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冥府魔導駅 第3話【追われた男】


逃げるように飛び乗った自律駆動のゴーレム馬車は、不意に大きく揺れ、何もない霧の中で静かに止まった。




息が上がっている。心臓が痛いほど脈打っている。それなのに、どれだけ息を吸っても、胸の奥に空気が満ちていく感覚がしなかった。



「近道、完了。次ノ便ニ、オ乗リ継ギヲ」

泥でできた御者はそれだけ告げると、乾いた音を立てて崩れ落ちた。



青白い霧だけが残る。道も、空も、地平もない。足元には、湿った木の板がどこまでも続いていた。



駅だ。そう思った。だが駅名も、駅舎も、線路さえ見当たらない。



背後を振り返る。追っ手の足音は、もう聞こえない。あれほど執拗に迫っていた気配が、綺麗に消えている。安堵よりも先に、奇妙な違和感が胸をよぎった。逃げ切れるはずのない距離だったのに。





どれほど立っていただろう。霧の奥で、小さな灯が揺れた。古びた魔石ランタンを提げた老駅員が、こちらへ歩いてくる。右半分だけが老人だった。左半分は霧へ溶け込み、輪郭さえ曖昧で、人ではなく景色の一部のように見えた。





「特急《深淵号》を、お待ちで」

肺を通していないような、乾いた声だった。




「違います。追われていて……道に迷って……切符もありません」

老駅員は何も答えず、革張りの分厚い台帳を開いた。

「お名前を」

私が名乗ると、骨ばった指がゆっくりと頁をなぞる。



やがて、その指が止まった。沈黙。ランタンだけが、小さく、じじ……と鳴っている。



「追っ手は……もう、追いつかれては、いませんか」

駅員がそう尋ねた。妙な聞き方だと思った。追いつかれていない、と答えようとして、言葉に詰まった。最後に見た光景を思い出そうとする。



刃が届く距離。振り上げられた腕。そこから先の記憶が、霧のようにおぼろげだった。



その時だった。霧の向こうから、低い汽笛が響く。胸の奥まで震わせる、重い音。続いて、耳ではなく頭の内側へ直接流れ込んでくる声。


『──次は、カレン様』

一拍。

『──次は、トーマ様』

思わず息を止めた。二人とも去年、疫病で亡くなった隣人だった。棺に花を手向けたのは、俺だ。



「あの声は……」

顔を上げる。駅員は、いつの間にか真正面に立っていた。透けていた左半分は消えていた。いや。左右があまりにも整いすぎている。人形のような顔。硝子細工のような瞳。一度も、まばたきをしない。



駅員は台帳を静かに閉じた。

「あなたのお名前は──まだ、こちらにはございません」


安堵しかけた、その一瞬。駅員は付け加えるように、静かに続けた。



「ただ、追いつかれた方のお名前は、たいてい……逃げている途中の頁に、記されるのです」


その言葉の意味を考えるより早く。霧が裂けた。轟音。青白い閃光。巨大な黒鋼の魔導機関車が、霧を引き裂きながら目の前を通過していく。




窓という窓に、人影が並んでいた。いや。人ではない。青白い炎の中で燃え続ける、無数の顔。泣いている者。笑っている者。何かを叫び続ける者。すべてが俺だけを見ていた。




その中に。カレンがいた。トーマもいた。二人とも穏やかな笑顔で、小さく手を振っている。



そして、その隣の窓に。


背中を向けたまま、何かに追われるように必死に走り続けている影があった。振り返らない。誰かの背格好に、見覚えがある気がした。



機関車は汽笛を残し、霧の彼方へ消えた。灯も。駅員も。駅そのものも。まるで最初から存在しなかったかのように、静寂だけが残る。



     * * *



朝だった。霧は跡形もなく晴れていた。そこには駅も、線路も、ホームもない。風が枯れ草を揺らすだけの荒野。


夢だった。そう思った。走って、走って、逃げ切って、朝を迎えられた。それだけのことだと。



だが足元に、一枚の黒い切符が落ちていた。震える指で拾い上げる。羊皮紙には、俺の名前が記されている。乗車日付の欄だけが空白だった。



安堵しかけた、その時。


背後で、砂利を踏む足音がした。ゆっくりと、確実に近づいてくる、あの足音。


振り返る勇気はなかった。何も書かれていないはずの欄へ、赤黒い文字がゆっくりと滲み始める。まるで見えない誰かが、万年筆を走らせているように。


俺は息を止めた。最後の一文字が書き終えられる。


日付は…今日だった

足音が、すぐ後ろで止まった

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