魔道具鑑定士 第2話【泣く人形】
鐘が鳴った。
扉が開く音より先に、その音が店に響く。真鍮の鈴を糸で吊るしただけの、ただの合図だ。魔法など一切かかっていない。
皮肉なことに、魔道具鑑定士の店の入口に、魔法のかかっていない道具しかないというのは、よくある話だった。
「この人形を、処分してください」
入ってきたのは三十代ほどの女性だった。両腕に、小さな布人形を抱いている。
栗色の髪に、ボタンで作られた青い瞳。どこにでもありそうな、量産品の人形だった。
ただ一つ、女性の腕の中での抱き方だけが、普通ではなかった。まるで、壊れ物というより、熱を持った何かを持て余しているような抱き方だった。
「夜になると、この子が泣くんです」
私は椅子を勧め、対面に座った。名をヴェイン。この店の三代目で、看板に書いてある通りの、ただの鑑定士だ。
「最初は気のせいだと思いました」
女性はカップに口をつけないまま続けた。
「でも毎晩なんです。誰もいない部屋から、小さな泣き声が聞こえて……布団を剥いでも、この子しかいなくて」
「拝見します」
差し出された人形を受け取り、机の上へそっと座らせる。指先を額に添え、魔力を流した。
こういう瞬間、私はいつも少しだけ息を止める癖がある。師匠に「お前は鑑定のたびに祈っているように見える」と言われたことがあった。
否定はしなかった。ものに宿った魔力を読むという行為は、その物に刻まれた誰かの想いを覗き見ることでもある。覗く以上、こちらにも礼儀がいる、と私は思っている。
淡い青の光が人形を包んだ。
しばらくして、文字が浮かぶ。
『見守り人形』
効果の欄には、こうあった。
『持ち主が涙を我慢するとき、その涙を代わりに流す』
「呪われているわけでは、ありません」
私が言うと、女性は虚を突かれたような顔をした。
「でも、泣くんですよ。誰もいない部屋で」
「あなたが、泣かなかった分だけです」
女性の表情が固まった。図星を突かれた人間の顔だった。私はその顔を、これまで何百回と見てきた。
「……最近、泣きましたか」
沈黙が答えだった。長い沈黙だ。
「半年前です」
ようやく、女性が口を開いた。
「父が、倒れて。三日で逝きました」
私は何も言わず、続きを待った。急かさないことも、この仕事の一部だ。
「葬儀の日、雨だったんです」
女性はカップを両手で包むように持った。
「弟が式の途中で泣き崩れて、進行が止まって。母は放心していて、何も決められなくて。だから私が、喪主の代わりに前へ出て、弔問客に頭を下げ続けました」
言葉を切り、彼女は小さく笑った。自分を笑うような笑い方だった。
「棺に土をかける段になって、私の番が来たとき、スコップを持ったまま、しばらく動けなかったんです。動いたら、崩れる気がして」
「崩れなかったんですね」
「崩れませんでした。土をかけて、頭を下げて、次の人に譲りました。よくやったわね、って親戚に言われました」
彼女は俯いた。
「その言葉が、一番きつかったんです」
私は人形に目を落とした。ボタンの瞳が、机の明かりを受けて小さく光っている。
「父は、私が昔、泣き虫だったのを知っていました」
女性の声が、少しだけ震えを帯びた。
「小さい頃、転んで泣くたびに、父はいつも同じことを言ったんです。『泣いていいから、ちゃんと立て』って。順番はどっちでもいいのに、必ずその順番で言うんです。子供心に、変な人だなって思ってました」
「今は?」
「今は、意味がわかります。立つ前に、ちゃんと泣いておけって、そういう意味だったんじゃないかって」
彼女は人形を見つめた。
「でも私、立つことしかできませんでした。泣く方を、忘れてしまったみたいに」
私はもう一度、人形へ魔力を流した。今度はゆっくりと、時間をかけて。読み取れるものがまだ残っている気がした。
果たして、鑑定結果の下に、もう一行だけ、薄い文字が浮かんだ。今にも消え入りそうな、小さな文字だった。
私はそれを、声には出さなかった。彼女に読ませる言葉ではなく、彼女自身に見つけてもらう言葉だと思ったからだ。
代わりに、私は言った。
「この人形は、あなたを怖がらせるために泣いていたのではないと思います」
「……」
「あなたの代わりに、泣いていたんです。誰も見ていない場所で、こっそりと」
女性の肩が、小さく揺れた。
「半年間、ずっとですか」
「毎晩」
「私が、我慢するたびに」
「ええ」
彼女は人形を抱き上げ、その顔を自分の顔に近づけた。ボタンの瞳と、彼女の瞳が向き合う。
「ごめんね」
最初の一言は、それだった。
「ずっと、あなたに押し付けてた」
声が湿り始める。
「お父さん」
次に出たのは、その一言だった。振り絞るような、小さな声だった。
「お父さん、ごめんね」
一粒、涙が落ちた。人形の手の甲に。
それが最初の一滴だった。
二滴目までは、少し時間があった。彼女はまだ、自分の中の何かと戦っているようだった。喉が鳴り、肩が強張り、それでも涙は止まらずに二粒目、三粒目とこぼれていく。
「もっと、泣きたかった」
言葉が、切れ切れに漏れる。
「みんなの前で、みっともなく」
「立たなくていいから、って、誰かに言ってほしかった」
嗚咽が、言葉の形を崩し始めた。もう文章にならない。ただ、震える呼吸と、途切れる声だけが店の中に響いた。
私は何も言わず、席を立たなかった。何かを言うことより、ただそこにいることの方が、今は意味があると思った。窓の外で、風が看板を揺らす音がした。
それ以外は、彼女の泣き声だけが店を満たしていた。
長い時間だった。実際には、それほど長くはなかったのかもしれない。それでも、私にはとても長く感じられた。
やがて、嗚咽が少しずつ収まっていく。彼女は人形を胸に抱いたまま、何度も洟をすすった。
「すみません、こんな……」
「謝る必要はありません」
私は静かに言った。
「あなたは今、半年分、遅れて泣いているだけです」
彼女は目元を拭い、人形をもう一度見つめた。その表情は、来店したときとはまるで違っていた。
疲れ切った顔ではなく、何かをようやく下ろせた人間の顔だった。
「今夜は」
彼女がぽつりと言う。
「この子、泣かないでしょうか」
「たぶん」
私は微笑んだ。
「今夜は、あなたが泣いた分だけ、この子は休めると思いますよ」
女性は人形を大切そうに抱え直し、もう「処分してください」とは言わなかった。深く頭を下げ、静かに店を出ていった。
鈴が、また鳴った。
私は鑑定書を開き、依頼内容の欄にペンを走らせた。
『呪われた人形にあらず。持ち主が涙を流せる日まで、代わりに泣き続けた見守り人形なり』
書き終えて、ふと思い出す。二度目の鑑定で浮かんだ、あの小さな一文を
『よく、頑張ったね』
誰が誰に向けた言葉なのか、私にはわからない。父から娘へか、人形から持ち主へか、あるいはこの魔道具を作った、名も知らぬ職人からの言葉なのか。
それを彼女に見せなかったことを、後悔はしていない
あの言葉は、魔道具から与えられるものではなく、彼女自身が、いつかまた自分にかけてやるべき言葉だと思ったからだ
私はペンを置き、窓の外を見た
夕暮れの光が、机の上をゆっくりと橙色に染めていく
次の依頼人が来るまで、まだ少し時間がありそうだった




