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午前零時の天空港


 夜空が深い藍色に染まり、月が雲海を銀色に照らす頃。


 天空の発着所「アルテア」は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返る。


 アルドは、毎晩そこに立っていた。


 かつては王国騎士団の一員だった。


 剣を抜けば誰よりも速く、仲間を守ることに誇りを持っていた。


 だが、ある事故で右腕を傷めた。



 剣を握れなくなった日から、アルドの時間は止まっていた。


 そんな彼が、もう何年も通い続けている場所がある。

 午前零時の天空港。


 そこには、奇妙な噂があった。


 午前零時。


 誰もいない発着所に、行き先の書かれていない飛空艇が現れる。


 乗る前に、会いたい人の名前を紙に書く。


 すると、その人のいる場所まで飛んでいく――。


 アルドは、その噂を信じていた。


「会いたい人がいるんだ……」


 カチリ。



 塔の時計が零時を告げた。


 その瞬間、雲海の向こうに小さな光が現れた。


 光は次第に大きくなり、やがて一隻の飛空艇となってアルドの前に静かに着陸した。


 白銀の船体。

 紋章はない。

 船名もない。

 乗務員の姿も見えない。

 アルドは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


 そして、そこに名前を書いた。



『アルド・エルム』



 自分自身の名前だった。


 彼が会いたいのは、昔の自分だった。


 剣を握っていた自分。

 何を失っても前を向いていた自分。



 未来を疑わなかった自分。

 飛空艇の扉が開いた。


 アルドは乗り込んだ。



 飛空艇は音もなく雲海へ滑り出した。


 最初に辿り着いたのは、砂漠の中に埋もれた古代遺跡だった。


 誰もいない。

 次は、霧に沈んだ森の古城。

 誰もいない。



 その次は、雪に覆われた廃村。

 やはり、誰もいない。


 そのたびにアルドは首を振った。

「違う……」


 そして飛空艇は、彼を天空港へ送り返す。



 また午前零時。


 また同じ飛空艇。


 また同じ名前。


 何度繰り返しても、昔の自分には会えなかった。


 やがてアルドは思った。

 ――あいつは、もう死んだのかもしれない。


 剣を振ることもできず、誇りも失った。


 そんな自分が、かつての自分に会えるはずがない。


 それでも、その夜もアルドは天空港へ向かった。


 カチリ。


 午前零時。


 いつものように飛空艇が現れる。


 アルドは羊皮紙を取り出した。


 そして、いつものように書き始める。


『アルド・エルム』

 そこで、手が止まった。


 初めてだった。


 名前を書き終える前に、筆先が止まったのは。


「……昔の俺に会って、どうするんだ?」


 誰もいない天空港で、アルドは呟いた。


 答える者はいない。


 ただ、雲海の向こうから冷たい風が吹いてくる。


「昔の俺に戻ったところで……今の俺には、何もできない」


 アルドはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく笑った。


「だったら……」


 羊皮紙に、最後の一文字を書いた。


 だが、その文字は『アルド・エルム』ではなかった。


 彼が書いたのは、一人の女性の名前だった。


『レティシア』


 かつて、密かに想いを寄せていた人の名前。


 剣を握っていた頃も、握れなくなった今も、ずっと胸の奥にあった名前。


 飛空艇の扉が開く。


 アルドは乗り込んだ。


 その夜の飛空艇は、いつもと違った。


 砂漠へ向かわない。


 森にも向かわない。


 雲海を抜け、月明かりの中をまっすぐに飛んでいく。

 そして――。


 静かに着陸した。

 アルドが外へ出る。


 そこは、見慣れた天空港だった。


「……戻ってきた?」


 アルドは辺りを見回した。


 だが、いつもの発着所とは少し違う。


 そこには、一人の女性が立っていた。


「ずっと待ってたわ」


 アルドは息を呑んだ。


 彼女は、かつて騎士だった頃のアルドが、密かに想いを寄せていた女性だった。


「どうして……ここに?」


 女性は微笑んだ。


「あなたが来ると思っていたから」


「俺を……?」


「ええ」


 彼女はアルドの右腕を見た。


 それから、昔と変わらない優しい目で彼を見つめた。


「剣を持てなくなったからって、あなたまでいなくなったわけじゃないでしょう?」


 アルドは何も言えなかった。


 長い間、自分は失われた過去を探していると思っていた。


 けれど違った。


 探していたのは、昔の自分ではない。


 ――昔の自分を失ったあとも、ここに残っていた自分だった。


 アルドは女性の前まで歩いた。


 二人の間を、夜風が吹き抜ける。


 アルドは空を見上げた。


飛空艇はいつの間にか姿を消して、月だけが静かに雲海を照らしていた。

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