天空農家【魔王の願い】
伝説の賢者と魔王の伝説の戦いから、三年が過ぎた
世界には平和が戻った。
だが、天空島アルカディアの畑からは、命が消えていた。
エルは今日も鍬を振るった。
ザクリ。
乾いた土が、白い粉になって崩れ落ちる。
雨は降る。
水もやる。
それでも麦は芽を出す前に黒ずみ、芋は土の中で腐った。
かつては黄金色の麦が風になびいていた畑が、今では墓場のようだった。
「……土まで死ぬのかよ」
エルは、掌の中でこぼれた土を見つめた。
魔王との最後の戦い。
そのとき大地に叩き込まれた膨大な魔力と瘴気が、三年経った今も土の中に残っている。
大賢者が世界を救った。
それでも、この島は救われていなかった。
そんなある日。
エルは、かつて大賢者と魔王が戦った場所を歩いていた。
足元に、黒いものが転がっていた。
拾い上げる。
拳ほどの大きさ。
黒曜石のような殻。
ずしりと重い。
そして――
ドクン。
エルの掌の中で、何かが脈打った。
「……種?」
もう一度。
ドクン。
まるで、生きている心臓のようだった。
エルは種を持ち帰った。
そして、自分の畑で一番日当たりのいい場所に埋めた。
どうせ他の作物は育たない。
だったら、これに賭けてみよう。
農夫の勘だった。
三日後。
土が盛り上がった。
四日後。
黒い芽が顔を出した。
一週間もすると、茎はエルの背丈を超えた。
葉は夜の闇を切り取ったように黒い。
やがて枝の先に、いくつもの実が膨らんだ。
毒々しい紫色。
村人たちは、それを見て震えた。
「魔王の種だ」
「呪いだ!」
「エルは魔王の残したものを育てている!」
その日から、エルの畑には誰も近づかなくなった。
道を歩けば、石が飛んできた。
それでもエルは、黒い作物を抜かなかった。
不思議だった。
周囲の麦は枯れていく。
雑草さえ生えない。
なのに、この植物だけは違った。
朝も。
夜も。
嵐の日でさえ。
黒い葉を広げ、根を張り、貪るように生きている。
エルには、それが美しく見えた。
「生きたいんだな、お前も」
そう呟いて、黒い葉をそっと撫でた。
その夜だった。
村人たちが松明を手に、畑を取り囲んだ。
「もう我慢ならん!」
「その呪われた作物を焼け!」
「放っておけば島まで滅びるぞ!」
エルは鍬を握った。
「やめろ!」
「どけ、エル!」
「こいつが何をした!」
「魔王のものだ!」
「だから何だ!」
エルは叫んだ。
「見ろよ!」
枯れた畑を指差す。
「ここにあるものは、全部死にかけてる!」
そして、黒い植物を見る。
「でも、こいつだけは生きてる!」
「それが魔王の呪いなら、どうしてこいつだけが生きられるんだ!」
誰も答えなかった。
ただ、恐怖だけがそこにあった。
かつて魔王を恐れたときと同じ顔。
未知のものを前にした、人間の顔だった。
「燃やせ!」
誰かが叫んだ。
次の瞬間。
一本の松明が、畑へ投げ込まれた。
炎が黒い茎を舐めた。
「やめろおおっ!」
エルが駆け出す。
その瞬間――
パァンッ!
夜空に、乾いた破裂音が響いた。
黒い実が弾けた。
続いて、もう一つ。
パァン!
パァン!
パァン!
次々と紫色の実が裂けていく。
そして中から――
黄金色の光が溢れ出した。
無数の小さな光。
それは胞子だった。
夜空へ舞い上がり、風に乗り、島全体へ広がっていく。
村人たちは、声も出せずに空を見上げた。
黄金の胞子は、空を覆った。
その一瞬。
光の群れが、一つの形を描いた。
巨大な翼。
禍々しくも、どこか荘厳な――
魔王の翼だった。
村人の誰かが、震える声で呟いた。
「……魔王……!!?」
翼は、ゆっくりと天空島を包み込んだ。
次の瞬間。
黄金の光が、雨のように降り注いだ。
大地に染み込む。
ひび割れた土が、黒く変わった。
乾いた畑に、湿り気が戻る。
枯れていた草の根から、小さな緑が顔を出した。
そして――
風が吹いた。
死の匂いが消えていた。
代わりに、土の匂いがした。
草の匂い。
水の匂い。
生き物の匂い。
エルは膝をつき、土を握った。
柔らかい。
温かい。
三年間、一度も感じられなかった土だった。
誰も何も言わなかった。
ただ、夜空から降る黄金の光を見つめていた。
あの種が何だったのか。
誰が、何のために残したのか。
それを知る者は、もういなかった。
ただ一つだけ。
魔王が消えた場所から生まれた黒い植物が、魔王の翼となって、この島を救った。
その事実だけが残った。
翌年の春。
天空島アルカディアには、麦が揺れていた。
黄金色の穂が、風の中で波のように揺れている。
村人たちは、少しずつ畑に戻ってきた。
エルに対する態度は、まだぎこちない。
目が合えば逸らす。
声をかけようとして、やめる。
謝りたいのだろう。
けれど、誰も最初の一歩を踏み出せずにいた。
そんなある朝。
エルが畑を耕していると、一人の少年が立っていた。
かつて、エルに石を投げた少年だった。
少年の手には、小さな鍬が握られている。
「……何だ?」
エルが尋ねる。
少年は顔を真っ赤にした。
しばらく黙っていたが――
「……手伝う」
それだけ言った。
エルは少年の鍬を見た。
少し曲がっている。
新品なのだろう。
握り方も、まだ危なっかしい。
エルは笑った。
「じゃあ、そこを頼む」
「……うん」
少年が畑に入ってくる。
二人で土を耕す。
ザクリ。
鍬が土に入る。
柔らかな土が、静かに崩れる。
その土の中へ、エルは一粒の種を落とした。
今度の種は、黒くない。
ごく普通の、小さな麦の種だった。
エルが土をかぶせる。
少年が、その上から手で土をならす。
やがて二人の頭上を、風が通り抜けた。
黄金色の麦が、いっせいに揺れた。
その向こう。
青い空に、一瞬だけ――
大きな黒い翼が見えた気がした。
エルは空を見上げた。
だが、そこには何もいない。
ただ、春の風だけが吹いていた。
エルは笑って、もう一度鍬を振った。
ザクリ。
新しい土が、めくれた。
ここからまた。
命は、土の中から始まっていく。




