竜語学者
万年雪に閉ざされた霊峰ガルドン。
雲海よりなお高くそびえるその頂には、神代より生き続ける一柱の古竜が眠っている――そう、人々は語り継いできた。
麓の村では、その名を口にする者は少ない。
古竜は災厄の象徴だった。
ひとたび咆哮すれば雪崩が起こり、翼を広げれば吹雪が生まれる。
誰も近づこうとはしなかった。
ただ一人の少年を除いて。
少年は季節ごとに実る果実を小さな籠へ詰め、名もない野花を摘み、険しい山道を登った。
古竜は決して果実を食べる姿を見せなかった。
それでも翌日には籠だけが空になっていた。
少年は、それだけで嬉しかった。
友達だから。
理由は、それだけだった。
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その日、山は静かだった。
嫌なほど静かだった。
吹雪は止み、空は青く澄み渡り、雪さえ音を失っていた。
山頂の巨大な巣。
そこには、小山ほどもある蒼銀の古竜が横たわっていた。
幾千年もの歳月を物語る鱗は白くひび割れ、胸の上下もかすかだった。
「……来たよ。」
少年は震える声で笑おうとした。
「今日はね、赤い木の実なんだ。甘いやつ。」
返事はない。
それでも少年は籠を鼻先へ置いた。
大きな鼻先へ、そっと額を預ける。
「起きてよ。」
返事はない。
「今日は一緒に食べようよ。」
返事はない。
少年の瞳に涙が浮かび始めた、その時だった。
「グルルルルルルルル……オオオオオオオオオオオッ!!」
天地を揺るがす咆哮が霊峰へ響いた。
空気が震え、雪煙が舞い上がる。
雷鳴より恐ろしく。
嵐より激しく。
麓の村ならば誰もが家へ逃げ込むほどの咆哮だった。
「やめて……!」
少年は耳を塞いだ。
「そんなに苦しいの……?」
また咆哮が響く。
少年には、それが絶望の悲鳴にしか聞こえなかった。
「お願いだから、苦しまないで……!」
涙が雪へ落ちる。
その時。
「怖がることはない。」
穏やかな青年の声が風に溶けた。
少年が振り返る。
分厚い毛皮をまとった青年が、雪を踏みしめながら歩いてきた。
背中には古びた鞄。
その中には年代物の魔導書と、数え切れない記録結晶。
青年は古竜を見上げ、静かに一礼した。
「間に合った。」
「……誰?」
青年は微笑む。
「僕は竜語学者。」
その一言だけで十分だった。
彼は鞄から一冊の魔導書を取り出し、雪空へ放る。
本は独りでに開き、金色の光を放つ。
青年が指先で術式を描く。
古竜の咆哮が光へ触れた。
すると轟音は無数の黄金のルーンへ姿を変え、冬空いっぱいへ舞い上がる。
まるで星座だった。
やがて文字はゆっくり並び替わり、人の言葉になっていく。
少年は息を呑んだ。
「竜語は、人の言葉ではない。」
学者は空を見つめたまま語る。
「音の高さ、響き、息遣い、心、そのすべてで意味を成す言葉だ。だから人には恐ろしく聞こえてしまう。」
青年は微笑み、金色の文字を読んだ。
『――愛しき、小さき子よ。』
少年の肩が震えた。
『我が命は、まもなく大地へ還る。』
『だが嘆くことはない。』
『お前が運んできた果実は、どれも甘かった。』
『小さな手で撫でてくれた鱗は、春の陽だまりより温かかった。』
『そのすべてを、我は忘れぬ。』
少年は声も出せなかった。
古竜は、苦しんでいたのではない。
別れを告げていたのだ。
友へ。
たった一人の友へ。
再び咆哮が山を揺らす。
今度は恐ろしく聞こえなかった。
巨大な身体では抱きしめることもできない。
不器用な古竜が、精いっぱい歌う祝福の歌。
それは世界で一番大きな子守唄だった。
『強き風が吹く日には、我がお前の盾となろう。』
『冷たい雨の夜には、星となって道を照らそう。』
『笑う日には共に笑い。』
『泣く日には、お前の涙を空から見守ろう。』
『だから顔を上げよ。』
『誇り高く生きよ。』
『我が、ただ一人の友よ。』
静寂が訪れる。
古竜はゆっくりと瞼を開いた。
濁っていた黄金の瞳は、不思議なほど穏やかだった。
そこには王者の威厳も、神獣の恐ろしさもない。
ただ。
子を見守る親のような。
友を慈しむ者だけが持つ優しさがあった。
少年は駆け寄る。
冷え始めた鼻先へ両手を添えた。
「ありがとう……。」
涙は止まらない。
「僕、強く生きる。」
「ずっと忘れない。」
「約束する。」
古竜はかすかに喉を鳴らした。
魔導書の最後の頁へ、一行だけ黄金の文字が浮かぶ。
『――よき、旅を。』
その言葉を最後に。
古竜の身体は光へ変わり始めた。
無数の光の粒が蒼穹へ昇る。
それは雪ではなく。
星だった。
祝福だった。
光は少年の頭を優しく撫で、空へ還っていく。
やがて霊峰には風だけが残った。
少年はもう泣いていなかった。
小さな背中は、山へ登ってきた時より少しだけ大きく見えた。
少し離れた岩陰で、竜語学者は静かに羽根ペンを走らせる。
彼が記すのは、竜の最期ではない。
一人の少年と、一柱の古竜が交わした、小さな友情の記録。
それこそが、星の歴史に刻まれるべき奇跡だからだ。
学者は手記の最後へ静かに題名を書いた。
『友へ贈る祝福の歌』
そして本を閉じる。
澄み切った空を、一陣の風が渡っていく。
まるで遠い空のどこかで、一頭の竜が微笑んだように。




