↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/10

下働き女官と黒猫の怨霊

華やかな後宮は、帝(みかど:国の最高権力者である天皇のこと)への寵愛や権力を巡って、女たちの陰謀や謎が渦巻く危険な場所だ。


ここ、瑞凰国(ずいおうこく)の王宮の奥深くに存在する「桜鳴宮(おうめいきゅう)」は、まさにその縮図だった。


江戸時代の日本に存在したという「大奥(おおおく:将軍の正妻や側室、女中たちが暮らした男子禁制の場所)」のように、ここは帝以外の男性が立ち入ることを厳しく禁じられた女の園である。


豪華絢爛な着物を身に纏い、優雅に琴の音を響かせる美しい妃(きさき)たち。


彼女たちはみな、たった一人の帝からの愛を勝ち取り、一族を繁栄させるために日々火花を散らしている。


誰かが帝の目に留まれば、次の日にはその妃の着物が切り裂かれ、誰かが身ごもれば、その食事に毒が盛られる。


表向きはむせ返るほどに甘いおしろいの香りが漂う美しい庭園も、裏を返せば嫉妬と怨念が泥のように渦巻く、恐ろしい戦場なのだ。


「あーあ、くわばら、くわばら。私には一生縁のない世界でよかった」


夜空に浮かぶ丸い月を見上げながら、私——小春(こはる)は、竹箒(たけぼうき)で落ち葉を掃き集めながら大きく伸びをした。


私は今年で十五歳になる。この桜鳴宮で働く何百人という女官(にょかん:宮廷で働く女性の役人)の中でも、最も身分が低い「下働き」の身だ。


華やかな妃たちのお世話なんて高尚な仕事はさせてもらえず、毎日毎日、広い庭の落ち葉掃きや、山のような洗濯物と格闘し、冷たい水で床を磨くのが私のお仕事である。


お給料は雀の涙ほどだし、手は荒れるし、先輩女官たちは厳しい。


でも、私は今の生活にそこそこ満足していた。


なぜなら、命を狙われる心配がないからだ。


私の実家は、かつてこの国で「陰陽師(おんみょうじ:古代日本で、星占いや吉凶を占い、悪霊や災いを呪術で祓うことを仕事としていた役人)」として栄えた名家だった。


しかし、時代が流れて人々の暮らしが豊かになるにつれ、「あやかし」や「呪い」といった目に見えないものを信じる人が減り、我が家はすっかり没落してしまったのだ。


借金取りに追われる両親を助けるため、私は住み込みでご飯が食べられるこの後宮に働きに出たというわけだ。


私には、先祖代々受け継いできたちょっとした「特技」がある。


それは、『あやかしや霊の声が聞こえ、おしゃべりができる』ということ。


とはいえ、強力な呪文で悪霊を退治したり、式神(しきがみ:陰陽師が使う霊的な使い魔)を召喚して空を飛んだりするような、かっこいいことは一切できない。


ただ、その辺をふよふよと漂っている幽霊のおじいちゃんとお天気の話をしたり、台所に住み着いている小さな妖怪に「お餅の焼き加減、今がいいよ!」と教えてもらったりする程度だ。


この特技がバレると、「気味が悪い」と苛められたり、厄介な呪い騒動に巻き込まれたりするに決まっている。


だから私は、この後宮に入ってからは「ただの元気で丈夫な下働き」として、一切の特技を隠して平穏無事に生きることを心に誓っていたのだ。


お妃争いや権力闘争なんて、まっぴらごめんである。


「よし、落ち葉集めはこれくらいにして、お夜食の焼き芋でも食べようっと」


私が箒を片付けようとした、その時だった。


『……にゃあ……』


背後の暗がりから、か細い声が聞こえた。


ビクッとして振り返ると、庭の隅にある大きな桜の木の陰から、二つの赤い光がこちらを見つめている。


月明かりに照らし出されたのは、真っ黒な毛並みを持った一匹の猫だった。


しかし、その姿はどこか透けていて、足元はゆらゆらと霞んでいる。


生きている猫ではない。


あやかし——猫の霊だ。


「ヒッ……出たぁ……!」


私は思わず息を呑んだ。


ここ数日、後宮の女官たちの間でもちきりの恐ろしい噂話があったのだ。


『夜更けの庭に、赤い目をした黒猫の怨霊が現れる』


『あの黒猫は、権力争いに敗れて井戸に身を投げた女の怨念が姿を変えたものよ』


『目が合った者は、恐ろしい呪いにかかって三日三晩高熱にうなされるらしいわ……!』


そんな物騒な噂のせいで、夜の当番を嫌がる女官が続出し、一番下っ端の私に夜中の掃除が回ってきたのである。


(どうしよう、目を合わせちゃダメだって言ってたのに、バッチリ目が合っちゃった! 呪われる! 怨念で高熱にうなされる!)


私は箒を構え、ガクガクと震えながら後ずさった。


黒猫の怨霊は、音もなくスッと私に近づいてくる。


そして、私を見上げて口を開いた。


『……お腹、すいたにゃ』


「…………え?」


『お腹すいたの。ママどこ? ずっと探してるのに、誰も見えないみたいで踏まれそうになるし、怖いし、お腹ぺこぺこにゃ……』


……あれ?


怨念は? 女の情念は? 呪いは?

よくよく見てみれば、黒猫はまだ子猫だった。


透けているけれど、丸っこくてふんわりしていて、尻尾の先が少し曲がっている。


赤い目だと思っていたのは、月明かりが反射してそう見えていただけの、綺麗な琥珀色の瞳だった。


「……あなた、怨霊じゃないの?」


私が小声で尋ねると、子猫の霊は不思議そうに首を傾げた。


『おんりょう? なにそれ美味しいの? あたち、昨日からお魚食べてないの。ママとはぐれちゃって、ここから出られないの』


子猫の目から、ポロポロと霊的な涙がこぼれ落ちた。


どうやらこの子は、後宮に迷い込んで死んでしまった哀れな子猫の霊らしい。


強い未練や怨みがあるわけではなく、ただ「お腹が空いた」「お母さんに会いたい」という純粋な思いだけで、この世に留まってしまっているだけなのだ。


(なんだ、ただの迷子の子猫じゃないの……。みんな、適当な噂ばかり広めてからに)


私はホッとため息をつき、同時にこの小さなあやかしが可哀想になった。


後宮は、生きている人間でさえ息が詰まる場所だ。


こんな小さなあやかしにとっては、さぞ恐ろしい場所だっただろう。


「お魚かぁ。ちょっと待っててね」

私は懐をゴソゴソと探り、紙に包んでいた「煮干し」を取り出した。


これは、台所の料理長にお願いして、出汁(だし)を取った後の余りをもらっていた私のおやつである。


「はい、これ。少し硬いけど、お魚だよ」


私が地面に煮干しを置くと、子猫の霊は『にゃあ!』と嬉しそうに鳴いて、それにパクッと食いついた。


物理的な煮干しを霊が食べられるわけではない。しかし、私が「この子に食べさせる」と念を込めて供えることで、煮干しの『気(き)』をあやかしが吸収することができるのだ。


これも、陰陽師の端くれとしての小さな技術である。


『美味しい! 美味しいにゃあ! お姉ちゃん、ありがとう!』


煮干しの気を食べた子猫の霊は、満足そうにゴロゴロと喉を鳴らした。


すると、透けていた黒い体が、ふわりと温かい光に包まれ始めた。


お腹が満たされたことで未練が消え、あるべき場所へ還ろうとしているのだ。


「ママのところへ帰るんだよ。もう迷子になっちゃダメだからね」


『うん! お姉ちゃん、ばいばーい!』


子猫の霊はパァッと明るい光の粒になり、夜空へと立ち昇って消えていった。


「……ふふっ。怨霊の正体が迷子の子猫だなんて、先輩たちに言っても信じないだろうな」


私は空を見上げて小さく笑い、残った物理的な煮干しをポリッと自分でかじった。うん、美味しい。


事件は無事に解決。特技を誰にも知られることなく、人助けならぬ猫助けができた。今日も私の平穏な一日は完璧だ。


「――お前、今、誰と話していた?」


突然、背後から冷たく、そして凛とした男の声が響いた。


心臓が口から飛び出そうになった。


後宮は男子禁制だ。夜警の兵士でさえ、この時間帯に庭の奥深くまで入ってくることは許されていない。


恐る恐る振り返ると、そこには信じられないほど美しい青年が立っていた。


月明かりの下、夜の闇を切り取ったような艶やかな黒髪が風に揺れている。


身に纏っているのは、最高級の絹で仕立てられた狩衣(かりぎぬ:平安時代の貴族が着ていた普段着だが、この国では高位の者の象徴)で、銀糸で緻密な龍の刺繍が施されていた。


そして何より目を引いたのは、その顔立ちだ。


氷のように冷たく、けれど目を逸らすことができないほど整った美貌。


切れ長の瞳は黒曜石のように深く、私を射抜くように見下ろしている。


(……やばい。めちゃくちゃ高貴な人だ。っていうか、なんでこんなところに男の人が!?)


私は咄嗟に、地面に膝をついて深く平伏(へいふく:両手と額を地面につけてお辞儀をすること)した。


「も、申し訳ございません! 私はただの落ち葉掃きの下働きでして、誰とも話しておりません! 独り言でございます!」


心臓がバクバクと五月蝿く鳴っている。


もしこの人が後宮に忍び込んだ賊だとしたら、顔を見られた私は口封じに殺されるかもしれない。


いや、服装からして賊には見えない。では、高位の貴族か? どちらにせよ、下働きの私が関わっていい相手ではない。


「嘘をつけ」


青年は私の目の前まで歩み寄り、冷ややかな声で言った。


「私の目には、お前の前に光る球体が現れ、空へ消えていくのが『視えて』いた。そしてお前は、確かにそれに向かって声をかけていたな。……あれは、ここ数日噂になっていた黒猫か?」


「えっ……?」


私は思わず顔を上げてしまった。


視えていた? この人、あやかしが視えるの?


「お前は、あれと会話ができたのか。答えろ」


青年の鋭い視線に射竦められ、私は観念した。


ここで嘘をつき通せる相手ではないと、本能が告げていた。


「は、はい……。お腹を空かせた子猫の迷い霊だったので、お供え物をして成仏させただけでございます。決して怪しい術を使ったわけでは……!」


私の言葉を聞いた瞬間、青年の冷たい瞳に、わずかな驚きと、そして強い光が宿った。


「そうか。お前は、『声』が聞こえるのだな」


青年はそう言うと、私の目の前でスッと身を屈め、私の顔をまじまじと覗き込んだ。


近すぎる。あまりの美しさに息が止まりそうになる。


「ずっと探していた。私には、この後宮に巣食う禍々しい気や、あやかしたちの姿を『視る』ことはできるが、奴らが何を求め、何を訴えているのか、『声を聞く』ことができなかったのだ」


「は、はぁ……」


「ここ最近、後宮ではおかしなことが多発している。ある妃は夜な夜な丑の刻参り(うしのこくまいり:深夜に神社の木に藁人形を釘で打ち付け、憎い相手を呪い殺そうとする恐ろしい儀式)をしているという噂があり、またある妃は人が変わったように暴れ出す奇病に罹っている。これらが単なる女たちの争いなのか、それともあやかしの仕業なのか、私の力だけでは見極めることができずに頭を悩ませていたのだ」


青年はスラスラと恐ろしい後宮の闇を語る。


いやいや、ちょっと待って。そんな機密情報、一番下っ端の下働きに話しちゃダメでしょ!


「あの、私、本当にただの掃除係でして! 特技と言っても、お腹を空かせた猫に煮干しをあげるくらいしかできない、しがない没落陰陽師の娘でして! 難しい呪いとか、お妃様たちのドロドロした争いとか、絶対に関わりたくないんです! 平穏無事に生きたいんです!」


私は必死に両手を振ってアピールした。


しかし、青年は私の言葉を完全に無視して、ふっと口角を上げた。


その笑顔は美しかったが、私にとっては悪魔の微笑みのように見えた。


「お前の名は?」


「こ、小春、でございます……」


「よし、小春。お前を今日から、私直属の特任女官に任命する」


「……はい?」


あまりの急展開に、私の声が裏返った。


「お前のその特技を使い、この後宮に蔓延る呪いやあやかしの謎を解き明かせ。そして、誰が裏で糸を引いているのか、真実を私に報告しろ」


「いやいやいや! 無理です! 命がいくつあっても足りません! どうかお許しを!」


私が泣きそうになりながら土下座をすると、青年は立ち上がり、静かに、しかし絶対的な権力を感じさせる声で言った。


「帝(みかど)の命令に逆らうというのか?」


「…………え?」


みかど。


それは、この瑞凰国において、空の上の太陽と同じ。


すべてを統べる絶対君主であり、後宮の女たちが血で血を洗う争いをしてまで求めている、たった一人の主。


冷徹で、美しく、そして残酷だと噂される、若き皇帝・暁月(あかつき)様。


「ひぃっ……!!」


私は地面に頭を擦り付けたまま、全身の毛穴が全開になるのを感じた。


つまり、私がさっきからタメ口混じりで言い訳をしていた相手は、この国の最高権力者だったということだ。


首が飛ぶ。絶対に首が飛ぶ。


「断れば、不敬罪で明日には牢屋行きだが、どうする?」


「よ、喜んでお引き受けいたしますぅぅぅ!!」


私は涙声で叫んだ。


こうして、平穏な下働き生活を望んでいた私の願いは、もろくも崩れ去った。


色恋沙汰も権力闘争も大嫌いな没落陰陽師の娘は、あろうことか一番関わってはいけない冷徹皇帝の「あやかし謎解き係」として、後宮の深い闇へと足を踏み入れることになってしまったのである。


(お母ちゃん、お父ちゃん……小春の平穏な人生は、今日で終わりました……)

月明かりの下、私の哀れな心の叫びだけが、夜の庭に虚しく響き渡っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。