冥府魔導駅 第4話【顔のない車掌】
霧は、いつも突然現れる。
討伐依頼の帰り道。夜明け前には宿でエールを飲んでいるはずだった。
だが気付けば、街道は白く濁った霧に飲み込まれ、足元には古びた木のホームが続いている。
冷たい風が首筋を撫でた。ポケットの中に、重い違和感がある。
手を入れると、買った覚えのない漆黒の切符が、ねっとりと指に張り付いた。
「霧の駅に迷い込んだ者は、生きて帰っても何かを置いてくる」
酒場の作り話を思い出した時、遠くで腹の底を揺らすような重い汽笛が鳴った。
『──特急《深淵号》まもなく到着いたします』
頭蓋骨の内側に直接響く、無機質な声。男とも女ともつかない。
黒鋼の魔導機関車が、霧を切り裂いて滑り込んでくる。青白い窓。音もなく開く扉。
振り返ると、そこにあるはずの街道は完全な闇に沈んでいた。退路はない。
主人公は吸い寄せられるように、暗い車内へと足を踏み入れた。
* * *
車内は、異様なほど静かだった。
十数人の乗客は皆、死人のように俯いて微動だにしない。
「ガタン」という車輪の音はない。
代わりに、巨大な獣が呼吸するような「シュー……シュー……」という不気味な律動だけが、一定の間隔で響いている。
ふと、窓際で腕を組んでいた男が目に入った。
歴戦の傭兵だろう。
顔には古い刀傷が走り、身にまとった革鎧は血と泥に塗れている。
膝の上には使い込まれた黒い大剣。
だが、どんな修羅場もくぐり抜けてきたであろうその屈強な戦士の顔には、死を悟ったような深い諦念が刻まれていた。
『──車掌が巡回いたします。切符をご用意ください』
その瞬間、乗客全員が、何かに怯えるように一斉に顔を伏せた。
理由が分からず立ち尽くす主人公に、傭兵が低い、ひどく掠れた声で呟いた。
「……顔を上げるなよ、若いの」
「え?」
傭兵は顎で、前方から近づいてくる足音を示す。
コツ……コツ……。一定の、機械的な歩み。
「見れば、連れて行かれる。……俺の前の相棒みたいにな」
傭兵の言葉には、抗えない運命を受け入れた者特有の、静かな絶望があった。
足音が近づく。
黒い制服。白い手袋。銀の懐中時計。
すべてが鮮明に見えるのに、首から上だけが「霧」だった。
そこには顔がない。ただ濃密な霧が、人の頭の形を保って渦巻いている。
カチン。カチン。
無音の中で、切符に穴を開ける乾いた音だけが響く。
やがて、車掌が主人公の前で立ち止まった。
白い手袋が差し出される。
声はない。
だが『切符を』という意志だけが脳内にねじ込まれる。
震える手で黒い切符を渡す。
カチン。
その時、帽子の奥の霧が、ぬらりと揺れた。まるで、こちらを覗き込もうとするように。
「目を閉じろ!!」
傭兵の鋭い怒声。
反射的に目を強くつぶった瞬間。
すぐ耳元で、ひんやりとした湿った吐息が吹きかかった。
……やがて、足音は遠ざかっていった。
* * *
恐る恐る目を開ける。
車掌の姿はない。
だが、隣の席を見て、主人公は息を呑んだ。
さっきまで傭兵が座っていた場所には、主を失った黒い大剣だけが残されていた。
歴戦の男は、音もなく消え去っていた。
誰一人、顔を上げる者はいない。
誰も、悲鳴すら上げない。
『──終点、冥府魔導駅』
扉が開く。主人公は転がるようにホームへと飛び降りた。
背後で汽笛が鳴る。
走り去ろうとする機関車の最後尾、車掌室の小窓を振り返る。
そこに、新しい車掌が立っていた。
黒い制服、白い手袋。
そして、霧だったはずの顔に、ゆっくりと輪郭が浮かび上がる。
消えた傭兵だった。
彼は感情の一切を消し去った無表情のまま、小さく制帽を持ち上げた。
黒鋼の機関車は、そのまま闇の奥へと溶けていく。
* * *
気がつくと、夜明けの街道に倒れていた。
冷や汗で服が張り付いている。夢、だったのか。
安堵の息を吐き、立ち上がろうとした時。
カチャリ。
ポケットから、銀色の懐中時計が滑り落ちた。
蓋が開く。針は動いていない。
代わりに内蓋には、血のように赤い小さな文字が刻まれていた。
『次回巡回当番』
その下には――俺の名前が、静かに刻まれていた。




