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最後の空賊【雲海の飴】


 天空の街エアリアスには、風に乗って囁かれる古い噂があった。



「雲海の底には、最後の空賊が潜んでいる」



 漆黒の装甲に覆われた、巨大な飛空艇。



 船首には大砲が据えられ、その名を聞いただけで商船が航路を変えたという。



 空賊の名は――グレイ・クロウ。




 王国の艦隊に三度包囲されても逃げ切り、空軍の飛空艇を五隻も撃墜したという、伝説の大悪党だ。



 もちろん、そんな男が今も生きているはずはない。


 街の大人たちは笑っていた。



 それでも空が黒雲に覆われる日は、誰もが窓の鍵を確かめた。



 少年ルカも、そんな噂を信じてはいなかった。


 あの日までは。


 夕暮れの天空港。



 見慣れない黒い飛空艇が、一隻だけ停泊していた。



 油と潮風の匂い。


 分厚い装甲。



 船首に備えられた巨大な砲。



 そして――船体に刻まれた、見覚えのある黒い爪の紋章。


「……グレイ・クロウ」



 ルカは息を呑んだ。


 シューッ。



 重い排気音とともにタラップが下りる。


 現れたのは、噂そのもののような老人だった。



 白い髭。



 左目の眼帯。


 頬から首へ走る古い傷。



 そして、空気さえ切り裂くような鋭い眼光。



 老人は周囲を一瞥すると、巨大なズタ袋を担いで歩き出した。



 ルカは恐怖より好奇心に負けた。



 こっそり後を追う。



 老人が入ったのは、人通りの少ない路地裏だった。


 キョロキョロと辺りを見回す。



 そして――。


 ドンッ。


 ズタ袋を地面に置いた。



(間違いない……盗品だ!)


 ルカが壁の陰から覗き込む。



 老人が袋を開いた。


 中から出てきたのは――。


 金貨でも宝石でもなかった。


 赤、青、黄色。


 星の形をしたキャンディ。


 雲の形をしたクッキー。


 虹色の砂糖菓子。


 甘い香りが路地いっぱいに広がった。


「ほら。今日は東の空で採れた雲クッキーだ」


「わあああ!」


「空賊のおじちゃん、ありがとう!」



 いつの間に集まったのか、十人ほどの子供たちが老人を取り囲んでいた。



「誰が空賊だ、阿呆ォ!」


 老人は怒鳴った。



 しかし、その顔はどう見ても嬉しそうだった。


 子供たちの頭を大きな手で乱暴に撫で回している。


 ルカは呆然とした。



 ――空賊って、こんなことをするのか?


 やがて子供たちが帰ると、老人はルカのいる壁を振り返った。



「……おい」


「!」


「そこにいるガキ。出てこい」


 逃げようとしたルカだったが、老人の手が素早く伸びた。


 襟首を掴まれる。



「お前、ずっと見てただろう」


「ご、ごめんなさい!」


「まあいい」


 老人はキャンディを一つ投げた。



「食え」


 ルカは恐る恐る受け取った。


「……甘い」


「当たり前だ。キャンディだからな」


「おじさん、本当に空賊なの?」



「昔はな」


 老人は空を見上げた。


「昔は、正真正銘の空賊だった」


「どんな悪いことをしたの?」



「商船を襲った」


「やっぱり悪い人じゃん!」


「うるせえ」


 老人は鼻を鳴らした。


「だが、ある日気づいたんだ」

 


「何に?」


「宝箱を奪っても、腹は満たされる。金を奪っても、酒は買える」


 老人は黒い飛空艇を振り返った。



「だが、どれだけ宝を積んでも、空がつまらなくなった」


「……?」


「だから、やめた」



 老人はズタ袋を担ぎ直した。



「今は世界中を飛び回って、珍しい菓子を集めてる」


「子供たちのために?」


「ああ」



「じゃあ、もう空賊じゃないじゃん」


「馬鹿野郎」

 


 老人は胸を張った。


「今も菓子屋を襲撃してる」


「やっぱり空賊じゃん!」


「ちゃんと金は払っとるわ!」



「いくら?」


「相場の倍額だ」


「……それ、損してない?」



「だから万年金欠なんだよ!」


 老人は豪快に笑った。



 ルカも、つられて笑った。


 その夜。


 老人はルカに、飛空艇の中を見せてくれた。


 巨大な大砲。


 古びた操舵輪。


 壁一面に並ぶ航海図。


 そして――。



 砲弾庫を開けたルカは、目を丸くした。


「これ……全部キャンディ?」



「特大サイズだ」


「なんで?」


「子供の夢は、でかいほうがいい」


 老人は笑った。


 翌朝。



 天空港に朝焼けの風が吹いていた。


「空賊のおじちゃん、また来てねー!」



「だから空賊じゃないと言っとるだろうが!」



 子供たちに見送られながら、老人はタラップを上った。


 重低音のエンジンが唸る。



 黒い飛空艇が、ゆっくりと雲海へ浮かび上がっていく。


「じゃあな、小僧!」



「またね!」


 ルカが手を振る。


 そのときだった。


 上空から、何かが落ちてきた。



 ポトッ。


 ルカの頭に当たったのは、一粒のキャンディだった。


 星屑のように輝く包み紙。



 そこには、乱暴な字で一言だけ書かれていた。


『未来の空賊へ』



 ルカは空を見上げた。


 黒い飛空艇は、朝日に照らされた雲海へ消えていく。



 そして、その日からルカは空を見上げるようになった。


 いつか自分も、あの船に乗ってみたい。


 宝を奪うためではない。


 誰かの笑顔を、空の向こうから届けるために。



     



 それから、数十年後。


 天空の街エアリアスでは、新しい噂が風に乗って囁かれていた。


「知ってるか?」



「何を?」


「雲海の彼方には、とびきり甘い宝物を積んだ飛空艇がいるらしい」



「船長は誰なんだ?」


「さあな」


 風が吹く。


 遠くの雲海から、かすかにエンジン音が響いた。


 そして誰かが、懐かしそうに笑った。


「――最後の空賊の弟子さ」

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