悪夢収集家 第2話【眠れない子守唄】
その夜、古びた扉のベルを鳴らして店を訪れたのは、幼い娘を連れた母親だった。
「娘が、毎晩泣きながら目を覚ますんです」
母親の声はひどく疲れ切っていた。何日もまともに眠れていないのだろう。
主人はカウンターから静かに歩み寄り、冷たい石の床に片膝をついて少女と目を合わせた。
「怖い夢を見るのかい」
少女はこくりとうなずいた。小さな手が、母親の服の裾をぎゅっと握りしめている。
「どんな夢か、教えてくれるかな」
少女はしばらく黙っていたが、やがて怯えたように震える声で口を開いた。
「あなたが……泣いてるの」
主人の手が、一瞬止まる。
「私が?」
少女は小さな声で続けた。
「暗くて、知らない部屋で。きらきらした瓶をたくさん抱えて、泣いてるの」
「ごめんなさいって、何回も、何回も言ってるの」
店の中が、しんと静まりかえる。
母親は不安げに主人を見つめた。
「あの……大丈夫でしょうか。変な夢で」
主人はゆっくりと立ち上がり、硬質な笑みを浮かべた。心の奥底の動揺を微塵も悟らせない、完璧に計算された仮面だった。
「子供の夢は、時として大人の理解を超えた幻影を映すものです。気になさることはありません」
そう言って、彼は黒い革手袋に包まれた手を少女の額へそっと添えた。
指先から、黒い霧が糸のように細く立ちのぼる。
それは主人が懐から取り出した硝子の小瓶の中へ吸い込まれ、ひどく小さな渦になった。渦は瓶の中でゆっくりと形を変え、まるで何かを探すように蠢き続けている。
「これは……」
主人はしばらく瓶を見つめ、静かに息を吐いた。
「今までで一番、小さな悪夢です」
主人の言葉に、母親は心底ほっとした顔で微笑んだ。
「安心しました。本当にありがとうございます」
代金を受け取り、親子は手をつないで帰っていく。
だが、扉が閉まる直前。少女は振り返り、まっすぐに主
人を見た。
その深く淀みのない瞳は、彼がひた隠しにする『本性』のすべてを見透かしているかのようだった。
店に一人残った主人は、奥の書架に隠された仕掛けを動かした。
重い音を立てて本棚がスライドし、地下へと続く隠し階段が現れる。
そこは、微かに腐敗臭が漂う冷たい石室だった。
床一面には禍々しい幾何学模様の巨大な魔法陣が描かれ、中央の不気味な祭壇を取り囲むように、数え切れないほどの「悪夢の瓶」が並べられている。
主人は、少女から抜き取ったばかりの小さな瓶を、祭壇の隙間にそっと置いた。
「見られていたな……」
誰にともなくつぶやいた声は、ひどく掠れていた。
少女が見た夢。それは恐らく、すべての計画が完了した後――自らの行いによってすべてを失い、深い絶望と後悔の中で破滅していく自分の未来の姿なのだろう。
だが、主人の眼差しに迷いはなかった。
たとえその果てに、無様な孤独と悲惨な末路が待っていようとも構わない。
このくだらない世界を一度完全に壊し、自らの手で支配し直す。その宿願のためならば、喜んでこの身を捧げよう。
主人は漆黒の闇に沈む魔法陣を見下ろし、口角を歪めて嗤った。
「――世界を支配する伝説の悪魔の復活まで、もう少しだ」
祭壇の片隅で、日付も名前もない少女の瓶がひとつ、まるで来るべき悲劇を予言するように、鈍い光を放っていた。




