↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
68/111

竜語学者

万年雪に閉ざされた霊峰ガルドン。




雲海よりなお高くそびえるその頂には、神代より生き続ける一柱の古竜が眠っている――そう、人々は語り継いできた。




麓の村では、その名を口にする者は少ない。



古竜は災厄の象徴だった。



ひとたび咆哮すれば雪崩が起こり、翼を広げれば吹雪が生まれる。




誰も近づこうとはしなかった。



ただ一人の少年を除いて。



少年は季節ごとに実る果実を小さな籠へ詰め、名もない野花を摘み、険しい山道を登った。



古竜は決して果実を食べる姿を見せなかった。



それでも翌日には籠だけが空になっていた。



少年は、それだけで嬉しかった。



友達だから。



理由は、それだけだった。


---


その日、山は静かだった。


嫌なほど静かだった。


吹雪は止み、空は青く澄み渡り、雪さえ音を失っていた。


山頂の巨大な巣。



そこには、小山ほどもある蒼銀の古竜が横たわっていた。


幾千年もの歳月を物語る鱗は白くひび割れ、胸の上下もかすかだった。


「……来たよ。」


少年は震える声で笑おうとした。


「今日はね、赤い木の実なんだ。甘いやつ。」


返事はない。


それでも少年は籠を鼻先へ置いた。


大きな鼻先へ、そっと額を預ける。


「起きてよ。」


返事はない。


「今日は一緒に食べようよ。」


返事はない。


少年の瞳に涙が浮かび始めた、その時だった。


「グルルルルルルルル……オオオオオオオオオオオッ!!」


天地を揺るがす咆哮が霊峰へ響いた。


空気が震え、雪煙が舞い上がる。


雷鳴より恐ろしく。


嵐より激しく。


麓の村ならば誰もが家へ逃げ込むほどの咆哮だった。




「やめて……!」


少年は耳を塞いだ。


「そんなに苦しいの……?」


また咆哮が響く。


少年には、それが絶望の悲鳴にしか聞こえなかった。



「お願いだから、苦しまないで……!」


涙が雪へ落ちる。


その時。



「怖がることはない。」


穏やかな青年の声が風に溶けた。


少年が振り返る。


分厚い毛皮をまとった青年が、雪を踏みしめながら歩いてきた。


背中には古びた鞄。


その中には年代物の魔導書と、数え切れない記録結晶。




青年は古竜を見上げ、静かに一礼した。


「間に合った。」


「……誰?」


青年は微笑む。


「僕は竜語学者。」



その一言だけで十分だった。


彼は鞄から一冊の魔導書を取り出し、雪空へ放る。



本は独りでに開き、金色の光を放つ。


青年が指先で術式を描く。



古竜の咆哮が光へ触れた。


すると轟音は無数の黄金のルーンへ姿を変え、冬空いっぱいへ舞い上がる。



まるで星座だった。



やがて文字はゆっくり並び替わり、人の言葉になっていく。



少年は息を呑んだ。


「竜語は、人の言葉ではない。」



学者は空を見つめたまま語る。


「音の高さ、響き、息遣い、心、そのすべてで意味を成す言葉だ。だから人には恐ろしく聞こえてしまう。」



青年は微笑み、金色の文字を読んだ。



『――愛しき、小さき子よ。』


少年の肩が震えた。


『我が命は、まもなく大地へ還る。』



『だが嘆くことはない。』



『お前が運んできた果実は、どれも甘かった。』



『小さな手で撫でてくれた鱗は、春の陽だまりより温かかった。』



『そのすべてを、我は忘れぬ。』


少年は声も出せなかった。



古竜は、苦しんでいたのではない。


別れを告げていたのだ。



友へ。


たった一人の友へ。


再び咆哮が山を揺らす。


今度は恐ろしく聞こえなかった。



巨大な身体では抱きしめることもできない。



不器用な古竜が、精いっぱい歌う祝福の歌。



それは世界で一番大きな子守唄だった。



『強き風が吹く日には、我がお前の盾となろう。』


『冷たい雨の夜には、星となって道を照らそう。』


『笑う日には共に笑い。』


『泣く日には、お前の涙を空から見守ろう。』


『だから顔を上げよ。』


『誇り高く生きよ。』


『我が、ただ一人の友よ。』



静寂が訪れる。


古竜はゆっくりと瞼を開いた。



濁っていた黄金の瞳は、不思議なほど穏やかだった。


そこには王者の威厳も、神獣の恐ろしさもない。


ただ。



子を見守る親のような。


友を慈しむ者だけが持つ優しさがあった。


少年は駆け寄る。


冷え始めた鼻先へ両手を添えた。


「ありがとう……。」


涙は止まらない。



「僕、強く生きる。」


「ずっと忘れない。」


「約束する。」


古竜はかすかに喉を鳴らした。



魔導書の最後の頁へ、一行だけ黄金の文字が浮かぶ。


『――よき、旅を。』



その言葉を最後に。


古竜の身体は光へ変わり始めた。


無数の光の粒が蒼穹へ昇る。


それは雪ではなく。


星だった。


祝福だった。


光は少年の頭を優しく撫で、空へ還っていく。


やがて霊峰には風だけが残った。



少年はもう泣いていなかった。


小さな背中は、山へ登ってきた時より少しだけ大きく見えた。



少し離れた岩陰で、竜語学者は静かに羽根ペンを走らせる。



彼が記すのは、竜の最期ではない。


一人の少年と、一柱の古竜が交わした、小さな友情の記録。


それこそが、星の歴史に刻まれるべき奇跡だからだ。



学者は手記の最後へ静かに題名を書いた。


『友へ贈る祝福の歌』


そして本を閉じる。


澄み切った空を、一陣の風が渡っていく。


まるで遠い空のどこかで、一頭の竜が微笑んだように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。