きなため息をついた。
今日の任務は、後宮の東の外れにある「開かずの古井戸」の調査である。
なんでも、ここ数日、その古井戸の底から「地の底から響くような不気味なうめき声」が聞こえるようになり、近くを通る女官たちが次々と体調不良を訴えて倒れているらしい。
暁月様は「水神の祟り(たたり)かもしれない」と仰っていた。
水神様といえば、自然を司る強力なあやかしだ。一歩間違えれば、没落陰陽師の娘なんて一瞬で飲み込まれてしまうかもしれない。
(怖いよぉ……。権力闘争にもお妃争いにも興味がないのに、どうして私がこんな危険なお仕事を……)
ブツブツと文句を言いながらも、私は掃除係のふりをするための竹箒を片手に、東の宮へと向かった。
東の宮は、現在使われていない古い建物が立ち並ぶ、後宮の中でもひときわ静かで薄暗い場所だった。
昼間だというのに鬱蒼と茂った木々が陽の光を遮り、ひんやりとした空気が肌を刺す。
目的の「開かずの古井戸」は、苔むした石畳の奥にあった。
危険だからと太い縄が何重にも巻かれ、木の蓋がされている。
「……遅いぞ、小春」
「ひゃあっ!?」
突然、井戸の陰から声がして、私は思わず飛び上がった。
そこには、身分を隠すための質素な黒い狩衣(かりぎぬ:男性の日常着)を身に纏い、腕を組んでこちらを見つめる暁月様が立っていた。
質素な服を着ていても、夜の闇を溶かしたような艶やかな黒髪と、黒曜石のような切れ長の瞳は隠しきれず、圧倒的なオーラを放っている。
「あ、暁月様! どうしてこちらへ? 今回の調査は私一人で行けと……」
「水神の祟りかもしれないと言っただろう。強力なあやかしが相手ならば、お前一人では危険だ。それに……」
暁月様は鋭い視線を、目の前の古井戸へと向けた。
「私の目には、この井戸から立ち昇る『ドス黒い瘴気(しょうき:あやかしや呪いが発する悪い気)』がはっきりと視える。ただの自然現象ではない。……何者かの悪意を感じる」
暁月様は、あやかしや呪いの「気」を視ることはできるが、「声」を聞くことができない。
だからこそ、私が必要なのだ。
「悪意、ですか……」
私はゴクリと唾を飲み込み、暁月様と一緒に古井戸へと近づいた。
井戸を塞いでいる木の蓋の隙間から、ねっとりとした生臭い風が吹き出してくる。
(……確かに、嫌な気がする。普通の水神様の気配じゃない。もっとドロドロした、人間の『呪い』の匂いだわ)
私は意を決して、蓋の隙間に耳を近づけた。
そして、陰陽師としての「聞く力」を研ぎ澄ます。
——ゴポッ……ゴポポ……。
かすかな水の音に混じって、くぐもった声が聞こえてきた。
『……くるしい……いたい……みずが、くろい……』
『……だれか、たすけて……よごれちゃう……』
それは、子供の泣き声のような、か細く悲痛な声だった。
「暁月様。うめき声の主は、井戸の中にいます。でも、怒って祟っているというより……苦しんで泣いているみたいです」
「苦しんでいる? 水神がか?」
「はい。私が直接話しかけてみます。蓋を少しだけ開けていただけますか?」
私が頼むと、暁月様は無言で頷き、巻かれていた縄を解いて、重い木の蓋をいとも簡単にズラしてくれた。
(相変わらず、帝とは思えないほどの力持ち……)と感心しつつ、私は暗い井戸の底を覗き込んだ。
「ねえ、底にいるあやかしさん。聞こえる? 私は小春。あなたの声がわかる人間だよ」
私が声をかけると、井戸の底の水面がチャプンと揺れた。
暗闇の中で、二つの小さな青い光が灯る。
それは、透き通った青い鱗を持った、小さな小さな「竜」だった。
長い髭と鹿のような角を持っているが、体長は私の腕くらいしかない。
『……にんげん……? わたしの声が、わかるの……?』
「うん、わかるよ。あなた、この井戸を守っている水竜の子供ね?」
私が尋ねると、水竜の子供はポロポロと真珠のような涙をこぼした。
『うん……。わたし、ずっと昔からこの地下の綺麗な水脈(すいみゃく:地下水の通り道)を守ってきたの。でも、数日前から、上から「真っ黒で臭い石」がたくさん降ってくるようになって……お水が真っ黒になっちゃったの。息ができなくて、苦しくて、痛くて……』
水竜が泣きながら動くたび、井戸の底の水がチャプンと鳴る。
目を凝らして水面を視ると、本来なら透き通っているはずの地下水が、墨汁を流したようにドス黒く濁っていた。
「真っ黒で臭い石……?」
私はハッとして、陰陽師の知識を頭の中で巡らせた。
水を濁らせ、水神を苦しめるほどの邪気を放つ石。
それはおそらく、呪術で使われる「呪を込めた石」だ。
呪詛(じゅそ:人を呪うこと)の言葉を朱色の墨で書き、髪の毛や動物の血を混ぜて固めたおぞましい石を井戸に投げ込むことで、その水を「毒」に変える恐ろしい呪いの手法——『水毒の呪法』だ。
「暁月様! この井戸に、誰かが呪いの石を投げ込んでいます! そのせいで水が穢れ、水竜が苦しんで泣いていたんです! 女官たちが倒れたのも、水神の祟りではなく、井戸から溢れ出した呪いの気が原因です!」
私が報告すると、暁月様の顔色が一瞬にして険しくなった。
「呪いの石だと? ……水脈を穢すなど、国を滅ぼしかねない大罪だぞ。一体誰が、何のためにそんな真似を……」
暁月様はそう呟き、ハッとしたように目を見開いた。
「待て。小春、この井戸の下を通っている水脈は、どこへ繋がっていると水竜は言っている?」
「えっ? ええと……ねえ、水竜ちゃん。ここのお水は、どこに流れていくの?」
『えっとね……ずっと南のほう。綺麗なお花がたくさん咲いている、大きなお庭のあるお家のお池と、そこの台所の井戸に繋がっているよ』
南のほうで、綺麗なお花がたくさん咲いている庭。
私の翻訳を聞いた暁月様は、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「……『菊壺』だ」
「菊壺?」
「ああ。撫子という妃が暮らしている宮だ。彼女は病弱だが、心優しく、花を愛する妃でな。……先日、御典医(ごてんい:専属の医者)から、撫子が私の子を懐妊(かいにん:妊娠すること)したと報告を受けたばかりなのだ」
「えっ……!?」
私は息を呑んだ。
帝の子を授かる。それは、この後宮において最大の「名誉」であり、同時に、他の妃たちから最も「命を狙われる」理由になる。
「撫子は体が弱いため、まだ懐妊の事実は一部の者にしか伏せさせていた。だが、どこからか情報が漏れたのだろう。誰かが撫子を妬み、直接手を下すのではなく、彼女が日々口にする『水』そのものに呪いをかけて、腹の子ごと殺そうと企んだに違いない」
暁月様の声は、地を這うように低く、怒りに震えていた。
後宮の女たちの権力闘争。
そのドロドロとした黒い感情が、ついに生まれてくる前の小さな命と、罪のない水竜までも犠牲にしようとしているのだ。
(……絶対に、許せない)
私もギュッと拳を握りしめた。
私はお妃争いには関わりたくない。
でも、誰かを呪うためにあやかしを利用したり、命を奪おうとしたりする卑劣なやり方は、陰陽師の端くれとして見過ごすわけにはいかない!
「暁月様。一刻も早く、井戸の底からその『呪いの石』を取り出して、水を浄化しなければなりません。このままだと、撫子様も、水竜ちゃんも死んでしまいます!」
「だが、どうやって井戸の底から石を拾い上げる? 縄梯子を取りに人を呼べば、犯人に警戒されるかもしれん」
「私がやります!」
私は持っていた竹箒を放り投げ、袿の裾を帯にギュッと挟み込んで動きやすい格好になった。
「この井戸の壁、石がゴツゴツしていて足場になりそうです。私が下まで降りて、石を拾ってきます!」
「馬鹿な! 小春、お前のような小柄な娘が降りられる深さではない! 万が一足を滑らせれば……!」
暁月様が鋭い声で制止したが、私は井戸の縁に足をかけた。
「大丈夫です! 私、昔から木登りと石垣登りだけは得意なんです。それに……」
私は少しだけ振り返り、暁月様に向かってニカッと笑ってみせた。
「私には『あやかし謎解き係』としてのプライドがありますからね! 暁月様は、上で私を引き上げる準備をしていてください!」
そう言うや否や、私は返事を待たずに井戸の中へとスルスルと降りていった。
「あっ、おい! 小春……っ!!」
上から暁月様の焦ったような声が聞こえたが、私は壁の凹凸を頼りに、慎重に、しかし素早く下へと降りていった。
井戸の中はヒンヤリと冷たく、下に行くほど呪いのドス黒い気が濃くなって息苦しくなる。
(うぅ、気持ち悪い……。でも、頑張らなきゃ!)
『お姉ちゃん、気をつけて……!』
水面スレスレまで降りると、水竜が心配そうに私を見上げていた。
「大丈夫だよ。今、悪いものを取ってあげるからね」
私は壁の石にしっかりと足を引っかけ、片手を水の中へと突っ込んだ。
氷のように冷たい水の中に、ドロリとした嫌な感触がある。
私はそれを鷲掴みにし、「えいっ!」と引き抜いた。
それは、人間の髪の毛と、どす黒く変色した血のようなもので固められた、拳ほどの大きさの不気味な『石(呪詛の塊)』だった。強烈な腐臭が鼻を突く。
「よし、取った……! 暁月様! 取れましたよー!」
私が上に向かって叫ぼうとした、その時だった。
「——っ!?」
足元の石に生えていた苔に滑り、ガクンと体勢が崩れた。
片手が塞がっているため、壁を掴み直すことができない。
(あ、ヤバっ……落ちる!)
真っ暗な冷たい水の中へ真っ逆さまに落ちていく——そう覚悟して目をつぶった瞬間。
「……無茶をするなと、言っただろうが」
ガシッ!!
私の空いている方の腕を、上から伸びてきた力強い手がしっかりと掴んだ。
「えっ……!?」
目を開けると、なんと暁月様が井戸の中に上半身を乗り出し、身を乗り出して私の腕を掴んでくれていたのだ。
彼の高貴な狩衣の袖は泥で汚れ、美しい顔には焦りの色が浮かんでいた。
「あ、暁月様……! どうしてここまで……危ないですよ!」
「自分の直属の部下を、こんな薄暗い井戸の底で死なせるわけにはいかん。……しっかり掴まれ、引き上げるぞ!」
暁月様はそう言うと、片腕の力だけで私をグイッと引き上げた。
そのままの勢いで、私は井戸の外へと放り出され、石畳の上にドサッと尻もちをついた。
「いっったぁ……」
「無事か、小春」
すぐに暁月様も井戸から身を引き起こし、私のそばに膝をついた。
その手は泥だらけで、息も少し荒くなっている。
帝である彼に、こんな力仕事をさせてしまったなんて。
「も、申し訳ございません! 私の不注意で、暁月様のお手を煩わせてしまって……!」
私が慌てて平伏しようとすると、暁月様は「よい」と短く言って、私の手の中にある黒い塊に目を向けた。
「それが、呪いの石か」
「はい……。髪の毛と、動物の血で呪文が塗り込められています。相当強い怨念がこもっています」
私は石畳の上にその塊を置き、懐から一枚の真っ白な『懐紙(かいし:神聖な和紙)』を取り出した。
そして、人差し指と中指を立てて呪印を結び、気を練り上げる。
「——急急如律令! 清らかなる光よ、邪悪なる穢れを祓いたまえ!」
私が念を込めて懐紙を石に投げつけると、パァンッ! と弾けるような音がして、呪いの石は白い煙を上げてボロボロと崩れ去り、最後にはただの土くれに戻った。
呪いが解けたのだ。
ゴポポポッ……!
その瞬間、井戸の底から澄んだ水の湧き出す音が聞こえた。
『わぁっ! お水が、お水が綺麗になったよ! お姉ちゃん、ありがとう!』
井戸の底から、水竜の弾むような声が響いてくる。
同時に、辺りを漂っていたドス黒い瘴気がスゥッと霧散し、木漏れ日が優しく石畳を照らし始めた。
「……気配が消えたな。水神の苦しみも癒えたようだ」
暁月様はホッと息を吐き、少しだけ口角を上げて笑った。
「見事だ、小春。お前がいなければ、撫子と腹の子は、呪われた水を飲み続けて命を落としていただろう。……よくやってくれた」
その真っ直ぐで温かい言葉に、私は思わず顔が熱くなるのを感じた。
(冷徹皇帝なんて呼ばれてるけど……本当は、誰よりもこの後宮の人たちを大切に思っているんだな)
「えへへ……。私、あやかしとお話することくらいしかできませんけど、お役に立ててよかったです。これで、撫子様も安心して元気な赤ちゃんを産めますね!」
私が泥だらけの顔で笑うと、暁月様は不意に手を伸ばし、私の頬についていた泥を、彼の長い指でそっと拭った。
「あっ……」
「特任女官が泥だらけでは、私の顔に泥を塗るようなものだからな。……今日はもう戻って休め。あとは私が、犯人探しを引き受けよう」
優しく触れられた頬が、なぜか和三盆を食べた時よりも甘く熱く感じて、私は慌てて目を逸らした。
「は、はいっ! お疲れ様でしたぁ!」
私は真っ赤になった顔を隠すように立ち上がり、竹箒を抱えて逃げるように走り出した。
身分差があるのはわかっている。
私はただの没落陰陽師の娘で、彼は雲の上の人だ。
でも、彼と一緒に謎を解き、あやかしたちを助けるこの「お仕事」が、少しずつ私の中で大切なものになり始めているのは間違いなかった。
その夜。
清涼殿(せいりょうでん:帝のプライベート空間)の執務室で、暁月様は一人、冷たい目を細めていた。
「……菊壺の井戸に呪いを流し込んだ犯人は、先日の『青い鳥の呪い』と同じ手法を使っていたか」
暁月様の目の前には、小春が浄化した呪いの石の残骸が置かれている。
彼には、その残骸から漂う微かな『気』の持ち主が誰か、はっきりと視えていた。
「紅葉。……次期皇后の座を焦るあまり、ついに生まれる前の赤子にまで手をかけるとはな」
高位の妃であり、最も強い権力を持つ悪女・紅葉。
彼女の背後には、国政を牛耳る大貴族の影がある。
今の暁月様の力だけでは、決定的な証拠がない限り、彼女を完全に切り捨てることはできない。
だが、これ以上好き勝手させるわけにはいかない。
「小春……。あの裏表のない不思議な娘が、この淀んだ後宮の空気を変えてくれるかもしれないな」
暁月様は窓の外に浮かぶ月を見上げ、静かに決意を固めた。
華やかな後宮を舞台にした権力闘争は、いよいよ激しさを増そうとしている。
没落陰陽師の娘と冷徹皇帝の宮廷ミステリーは、まだ始まったばかりである。




