特任女官の初仕事と、鏡の中のすり替わり妃
「……解せぬ」
朝の陽ざしが差し込む真新しい自室で、私——小春は、支給されたばかりの鮮やかな薄紅色の着物を前に腕を組んでいた。
昨夜、この瑞凰国の絶対権力者である帝・暁月様に特技の「あやかしの声が聞こえること」がバレてしまった私は、問答無用で彼直属の『特任女官(とくにんにょかん:特別に任務を与えられた女性役人)』に任命されてしまった。
一夜明けてみれば、私の生活は一変していた。
大部屋で先輩女官たちのいびきを聞きながら雑魚寝していた底辺の下働き生活から一転、後宮(こうきゅう:帝の妃たちが暮らす男子禁制のエリア)の片隅とはいえ、立派な個室を与えられたのだ。
しかも、目の前に置かれた着物は『袿』と呼ばれる、中級以上の女官しか着られない上質な絹の着物である。昨日まで私が着ていた、麻のゴワゴワした着物とは雲泥の差だ。
「お給料も三人前になるって言われたし、朝ごはんにはふっくらした白米と焼き魚が出たし……待遇だけ見れば、完全なる『成り上がり』なんだけど……」
私はため息をつきながら、豪華な袿に袖を通した。
待遇が良くなったのは嬉しい。美味しいご飯が食べられるのも最高だ。
でも、その代償が「冷徹皇帝の密偵として、後宮のドロドロした呪いや謎を解き明かすこと」だなんて、割に合わなすぎる。
お妃争いなんて、命がいくつあっても足りない恐ろしい戦場なのだ。
『おや、小春。ずいぶんと出世したねぇ』
ふと、天井の梁のあたりから、しわがれた声が聞こえた。
見上げると、そこには半透明の姿をしたおじいさんが逆さまにぶら下がっていた。
彼は、この古い部屋に昔から住み着いている「座敷童」ならぬ、ただの「おしゃべりな幽霊のおじいちゃん」である。
「おじいちゃん、おはよう。出世っていうか、厄介事を押し付けられただけだよ。私はただ、美味しいものを食べて平穏無事に生きたいだけなのに……」
『ひっひっひ。帝様の命令とあらば、逆らうわけにはいくまいよ。気をつけて働きなされや』
おじいちゃんはふわりと消えていった。
あやかしや霊の『声』が聞こえ、おしゃべりができる。それが、没落した陰陽師(おんみょうじ:星占いや呪術で悪霊を祓う古代の役人)一族の末裔である私の秘密の特技だ。
この力を使って、暁月様のために働く。
それが私の新しい「お仕事」なのだ。
コンコン、と控えめな戸を叩く音がした。
「小春殿。暁月様からの『お召し(お呼び出し)』です」
戸の向こうから聞こえたのは、暁月様の側近である蔵人(くろうど:帝の秘書のような役割の役人)の声だった。
私は急いで身だしなみを整え、「はい!」と返事をして部屋を出た。
案内されたのは、後宮のさらに奥、帝と限られた者しか入ることが許されない「清涼殿(せいりょうでん:帝のプライベートな空間)」の裏手にある小さな茶室だった。
「遅いぞ、小春」
部屋に入るなり、氷のように冷たい声が降ってきた。
上座に座っているのは、もちろん暁月様だ。
今日も息を呑むほど美しい。深い黒曜石のような切れ長の瞳、スッと通った鼻筋、そして無駄のない引き締まった体躯。
紺青色の直衣(のうし:貴族や帝の日常着)が、彼の高貴さをさらに際立たせている。
ただ、その美貌には一切の感情が宿っておらず、まさに「冷徹皇帝」という異名がぴったりだった。
「も、申し訳ございません! 慣れない着物で歩きにくくて……」
「言い訳はよい。さっそくお前の初仕事だ」
暁月様は扇子で軽く畳を叩き、私に座るよう促した。私は慌てて正座する。
「お前には、桔梗という妃の調査を命じる」
「桔梗様、ですか?」
「うむ。彼女は元々、口数も少なくおとなしい、花を愛でるような心優しい妃だった。だが、ここ数日……急に様子がおかしくなったのだ」
暁月様の顔が、わずかに険しくなる。
「人が変わったように暴れ出し、用意された豪華な食事には見向きもせず、庭の池の鯉を素手で捕まえて生で食べようとしたり、聞いたこともないような下品な言葉で女官たちを怒鳴り散らしたりしているらしい」
「えっ……池の鯉を、生で!?」
私は思わず顔を引きつらせた。いくらお腹が空いていても、生魚の丸かじりはちょっと遠慮したい。
「御典医(ごてんい:宮廷の専属医)に診せたが、原因は不明だ。ただの乱心(精神的な病気)として片付けられようとしているが、私の目には、桔梗の部屋を覆う『黒いモヤ』が視えた。
あれは間違いなく、何らかのあやかしや呪いの類だ」
暁月様は、あやかしを「視る」ことはできるが、「声を聞く」ことはできない。だからこそ、私が必要なのだ。
「なるほど……。本来の性格とは全く違う行動をとる。それは陰陽道(おんみょうどう:陰陽師が使う呪術や占いの体系)でいうところの、『憑き物』の症状に似ていますね」
「ツキモノ?」
「はい。動物の霊や、低級なあやかしが人間に取り憑いて、その人の体を乗っ取ってしまう現象です。ただ……後宮には強力な結界(けっかい:悪霊の侵入を防ぐ霊的なバリア)が張られているはず。野生のあやかしが簡単に妃様に取り憑けるとは思えないのですが」
私が首を傾げると、暁月様は鋭い視線で私を見据えた。
「だからこそ、お前が調べろ。ただの病か、あやかしの仕業か。もしあやかしの仕業だとしたら、なぜ桔梗に取り憑いたのかを探るのだ。お前には『掃除係』という名目で、桔梗の宮(みや:妃の住む建物)に出入りする権限を与える」
有無を言わせぬ命令である。
私は深々と頭を下げた。
「……承知いたしました。行ってまいります」
桔梗様が暮らす「飛香舎」は、後宮の中でも少し外れにあった。
私は下働き時代に使っていた竹箒と雑巾を持ち、「お掃除に入りますー!」と元気よく声をかけて中へと入った。
中級女官の袿を着ているのに掃除用具を持っているのは少し不格好だが、「特任女官の気まぐれ」ということにしてもらった。
部屋の中は、凄惨な有様だった。
美しい障子は破られ、高価な壺は割れ、床には食べ散らかされた跡がある。
女官たちは皆、部屋の隅で怯えるように固まっていた。
「おいコラァ! こんな味が薄い草みてぇな飯、食えるか! もっと血の滴るような生肉を持てこい!!」
部屋の奥から、ドスの効いた野太い声が響いた。
そちらを見ると、美しい顔立ちをした女性——桔梗様が、着物をだらしなくはだけさせ、胡座をかいて座っていた。
その目はギラギラと充血し、口の周りは何かを食べたのか赤く汚れている。
(ひぃっ! 絶対に関わっちゃダメなタイプの人だ!)
私は内心震えながらも、目を凝らして桔梗様を「視た」。
暁月様の言う通り、桔梗様の体からはドス黒いモヤが立ち昇っている。
そして、そのモヤの中に、チラチラと『別の何か』の姿が重なって見えた。
尖った耳、鋭い牙、そして二股に分かれた尻尾。
(……猫又? いや、野狗子(やくし:獣のあやかし)の一種か。
とにかく、桔梗様の魂じゃない別のあやかしが、体を操っているんだ)
つまり、これは#入れかわり——正確に言えば、あやかしによる「肉体の乗っ取り」事件だ。
私は雑巾がけをするふりをしながら、部屋の中をジリジリと移動した。
あやかしに直接話しかけても、暴れられるだけだ。
この部屋にいる「別のあやかし」から情報を聞き出すのが一番手っ取り早い。
私が目をつけたのは、部屋の片隅に置かれた立派な「銅鏡(どうきょう:青銅で作られた古い鏡)」だった。
古くから大切に扱われてきた物には、長い年月を経て魂が宿り、「付喪神」というあやかしになることがある。
この鏡からは、微かに古い霊気が漂っていた。
私は鏡の裏を磨くふりをして、小声で話しかけた。
「ねえ、鏡のおじいさん。聞こえる? 私、小春っていうの。桔梗様に何があったのか、教えてくれないかな」
私が声をかけると、鏡の表面が水面のように波立ち、中にぼんやりと老人の顔が浮かび上がった。
一般の人間には見えない、付喪神の姿だ。
『おお……わしの声が聞こえる人間が来るとは珍しい。小春とやら、どうか主を、桔梗様を助けてやってくだされ!』
「やっぱり、あの中身は桔梗様じゃないのね?」
『左様でございます。あれは、裏山に住んでいた野犬の悪霊ですじゃ。三日前の夜、あの悪霊が突然現れ、桔梗様の魂を弾き出して、肉体を乗っ取ってしまったのです』
鏡のおじいさんは、悲しそうに涙を流した(鏡の表面が少し曇った)。
「でも、後宮の結界をどうやって野犬の悪霊が通り抜けたの? それに、弾き出された桔梗様の本当の魂はどこへ……?」
『結界が破られたのは、誰かがこの部屋に「呪いの形代(かたしろ:呪術に使う身代わりの人形)」を持ち込んだからですじゃ。そして、行き場を失った桔梗様の魂は……今、わしの中……この鏡の裏側に避難しておられます』
「えっ!?」
私は驚いて、思わず大きな声を出してしまった。
「ああん? なんだテメェ、さっきからブツブツと気持ち悪いんだよ!!」
ヤバい。私の声に反応して、野犬の悪霊が乗り移った桔梗様が立ち上がり、こちらをギロリと睨みつけた。
その手には、重たい金属製の燭台(しょくだい:ろうそく立て)が握られている。
「おいおいおい、嘘でしょ!? 私、ただの掃除係ですよ!?」
「うるせぇ! 目障りだ、叩き潰してやる!!」
野犬の霊は、桔梗様の細い体からは想像もつかないような怪力で、私に向かって燭台を振り下ろしてきた。
「ひぃぃぃっ!」
私は反射的に目をつぶり、頭を抱えた。
——しかし。
待てど暮らせど、痛みはやってこない。
恐る恐る目を開けると、私の目の前に、紺青色の広い背中があった。
「……あ、暁月様!?」
なんと、絶対君主であるはずの帝・暁月様が、桔梗様の振り下ろした燭台を、自身の扇子一つでガシッと受け止めていたのだ。
扇子には硬い金属の骨組みが仕込まれているようだが、それでも人間の力業とは思えない。
「帝が自ら出向くなど、あり得ないことだがな。……お前の帰りが遅いので、様子を見に来て正解だったようだ」
暁月様は冷ややかな声でそう言うと、バンッ! と扇子を弾き返し、桔梗様(の中の野犬)を後ろに突き飛ばした。
周囲の女官たちが「み、帝様!?」とパニックになり、慌てて平伏(へいふく:額を床にこすりつけること)する。
「暁月様! 危ないです、あの中身は桔梗様じゃありません! 野犬のあやかしが入れ替わって乗っ取っているんです!」
「やはりそうか。道理で、禍々しい気が視えるわけだ」
暁月様は眉をひそめ、私を一瞥した。
「小春。その野犬を追い出す方法はわかるか?」
「はい! 鏡の付喪神が教えてくれました。誰かがこの部屋に『呪いの形代』を隠しているんです。それが野犬の霊をこの部屋に繋ぎ止めているアンテナみたいな役割をしています。それを見つけて燃やせば、野犬の霊は強制的に追い出されます!」
「形代、だな。……ならば、探すまでもない」
暁月様は鋭い目で部屋全体を見回した。
あやかしの声は聞こえなくても、彼には『気』を視る力がある。
「あそこだ。あの掛け軸の裏に、黒いモヤが集中している」
暁月様の指示に従い、私が掛け軸の裏を探ると、壁の隙間に和紙で作られた不気味な人形(形代)が隠されているのを見つけた。
赤い文字で、呪いの印がびっしりと書かれている。
「これです! これが原因です!」
「燃やせ」
短い命令と共に、暁月様が近くにあった蝋燭の火を指さした。
私は躊躇なく、その形代を火に投げ込んだ。
『ギャアアアアアアッ!!』
形代がチリチリと燃え上がった瞬間、桔梗様の口から、野犬の悲鳴のような叫び声が上がった。
そして、桔梗様の体からドス黒いモヤが勢いよく飛び出し、天井を突き破って外へと消えていった。
呪いの媒体が破壊されたことで、悪霊が強制送還されたのだ。
「あ……」
糸が切れた操り人形のように、桔梗様の体がその場に崩れ落ちる。
「小春、今だ! 本当の桔梗の魂を戻せ!」
「はいっ!」
私は鏡の前に駆け寄り、陰陽道に伝わる簡単な呪詞(じゅし:呪文のこと)を唱えた。
「——急急如律令! 迷える魂よ、あるべき器へ還りたまえ!」
鏡の中から、温かく澄んだ光の玉がふわりと飛び出し、倒れた桔梗様の胸へと吸い込まれていった。
入れかわり は終わり、魂が元の場所に戻ったのだ。
しばらくして。
「……ん……あれ……? わたくし、どうしてこんなところで寝転んでいるのかしら……?」
ゆっくりと目を覚ました桔梗様は、いつものおっとりとした声で呟いた。
その目には、先程までの凶暴な光は一切なく、ただ困惑の色が浮かんでいる。
「桔梗様! よかったです、お気が触れたわけではなかったのですね!」
女官たちが泣きながら駆け寄るのを見て、私はホッと胸を撫で下ろした。
「ご苦労だったな、小春」
事件の報告を終え、再び清涼殿の茶室に戻った私は、暁月様から労いの言葉をかけられていた。
「いえ……暁月様が助けてくださらなければ、私は燭台で頭を割られていました。ありがとうございました」
「特任女官をあっさり死なせては、私が困るだけだ。気にするな」
冷たい言い方だが、彼なりに私の身を案じてくれたのだろう。
少しだけ、この冷徹皇帝に対する見方が変わった気がする。
「しかし……問題は残っていますね」
私が真面目な顔で言うと、暁月様も頷いた。
「ああ。誰が桔梗の部屋に、あの呪いの形代を隠したのか、だ」
あんな高度な呪いの品を、末端の女官が用意できるはずがない。
つまり、この事件の裏には、桔梗様を邪魔に思い、貶めようとした別の妃——あるいはその後ろ盾である権力者の存在があるのだ。
(これぞまさに、大奥名物の権力闘争ってやつね。……絶対に関わりたくないドロドロの泥沼だわ)
「桔梗は、最近私の渡り(わたり:帝が夜に妃の部屋を訪れること)が多かった妃だ。彼女が乱心したとなれば、一番得をするのは……」
暁月様の目が、スッと細められた。
その冷たい瞳の奥に、怒りのような鋭い光が揺れているのを、私は見逃さなかった。
彼もまた、後宮という華やかな籠の中で、目に見えない敵と戦っているのかもしれない。
「まぁ、犯人探しは暁月様の仕事です! 私はあやかしの謎を解いたので、これで今日の業務は終了ということで! お腹も空きましたし、お昼ご飯にしてもよろしいでしょうか!」
私がわざと明るく言って立ち上がると、暁月様は呆れたように小さく息を吐いた。
「……たくましい奴だ。よい、下がれ。ただし、明日もまた別の宮の調査を命じる。覚悟しておけ」
「ええーっ! 明日もですか!? 勘弁してくださいよー!」
私の悲鳴は、無情にも茶室の壁に吸い込まれていった。
没落陰陽師の娘による、あやかしと陰謀渦巻く後宮でのお仕事ライフは、まだ始まったばかりである。
平穏無事な生活が戻ってくる日は、果たして来るのだろうか……。




