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琥珀の砂時計宿 第2話【小さな火】


街道沿いに建つ「琥珀の砂時計宿」には、不思議な噂があった。



一晩泊まるだけで、昨日まで見えていなかったものが見えるようになる。



理由を知る者はいない。



宿の玄関では、今日も琥珀色の砂が、静かに時を刻んでいた。



夕暮れ、一人の大魔法使いが宿を訪れた。


銀色の長い髪。 深い青の法衣。 胸には王宮魔導士だった証の金色の紋章。



「部屋を一つ」

宿の主人は深く頭を下げた。



食堂では旅人たちが夕食を囲んでいた。



その片隅には、くたびれた外套を羽織った白髪の老人がいる。


杖を壁に立てかけ、冷めかけたスープを静かにすすっていた。


大魔法使いは周囲を見回し、鼻を鳴らした。


「この宿には、ずいぶんと未熟な魔法使いが多いようだ」



庭では十歳ほどの少女が火の魔法を練習している。

「火よ」

ぽっ。

小さな火花が生まれ、すぐに消えた。



少女は唇を噛む。

「そんな程度では、一生一人前にはなれん」

少女は何も言わず、もう一度杖を握り直した。

老人は顔を上げなかった。


その夜。

突然、暖炉の火が消えた。


冷たい風が食堂へ吹き込み、旅人たちがざわめく。


「任せろ」

大魔法使いは杖を掲げる。


「獄炎よ、燃え上がれ!」



轟音とともに業火が暖炉へ飛び込んだ。


部屋は真昼のように明るくなる。

しかし炎は激しすぎた。



火の粉が舞い、天井の梁を焦がし始める。


「水を!」

主人と旅人たちが駆け回り、ようやく火は収まった。



暖炉には、黒く焦げた薪だけが残る。

静まり返る食堂。


大魔法使いは立ち尽くしていた。 


その時だった。

老人が静かに立ち上がる。



焦げた薪を少しだけ組み替え、

懐から火打ち石を取り出した。


カチン。

小さな火が生まれる。



少女には、老人が火打ち石で火を起こしたようにしか見えなかった。


宿の主人も、旅人たちも同じだった。

――ただ一人を除いて。


大魔法使いは息を呑む。


火打ち石は、ただの目くらましだった。

石を打つ、その一瞬。



老人は詠唱もなく、魔力の揺らぎすら見せず、薪の芯へ極小の発火魔法を送り込んでいた。



魔法だと誰にも悟られないためだけに。

その精密さは、誇示する魔法ではない。


積み重ねた歳月だけが辿り着ける、静かな境地だった。

老人は薪の向きをほんの少し整える。



小さな火は、音もなく暖炉へ広がった。


老人は何も言わず、自分の席へ戻る。


冷めたスープを最後まで飲み干した。



翌朝。

宿の前で少女が杖を構えていた。

「火よ」



昨夜より少しだけ大きな火が灯る。

その火で主人が湯を沸かす。


旅人たちが笑いながら湯気の立つ茶を手にした。


離れた場所から、大魔法使いはその光景を見つめていた。



昨夜、自分が放った炎。

老人が灯した小さな火。

そして少女の火。



三つの火は、どれも同じ火だった。

けれど、人を暖めたのは最後の二つだった。


しばらく黙ったあと、大魔法使いは少女の前へ歩み寄る。

法衣の中から、一冊の古びた魔法書を取り出した。

「……昔、私が使っていた本だ」


少女が目を輝かせる。

「基礎しか書いておらん」

少しだけ笑う。


「だが、基礎ほど大切なものはない」

少女は何度も頭を下げた。



宿を出ようとして、大魔法使いはふと食堂を振り返る。

「あの老人は?」

主人は玄関の砂時計を裏返した。


「夜明け前に、ふらりと旅立たれました」

「そうか」


大魔法使いは、それ以上何も聞かなかった。

朝日に照らされた宿は、昨日と何ひとつ変わらない。



それでも、昨日まで見えていなかったものが、今は確かに見えていた。

玄関では、琥珀色の砂だけが、変わらぬ速さで静かに流れ続けていた

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