旅の画家【世界樹の湖】
世界樹の足元には、誰もが一度は訪れてみたいと願う湖がある。
地図には載っていない。巨大な根の迷路をたどり、深い森の最奥を抜けた者だけが辿り着ける、通称「幻の湖」
湖畔に辿り着いた旅の画家・リオは、しばらく言葉を失っていた。
水面には、夜空がそのまま落ちてきたかのように星々が映り込んでいる。
いや、ただ反射しているのではない。
湖そのものが、もう一つの宇宙なのだ。
水の中を、淡く光る魚たちが群れをなして泳いでいる。
一匹が跳ねて水面を割ると、魚はそのまま重力を忘れたように空へ浮かび上がり、星と星の間を泳いでいった。
「……魚が、空を泳いでる」
リオは思わず息を吐き、静かに笑った。
傍らで小さな焚き火を熾し、イーゼルを立ててキャンバスを広げる。
パレットに油絵具を絞り出すと、森の澄んだ空気に、亜麻仁油の静かで深みのある香りが混ざり合った。
「ここなら……描けるかもしれない」
リオは世界中を野営しながら旅し、美しい景色を油彩で描き残してきた。
しかし、どうしても完成させられない景色が一つだけあった。
それが、この湖だった。
「何度色を重ねても、本当の姿は描けないよ」
ふいに、鈴を転がすような澄んだ声が響いた。
振り返ると、月光を編み込んだような銀髪を持つ、美しい女性エルフが立っていた。
彼女は細い木の枝で作られた釣り竿を手に、静かに微笑んでいる。
「……なぜ分かるんです?」
「私と同じだから。長い長い時間、ずっとこの湖を見つめてきた」
エルフの女性は湖畔に腰を下ろし、釣り糸をふわりと垂らした。
「ここには普通の魚はいない」
「知っています」
「そうじゃないの」
エルフの透明な瞳が、リオを見つめた。
「この水面にはね、人の心にあるものが映るのよ」
「心にあるもの?」
「だから、何度キャンバスに向かっても同じ湖にはならない。あなたが見ているのは風景ではなく、あなた自身だから」
エルフはそれだけ言うと、静かな水面へと視線を戻した。
「……この湖で釣れるのは、魚だけじゃないのよ」
「え?」
エルフは、ただ優しく微笑むだけだった。
夜が深くなった。
エルフは少し離れた場所で、静かに目を閉じている。
リオは一人、キャンバスに向かっていた。
ペインティングナイフと筆を使い、厚く絵具を乗せていく。
夜の青。世界樹の緑。星の白。光る魚の黄色。
しかし――何かが違う。
美しい。確かに美しい。けれど、目の前にある湖の持つ「温度」がまるで宿っていない。
「……どうしてだ」
筆を置いた、そのときだった。
カサッ。
世界樹の根元から、小さな音がした。
振り返ると、そこに小さな魔物がいた。丸い耳に、葉っぱのような短い尻尾。体から淡い緑色の光を放っている。
「……君は?」
魔物は答えない。ただ、リオが描いた油絵をじっと見つめている。
「下手だろ?」
リオが苦笑すると、魔物は首を横に振り、リオの手をそっと引いた。
そして、湖の方へ歩き出す。
「おい、どこへ行く?」
魔物は振り返り、ただ湖面を指差した。
湖のほとりに立つ。
風が止み、水面が完全な鏡になった。
満天の星が映る。
その瞬間――リオは息を呑んだ。
湖面に、一人の女性が映っていた。
「……母さん?」
幼い頃に亡くした母だった。
湖面の中で、母は笑っている。あの日と同じ、優しくて温かい笑顔だった。
「そんな……」
リオは湖へふらふらと近づいた。
「母さん……」
たまらず手を伸ばす。けれど、指先が水面に触れた瞬間、波紋とともにその姿はふっと消えてしまった。
「待って!」
波紋だけが広がっていく。
リオはその場に崩れ落ち、膝をついた。
「……どうして。もう一度だけ……会いたかったのに」
小さな魔物が、リオの隣にちょこんと座った。
何も言わない。ただ、静かに寄り添い、背中を撫でるように光を放っている。
リオは魔物を見た。
「君が見せたのか?」
魔物は首を横に振り、自身の胸のあたりをトントンと叩いてから、リオの胸を指差した。
エルフの言葉を思い出す。
――この湖には、人の心にあるものが映る。
リオは、涙を拭って静かに笑った。
「そうか……」
母は湖にいたのではない。ずっと、自分の中にいたのだ。
夜が明けた。
朝日が世界樹の葉の隙間から差し込み、湖は、もうただの美しい湖に戻っていた。
星空もない。空を泳ぐ魚もいない。
小さな魔物の姿も消えていた。
「……行っちゃったか」
リオは少し寂しそうに笑い、キャンバスの前に座った。
筆を持つ。今度は、目の前の風景をそのまま写し取ることはしなかった。
温かみのあるアンバー。深みのある赤。
重厚な油絵具を何度も塗り重ね、心の中に映ったものを描いていく。
そこに描かれたのは――幼い自分と、優しい顔をした母親だった。
湖畔に座って、二人で笑っている。
「……これだ」
初めて、筆が止まらなかった。
絵が完成した頃、エルフの女性が近づいてきた。
「描けた?」
リオは、まだ絵の具の匂いが真新しいキャンバスを見せた。
エルフはしばらくの間、その絵を愛おしそうに見つめ――優しく微笑んだ。
「ようやく見つけたのね。あなたが本当に描きたかったものを」
「……はい」
エルフは自身の釣り竿を巻き上げながら、小さく息を吐いた。
「……私も今日は、とても良い『思い出』が釣れたみたい」
エルフの横顔は、昨夜よりも少しだけ晴れやかに見えた。




