特任女官と、月下に響く再生の呪詞
「……絶対に失敗できない。私の平穏な未来と、撫子様の命がかかっているんだから!」
決戦の夜。私——小春(こはる・15歳)は、支給された中で最も上質な薄紅色の袿(うちき:絹で作られた表着のこと)を身に纏い、清涼殿(せいりょうでん:帝のプライベートな空間)の鏡の前で、自分の両頬をパンパンと強く叩いた。
私の実家は、かつて星占いやまじない、悪霊祓いを行っていた「陰陽師」の没落した一族だ。
私には「あやかしや霊の声が聞こえ、話ができる」という秘密の特技がある。
その特技を瑞凰国の最高権力者である若き帝・暁月様に知られて以来、私は彼直属の「特任女官」として、後宮(こうきゅう:帝の妃たちが暮らす男子禁制の園)に渦巻く数々の怪事件を解決してきた。
そして今、後宮は最大の危機を迎えていた。
権力欲に狂った悪女の筆頭・紅葉様が、自分の罪(これまでの呪い騒動の数々)が暴かれるのを免れるため、禁忌の術を使って、身重の優しい妃・撫子様と魂を【入れかわり】させてしまったのだ。
現在、撫子様の可憐な肉体の中には、邪悪な紅葉様の魂が入っている。
彼女は帝の子を妊娠していることを盾にして、次期皇后(こうごう:帝の正妻)の座を完全に我が物にしようと企んでいた。
(あんな悪女に、撫子様の体も、生まれてくる赤ちゃんの未来も、この国も渡してたまるもんですか!)
『きゅあ! お姉ちゃん、お鼻の準備はバッチリだにゃ!』
私の懐からひょっこりと顔を出したのは、黄金色の毛並みを持った小さな狐のあやかし・管狐ちゃん。前回の事件で私が助けて以来、私の大切な相棒になってくれている。
「よし、管狐ちゃん、頼んだよ。……おじいちゃんも、力を貸してね」
私が天井を見上げると、いつもは意地悪に笑っている幽霊のおじいちゃんが、珍しく真面目な顔で深く頷き、ふわりと消えた。
清涼殿の大広間では、暁月様が主催する「皇后決定の祝宴」が華やかに開かれていた。
部屋のあちこちには、金銀の細工が施された豪華な燭台(しょくだい:ろうそく立て)が置かれ、夜だというのに昼間のように明るい。
上座(かみざ:最も身分の高い者が座る席)には、いつも通り息を呑むほど美しい、直衣(のうし:貴族の日常着)姿の暁月様が座っている。
その黒曜石のような切れ長の瞳は氷のように冷たいが、私と目が合った一瞬だけ、微かに「信じているぞ」と告げるように細められた。
「お待たせいたしました、暁月様」
しずしずと部屋に入ってきたのは、撫子様の体をした女性——中身は紅葉様だ。
彼女は自分の勝利を確信しているのだろう、勝ち誇ったような、歪んだ笑みを浮かべている。
その体からは、暁月様の言う通り、ドス黒く濁った邪悪な「気」が蛇のように立ち昇っていた。
そして、その少し後ろ。
近衛兵(このえへい:帝を警護するエリート兵士)たちに左右を固められ、罪人として引きずり出されてきたのは、紅葉様の豪華な十二単(じゅうにひとえ:身分の高い女性が着る何枚も重ねた美しい着物)を着た、本物の撫子様だ。
彼女は恐怖と悲しみで今にも倒れそうになりながらも、私を見て微かに唇を動かした。
(小春ちゃん……おねがい……)
魂の声が、私の耳に直接届く。
(大丈夫です、撫子様。今助けます!)
私はお酒を運ぶ給仕(きゅうじ:お世話係)の女官に扮して、二人のすぐ近くへと進み出た。
「さあ、暁月様。早く私を『皇后』に指名するお言葉を。そして、そこの不届きな悪女(中身・撫子様)の首をはねて、後宮の憂いを断ち切ってしまいましょう」
撫子様(中身・紅葉)が、甘ったるい声で暁月様にねだった。
自分の本来の肉体を処刑させ、完全な「入れ替わり」を完成させようというのだ。
どこまでも冷酷な悪女である。
(管狐ちゃん、今だ! 術の触代(よりしろ:呪いの媒介となる道具)はどこ!?)
私は心の中で叫んだ。
二人の魂を入れ替えている「移魂の護符」という二枚の一対(いっつい:セット)のお札を、一瞬の狂いもなく【同時に】破壊しなければ、二人の魂は永遠に戻らなくなってしまう。
『くんくん……あったにゃ! 撫子様の体(中身・紅葉)が持っている、あの金の「扇子」の骨の中に一枚! それから、紅葉様の体(中身・撫子)の髪に刺さっている、あの珊瑚の「簪」の中に、もう一枚隠されているにゃ!』
(扇子と、簪……!)
私はすぐに、暁月様に向かって「右目で一回、左目で二回」瞬きをするという、事前に決めていた秘密の合図を送った。
それを捉えた暁月様は、スッと立ち上がった。
彼には、その扇子と簪から伸びる、ドス黒い呪いの因果の糸がはっきりと「視えて」いた。
「——紅葉。お前を皇后に指名する前に、一つ、確かめたいことがある」
暁月様は、撫子様(中身・紅葉)の目の前まで歩み寄った。
「なんでしょうか、暁月様?」
「お前が持っているその扇子、見事な細工だな。近くで見せてみろ」
「え……? あ、はい。どうぞ……」
皇后の座に目が眩んでいる紅葉様は、疑うこともなく、その金の扇子を暁月様へと差し出した。
暁月様がその扇子を受け取った、まさにその瞬間!
「小春、今だ!!」
暁月様の鋭い叫び声が広間に轟いた。
彼は預かった扇子を左手で握り締めると同時に、右手で腰の黄金の短刀を抜き放ち、猛烈なスピードで末席にいる紅葉様(中身・撫子)の元へと踏み込んだ。
「な、何を……!?」
撫子様(中身・紅葉)が驚愕して顔を引きつらせる。
「——急急如律令! 迷える魂の鎖よ、今こそ断ち切られよ!!」
私も同時に、懐から特製のお札を二枚引き抜き、指先に陰陽師の全霊力を集中させた。
私が放ったお札は、暁月様が手にする金の扇子と、紅葉様(中身・撫子)の髪に刺さる珊瑚の簪へと、弾丸のような速さで飛んでいく。
ガキィィィンッ!!
暁月様の神気(しんき:清らかな霊力)を込めた短刀が、紅葉様の髪から簪を正確に弾き飛ばし、空中で私のお札と激突した。
同時に、暁月様の左手の中にある扇子も、私のお札の炎によって激しく燃え上がった。
『ギャアアアアアアッ!!!』
広間全体に、人間のものとは思えない不気味な悲鳴が響き渡った。
一対の護符が、一瞬の狂いもなく【同時に】破壊されたのだ。
二人の魂を繋ぎ止めていた、黒い呪いの鎖がバラバラに砕け散るのが視えた。
「魂よ、還れーーーっ!!」
私は渾身の力で呪詞(じゅし:呪文のこと)を唱え、床を強く踏みつけた。
パァァァァンッ!!!
目が眩むほどの白い光が、大広間を包み込んだ。
二人の妃の体から、それぞれ「ピンク色の清らかな光」と「ドス黒い濁った光」が飛び出し、空中で激しく交差した。
そして、磁石が引き合うようにして、それぞれの魂が本来の器(肉体)へと猛スピードで吸い込まれていった。
「う、あ、あああああっ……!?」
光が収まったとき、上座にいた撫子様が、自分の大きなお腹を抱えてその場にヘタへたと言い崩れた。
その瞳には、いつものおっとりとした、優しい涙が溢れていた。
「あ……赤ちゃん……私のお腹、私の体……! 戻った……戻ったのね……!」
「撫子……!」
暁月様がすぐに駆け寄り、彼女の肩を優しく抱きとめた。
入れかわり は完全に解け、本物の撫子様が戻ってきたのだ。
一方、末席にいた紅葉様は、自分の美しいはずの白い手を凝視しながら、狂ったように絶叫した。
「嫌ぁぁぁぁぁっ! なんで、なんで私がこの体に戻っているのよ!? 私は皇后になるはずだったのに! あの下賎な下働き(小春)め、よくも私の邪魔を……!!」
紅葉様は般若のような顔で私を睨みつけ、掴みかかろうとした。
しかし、その前に近衛兵たちの鋭い刃が、彼女の首元に突きつけられた。
「そこまでだ、紅葉」
暁月様が、氷よりも冷たい、底知れない怒りを込めた声で言った。
「お前が禁忌の術を使い、撫子の体を乗っ取ろうとした証拠は、今、すべての者の前で明らかになった。……国政を牛耳る大貴族の娘とて、これほどの大罪、もはや言い逃れはできん。紅葉、お前を後宮から永久に追放し、お前の実家の一族もろとも、極刑に処す」
「そんな……嘘よ、私は、私は瑞凰国の皇后になる女よ……! 離しなさい、この不浄の者どもがーーーっ!」
紅葉様は狂ったように叫び、暴れながら、近衛兵たちによって引きずられていった。
後宮を長きにわたって支配し、多くの妃たちを恐怖に陥れてきた希代の悪女が、ついに完全に失脚した瞬間だった。
これにて、華やかな後宮を舞台にした、醜く恐ろしいお妃争いと権力闘争は、完全に幕を閉じたのだった。
一ヶ月後。
騒がしかった事件が嘘のように片付き、後宮には本当の平和が戻っていた。
紅葉様の一派がすべて排除されたことで、後宮を覆っていた陰湿な空気はすっかり消え去り、妃たちはのんびりと刺繍をしたり、お茶を楽しんだりしている。
「……うーん、今日も平和で最高だなぁ!」
私は支給された新しい薄紅色の着物を着て、中庭の縁側に腰掛け、大好きな三色団子を頬張っていた。
私の膝の上では、管狐ちゃんが嬉しそうに丸くなってお昼寝をしている。
呪いを解決した最大の功労者として、私は下働きから正式に『上級特任女官』へと大出世を果たした。
お給料はなんと今までの十倍。
実家の借金もすべて完済し、美味しいご飯も毎日お腹いっぱい食べられる。
完全なる成り上がりである。
「小春。またのんきに団子を食っているのか」
「ぶふぉっ!?」
背後から降ってきたお馴染みの声に、私は危うく団子を喉に詰まらせそうになった。
振り返ると、そこにはいつもの高貴な紺青色の直衣を纏った、息を呑むほど美しい暁月様が立っていた。
ただし、今日の彼の表情には、かつての「冷徹皇帝」と言われた冷たさは一切なく、どこか優しく、穏やかな光が宿っている。
「あ、暁月様! もう、驚かせないでくださいってば!」
私が口の周りにお粉をつけたまま抗議すると、暁月様はフッと楽しそうに笑い、私の隣に自然な動作で腰掛けた。
帝が下級(今は上級だけど)女官の隣に並んで座るなんて、本来ならあり得ないことだ。
相変わらず、とんでもない身分差だけれど……今の私は、そんな形式なんてどうでもよくなるくらい、彼の存在を近くに感じていた。
「撫子から伝言だ。お腹の子供もすこぶる順調で、生まれてくる我が子の最初の名前(幼名)を、ぜひ小春に考えてほしい、とな」
「ええっ!? 私がですか!? そんな、滅相もないです!」
「良いではないか。お前はこの国と、我が子の命の恩人なのだからな」
暁月様はそう言うと、不意に私の手をそっと握りしめた。
彼の大きくて温かい手のひらの感触に、私の心臓が「ドクン!」と大きく跳ね上がる。
「暁月……様?」
「小春。後宮の呪いはすべて片付いた。……だが、お前の『特任女官』としての任期は、一生終わらせないからな」
「ええっ!? ひ、酷いです! 私は借金も返したし、これからはのんびりぐうたら過ごそうと思ってたのに!」
私が本気で抗議すると、暁月様は私の顔をじっと見つめ、いたずらっぽく、そして最高に甘い微笑みを浮かべた。
「断る。お前がいない後宮など、退屈でつまらん。……それに、私はもう、お前のいない生活など考えられんのだ」
「~~~っ!?」
その真っ直ぐすぎる言葉に、私の顔は一瞬で茹でダコのように真っ赤になった。
いけない、これは完全なる「色恋沙汰」だ。
絶対に関わりたくないと思っていたのに、この不器用で、誰よりも優しい皇帝陛下に、私は完全に心を奪われてしまっていた。
『ひっひっひ! ごちそうさまだねぇ、小春!』
天井から幽霊のおじいちゃんが冷やかしてくる。
『きゅあ! お姉ちゃん、お顔が真っ赤だにゃ!』
膝の上の管狐ちゃんまで一緒になってはしゃぎ始めた。
「もうっ! みんなして揶揄わないでください!」
私は真っ赤な顔を隠すように、暁月様の手をぎゅっと握り返した。
平穏無事な生活からは程遠くなってしまったけれど……大好きなあやかしたちと、そして誰よりも大切なこの人と一緒に、一歩ずつ未来へ歩んでいくこの「お仕事」が、私は今、たまらなく愛おしかった。
華やかな後宮に渦巻く陰謀を、特技を活かして解決した没落陰陽師の娘。
彼女の、危険で、優しくて、ちょっぴり甘い宮廷ミステリーは、ここに堂々の大団円を迎えたのだった。




