魔法図書館司書【未来の本】
世界で唯一、未来を記す魔法図書館があった。
明日の出来事から千年先の歴史まで、すべてが収められた禁断の場所。
だが、ここの司書には絶対的な規則が一つある。
――『未来の本を読んではならない』。
未来を知れば、人は必ずそれを変えようとする。
運命が狂えば、世界そのものが矛盾に耐えきれず崩壊してしまうからだ。
若き司書のセレスは、その規則を誰よりも忠実に守っていた。
ある夜。
閉館後の書庫を整理していたセレスの足元に、一冊の本が落ちてきた。
ドサッ。
古びた黒い革張りの表紙。
タイトルは――『明日の記録』。
「……未来書?」
セレスが本を棚へ戻そうとした瞬間、ページの隙間から一枚の羊皮紙が滑り落ちた。
そこには、赤黒いインクで一行だけ記されていた。
«明日、午後七時。
司書セレスは死ぬ。»
セレスの指が震えた。
「……私が?」
紙を見つめる。心臓が嫌な音を立てた。
しかし彼女は強く首を振り、本を閉じた。読んではいけない。
知らなければいいのだと。
翌日。
セレスは平静を装い、いつも通り図書館を開けた。
午前が過ぎ、昼を回っても何も起きない。
「……きっと、ただの予言書。外れることもあるわ」
そう自分に言い聞かせていた。しかし――。
午後四時。
止まっていたはずの図書館の大時計が、突然『三回』鳴った。
セレスは凍りついた。紙に書かれていた通りだ。
午後五時。
閉め切ったステンドグラスの窓をすり抜けるように、一羽の黒い鳥が舞い込んできた。
午後六時。
封印されているはずの禁書庫の重い扉が、音もなく開いた。
時計の針は、午後六時五十九分を指している。
あと一分。
セレスは逃げ出そうとしたが、扉は開かず、転移魔法も弾かれた。巨大な図書館が、彼女を閉じ込める鳥籠に変わっていた。
チクタク、チクタク。
秒針が進む。
午後七時。
――何も起きなかった。
セレスは自分の胸に手を当てた。
心臓は動いている。息もできる。
「……生きてる」
その瞬間、禁書庫の奥からパタン、と本が落ちる音がした。
開いたページに、新しい文字がインクの染みのように浮かび上がってくる。
«午後七時。司書セレスは死んだ。»
「……嘘。私はここにいるのに」
セレスが呟いた、その時だった。
「残念だったね。君の絶望する顔、結構好きだったんだけどな」
甘く、どこか底冷えのする声が響いた。
振り返ると、いつの間にか閲覧机の上に一人の青年が腰掛けていた。
漆黒のコート。手には銀色の懐中時計。
そして、古いインクで黒く染まった指先。
人間ではない。その整いすぎた顔立ちと、黄金色に光る瞳が、彼が『時の悪魔』であることを物語っていた。
「あなたは……?」
「ただの傍観者さ。あるいは、運命の製本職人、とでも呼んでくれ」
悪魔は軽やかに机から飛び降りると、一冊の古い本をセレスに放り投げた。
表紙には『司書セレスの最後の日』とある。
「開いてごらん」
悪魔に促されるままページをめくると、そこには今日起きた出来事が克明に記されていた。
大時計が三回鳴ったこと。黒い鳥。禁書庫の扉。
そして、午後七時。
「この本は……私が死ぬ未来の本?」
悪魔笑った
「違うよ、お嬢さん。それは『過去』だ」
「過去……?」
「表紙の裏を見てごらん」
セレスがめくると、そこには信じられない日付が記されていた。
――『三百年前』
「この図書館はね、面白い悪戯をするんだ」
悪魔は懐中時計の鎖を指で弄びながら、セレスの周りをゆっくりと歩き始めた。
「三百年前、この本を読んだ『セレス』という名の司書がいた。彼女は今日と同じように自分が死ぬ未来を知り……パニックになり、規則を破って運命に抗った」
悪魔がセレスの耳元で囁く
「彼女が死ぬはずだった運命をねじ曲げたから、世界線が枝分かれした。……この本はね、過去に一度だけ存在した『実現しなかった未来』の記録さ」
セレスは息を呑んだ。
「……未来の本ではなかった。過去のセレスが残した、運命の抜け殻……」
「ご名答。歴代の『セレス』たちは皆、そうやって運命を書き換えてきた。だから君は今、生きている」
その瞬間、手元の本の最終ページに新たな文字が浮かび上がった。
«三百年前、セレスは死ななかった。
彼女が未来を変えたからである。»
悪魔はインクに染まった指を鳴らした。
「さて、過去の亡霊からのテストはこれで終わりだ。君は運命から生き延びた。これからどうする?」
朝になった。
黄金色の朝日が、ステンドグラスを通して書架を照らしている。
セレスの手元にある『明日の記録』という本から、「セレスは死ぬ」という文字は完全に消え去っていた。
代わりに浮かび上がったのは、
«未来は、まだ書かれていない。»
という一行だけ。
「……悪趣味な試練ね」
セレスは小さく微笑み、その本を棚の奥へと戻した。
未来は決まっているわけではない。
過去の誰かが必死に抗い、変えた未来の延長線上に、今の自分がいる。
ならば――自分もまた、自らの手で未来を書き綴っていけばいいのだ。
振り返ると、もう時の悪魔の姿はなかった。
しかし、机の上には一冊の『真新しい白紙の本』と、一本の羽根ペンが残されていた。
セレスは椅子に座り、ペンの先をインクに浸す。
白紙の表紙をそっと撫で、彼女は迷うことなくタイトルを書き込んだ。
『これからの物語』
朝の光の中、時計の針が静かに時を刻み始める。
未来は、まだ誰のものでもない。




