第3話 水車を作れば産業革命だと思っていた。
現代人なら誰でも知っている水車。
川の流れを利用して、大きな車輪を回すだけ。
仕組みは簡単に見えるものほど、実際に作る難しさには気づかないものです。
異世界生活、六日目。
田中健太は、人生最大の危機に直面していた。
「……金がない」
安宿の小さな机に、銅貨が四枚並んでいる。
昨日の夕食は抜いた。
今朝も何も食べていない。
そして、宿の主人からは、昼までに宿代を支払わなければ出ていってもらうと告げられていた。
「おかしいだろ……」
健太は銅貨を指で弾いた。
異世界に転生して、まだ六日。
本来なら、今頃は貴族に招待され、豪華な食事を楽しんでいるはずだった。
それなのに、現実はどうだ。
冒険者試験には落ちた。
マヨネーズは完成しなかった。
商業ギルドには融資を断られた。
おまけに、どこの誰とも知らない料理人見習いに、自分のアイデアを先取りされてしまった。
「……まあ、いい」
健太は机の上に広げた紙を見た。
そこには、昨夜描いた水車の絵があった。
丸い輪。
周囲に取り付けられた板。
真ん中を貫く一本の棒。
そして、横には大きく『水車』と書かれている。
「これなら間違いなく成功する」
マヨネーズのような細かい配合は必要ない。
水が流れれば回る。
それだけだ。
「問題は……誰に作らせるかだな」
健太は腕を組んだ。
自分で作るという選択肢は、最初からなかった。
* * *
「つまり、木工職人を紹介してほしいということですね?」
商業ギルドの受付で、眼鏡の女性が尋ねた。
エリナ・フォルツ。
昨日、健太への融資を断った受付担当者だった。
「そうです。今度は本当にすごい発明なんですよ」
「以前の調味料はいかがなさいましたか?」
「……あれは、もういいんです」
「そうですか」
エリナはそれ以上追及しなかった。
「木工職人でしたら、職人組合で紹介を受けられます。ただし、製作依頼には費用が必要です」
「いや、費用は完成してから払います」
「その条件を受ける職人がいれば、可能だと思いますが……」
「いるでしょう。将来、大金持ちになれるんですから」
健太は当然のように答えた。
エリナは一瞬だけ黙った。
「……では、職人組合の所在地をご案内します」
「ありがとうございます」
健太は紙を受け取った。
そして、ふと思いついたように尋ねた。
「ちなみに、水車って知ってます?」
「水車、ですか?」
「川の水で、大きな車輪を回す装置です」
「そのような装置は、少なくともこの街では見たことがありませんね」
「やっぱり!」
健太は拳を握った。
「じゃあ、これが完成したら産業革命ですよ!」
「産業革命……?」
「そうです! 世界が変わるんです!」
エリナは困ったように微笑んだ。
「それは、楽しみですね」
その言葉を、健太は心からの期待だと受け取った。
* * *
職人組合は、街の南側にあった。
周囲には木材置き場や工房が並び、木槌の音が響いている。
健太が紹介されたのは、五十歳ほどの大工だった。
名前は、バルド。
太い腕と無精ひげが特徴の、いかにも職人らしい男である。
「水の力で車輪を回す、だと?」
「はい!」
健太は勢いよく頷いた。
「これが完成すれば、粉挽きも木材加工も全部自動化できます!」
「ほう」
バルドは興味深そうに紙を受け取った。
だが、次の瞬間、眉をひそめた。
「……これだけか?」
「はい?」
「図面だよ。寸法が何も書いてねえ」
「寸法?」
「直径は? 幅は? 軸の太さは?」
「……大きければ大きいほどいいんじゃないですか?」
「んなわけあるか」
バルドは即答した。
「でかけりゃ材料も重くなるし、支える構造も必要になる。何より、どこに設置するんだ?」
「川です」
「どこの川だ?」
「……この街の近くの」
「川にもいろいろある。流れが速い場所もあれば、遅い場所もある。水位だって変わる」
健太は苛立ちを覚えた。
どうして、この世界の職人はこんなにも細かいのだろう。
「とにかく、水が当たれば回るんですよ!」
「そりゃ、回るかもしれんがな」
バルドは紙を机に置いた。
「回るだけでいいのか?」
「……え?」
「お前さん、粉を挽きたいって言ったな。なら、回る力を石臼に伝えなきゃならん」
「歯車を使えばいいんですよ」
「その歯車は、どう組む?」
「……普通に」
「横向きの軸から、縦向きに回る石臼へ、どうやって力を伝える?」
「…………」
「歯の形は? 軸受けは? 回転の速さは?」
健太は黙った。
そんなこと、異世界小説には書いていなかった。
普通は、主人公が水車の絵を描けば、職人が勝手に完成させるものだ。
「……そこは職人の仕事じゃないんですか?」
バルドは目を細めた。
「なるほど。つまり、お前さんは完成したものを見たことがあるだけなんだな」
「違います! 仕組みは知ってます!」
「なら、どうして動くのか説明してみろ」
「だから、水が羽根に当たって……」
「その先だ」
「……回って」
「回った力をどう使う?」
「……歯車で」
「だから、その歯車をどう作る?」
健太は答えられなかった。
バルドは深いため息をついた。
「面白い考えではある。だが、こいつは設計図じゃねえ。ただの絵だ」
その言葉が、健太の胸に突き刺さった。
「……絵?」
「ああ。これだけじゃ、何をどれだけ作ればいいかもわからん」
「でも、俺の世界では普通に使われてたんですよ!」
「だったら、そいつを作った職人は大したもんだ」
バルドは、悪意なくそう言った。
「ただ、お前さんがその職人ってわけじゃねえんだろ?」
健太の顔が赤くなった。
* * *
「……だったら、実際に作ってみればいいじゃないですか!」
健太は声を荒らげた。
「作れば仕組みもわかるでしょ!」
「材料代と工賃を払うなら、試作品くらい作るぞ」
「だから、完成後の利益から払いますって!」
「利益?」
「そうです。売上の一割を渡します」
バルドは笑った。
「一割か。で、残り九割は誰がもらう?」
「当然、俺です。発明者ですから」
「……お前さんは何をするんだ?」
「アイデアを提供します」
「設計は?」
「職人さんが」
「材料の調達は?」
「職人さんが」
「組み立ては?」
「職人さんが」
「失敗したときの損は?」
「……職人さんが」
バルドはしばらく健太を見つめた。
そして、大きな声で笑い始めた。
「はっはっは! こりゃ傑作だ!」
「な、何がおかしいんですか!」
「全部こっちにやらせて、儲けは九割持っていくってのか!」
「だって、俺が考えたんですよ!?」
「ああ、そうだな。だが、俺も今、お前さんの話を聞いた」
「……え?」
「川の水で車輪を回す。歯車で石臼を動かす。そういう考え方なんだろ?」
「そ、そうですけど……」
「なら、俺が自分で工夫して作ることもできるな」
健太は青ざめた。
「それは盗作です!」
「盗作?」
「俺の発明を盗む気ですか!?」
バルドは笑うのをやめた。
「安心しろ。俺には今、他の仕事が山ほどある。金にもならねえ実験に付き合う暇はない」
「でも!」
「それに、口で聞いた程度じゃ、うまく作れる保証もねえ」
バルドは紙を返した。
「本当に作りたいなら、まずは設置場所を決めろ。それから小さな模型でも作って、動くか確かめるんだな」
「模型……?」
「いきなり大物を作って失敗したら、材料がもったいねえだろ」
健太は紙を握りしめた。
「……もういいです」
「あ?」
「別の職人に頼みます」
「そうかい」
バルドは肩をすくめた。
「まあ、頑張れよ」
その言葉が、健太にはひどい侮辱に聞こえた。
* * *
七日目。
健太は、別の工房を訪ねていた。
八日目には、さらに二軒。
九日目には、三軒。
だが、結果はすべて同じだった。
「設計図は?」
「費用は?」
「材料は?」
「失敗した場合の負担は?」
誰もが同じことを尋ねてくる。
「なんなんだよ、この世界の職人は!」
健太は道端で悪態をついた。
現代日本なら、新しいアイデアを出した人間は評価されるはずだ。
テレビで見た起業家たちも、最初は小さなアイデアから大企業を作っていた。
自分だって、同じことをしている。
それなのに、誰も協力してくれない。
「……あいつら、頭が固すぎるんだ」
健太はそう結論づけた。
もっと柔軟な発想を持つ人間が必要だ。
そうだ。
若い職人なら、きっと話を理解してくれる。
健太は再び職人組合へ向かった。
* * *
「水車を作りたいんですか?」
声をかけてきたのは、二十歳ほどの若い職人だった。
名前は、トーマ。
木工職人の見習いで、休日には小さな玩具や模型を作っているという。
「そう! 川の流れで車輪を回すんだ!」
「面白そうですね」
健太は目を輝かせた。
ようやく、理解者が現れた。
「だろ!? これが完成すれば、世界が変わるぞ!」
「とりあえず、小さな模型なら作れると思いますよ」
「本当か!?」
「はい。木の切れ端もありますし」
健太は感動した。
これだ。
これこそ、異世界転生小説でよくある展開だ。
主人公の革新的なアイデアに、若い職人が共感する。
そして、二人で発明品を完成させる。
その後、商業ギルドが驚き、王国中に技術が広まる。
完璧な流れだった。
「よし! 早速作ろう!」
トーマは笑った。
「じゃあ、まずは小川で試せるくらいのものから始めましょう」
* * *
十日目。
街外れの小川に、二人の姿があった。
トーマが持ってきたのは、直径三十センチほどの木製の車輪だった。
周囲には、小さな板が取り付けられている。
中央には木の軸。
両側には、簡単な支え。
「おおおお!」
健太は歓声を上げた。
「これだよ! これ!」
「まだ試作品ですけどね」
トーマは川岸に車輪を設置した。
水の流れに板が当たる。
ゆっくりと、車輪が動き始めた。
「……回った!」
健太は飛び上がった。
「回ったぞ! やっぱり俺は天才だ!」
トーマも嬉しそうに笑った。
「思ったより簡単に回りましたね」
車輪は、ゆっくりと回転を続けている。
健太は興奮していた。
ついに成功した。
マヨネーズの失敗も、冒険者試験の不合格も、すべて過去の話だ。
「これで産業革命だ!」
「……え?」
「この技術を国中に売るんだよ! 工場も作れる! 大金持ちだ!」
トーマは少し困った顔になった。
「でも、まだ車輪が回っただけですよ?」
「だから、それがすごいんだって!」
「この回転で、どのくらいの力が出せるか調べないと」
「そんなの、大きくすればいいだろ!」
「大きくすると重くなりますし、今度は軸の強度も必要ですよ」
健太は眉をひそめた。
まただ。
どうして、この世界の人間は成功した瞬間に水を差すのだろう。
「とにかく、大きいのを作ろう!」
「……費用は?」
「完成したら払う!」
トーマは困ったように笑った。
「それは、ちょっと……」
健太は舌打ちした。
だが、今回は引き下がらなかった。
「じゃあ、この模型を商業ギルドに持っていこう!」
「え?」
「これなら金を出してくれるはずだ!」
健太は車輪を持ち上げた。
その瞬間、支えが外れた。
「あっ」
木製の車輪が川に落ちる。
水流に押され、くるくると回りながら流れていった。
「あああああっ!」
健太は川岸を走った。
「待て! 俺の発明品!」
だが、車輪はどんどん遠ざかっていく。
やがて、石にぶつかり、軸が折れた。
板が外れ、流れに散っていく。
「…………」
健太は立ち尽くした。
トーマが隣にやってきた。
「……すみません。固定が甘かったですね」
「……お前のせいだ」
「え?」
「お前がちゃんと作らないから壊れたんだろ!」
トーマは目を見開いた。
「でも、まだ試作品で……」
「言い訳するなよ!」
健太は怒鳴った。
「俺の発明が台無しじゃないか!」
トーマは黙った。
そして、静かに答えた。
「……そうですね。すみませんでした」
健太は腕を組んだ。
「まったく。これだから見習いは……」
だが、その言葉に返事はなかった。
トーマは道具を片づけ始めていた。
「……何してるんだ?」
「帰ります」
「は?」
「僕には、まだ難しいみたいです」
「いや、次はもっと大きいのを――」
「すみません。もう手伝えません」
健太は言葉を失った。
トーマは頭を下げると、道具袋を背負った。
そして、振り返ることなく歩き去った。
「……なんだよ」
健太は呟いた。
「ちょっと怒ったくらいで……」
小川には、何も残っていなかった。
* * *
十一日目。
健太は商業ギルドを訪れていた。
「水車の開発資金を出してほしいんです!」
エリナは、持ち込まれた紙を確認した。
「試作品はございますか?」
「ありました!」
「……ありました?」
「壊れたんです! でも、ちゃんと回りました!」
「そうですか。では、試験記録は?」
「記録?」
「回転数や、取り出せた力などの記録です」
「……そんなの必要なんですか?」
「事業として利用するのであれば、必要になります」
健太は苛立った。
「水で回るんですよ!? すごいでしょ!?」
「はい。興味深い技術だと思います」
「だったら融資してくださいよ!」
「しかし、現時点では実用化の見通しが立っておりません」
「……またそれかよ」
エリナは静かに続けた。
「この街には、魔石を利用した回転機構があります。小規模な工房では、すでに使われています」
「……え?」
「魔導機械です。魔力を流すことで軸を回転させる装置ですね」
健太は固まった。
「……そんなの、あるんですか?」
「はい」
「なんで先に言わないんですか!?」
「水車の開発についてご相談いただいておりましたので……」
「じゃあ、俺の発明は意味ないじゃないですか!」
「いえ、そうとは限りません」
エリナは首を横に振った。
「魔石は高価ですし、供給が不安定な地域もあります。水流だけで安定して動く機械があれば、需要はあると思います」
「……本当ですか?」
「はい。ただし、魔導機械と比較して、製造費用や維持費がどの程度になるかを確認する必要があります」
健太は再び黙った。
製造費用。
維持費。
効率。
試験記録。
そんな言葉ばかりだった。
自分は世界を変える発明を持ち込んだのに、誰もその価値を認めてくれない。
「……もういいです」
健太は立ち上がった。
「田中様?」
「俺の発明を理解できない人たちに、何を言っても無駄ですから」
エリナは何か言いかけたが、結局何も言わなかった。
健太はギルドを後にした。
* * *
その日の夕方。
トーマは工房で、師匠のバルドに一枚の紙を見せていた。
「親方、ちょっと相談があるんです」
「なんだ?」
「川の流れで車輪を回す仕組みなんですけど……」
紙には、小さな水車の図が描かれていた。
寸法。
軸の太さ。
羽根の幅。
川に設置する位置。
そして、試作品が壊れた原因についてのメモ。
バルドは興味深そうに目を通した。
「……なるほどな」
「この前、小さな模型を作ってみたんです。回ることは確認できました」
「ほう」
「でも、軸の固定が弱くて壊れました。次は支えを変えてみようと思ってます」
バルドは頷いた。
「いいんじゃねえか」
「それで、今度は回すだけじゃなくて、小さな石臼を動かしてみたいんです」
「なら、回転を伝える仕組みも考えねえとな」
「はい。歯車について、教えてもらえませんか?」
バルドは笑った。
「最初からそう言えばいいんだ」
トーマは頭を下げた。
「お願いします!」
バルドは図面を机に広げた。
「まず、歯車の組み合わせにはいくつか方法がある。お前がやりたいのは、横の回転を縦に変える仕組みだな」
「はい!」
「だったら、この辺から考えてみるか」
二人は図面を囲んだ。
まだ、完成にはほど遠い。
大きな水車を作るだけの資金もない。
そもそも、実際に役立つものになるかどうかすらわからない。
それでも、トーマは楽しそうだった。
「いつか、本当に粉挽きができたら面白いですね」
「ああ。だが、まずは小さな模型だ」
「はい!」
トーマは手帳を開き、師匠の説明を書き留めた。
そこには、健太が一度も考えようとしなかったことが、少しずつ積み重なっていった。
* * *
その頃。
健太は街外れの広場に座り込んでいた。
宿は、とうとう追い出された。
最後の銅貨は、硬いパン一つに消えた。
「……クソ」
腹が鳴る。
足が痛い。
背中も痛い。
何より、腹立たしかった。
自分は、異世界を発展させる知識を持っている。
それなのに、誰も理解しない。
商業ギルドも。
職人たちも。
あの見習いも。
「……馬鹿ばっかりだ」
健太はパンをかじった。
硬く、味も薄い。
日本にいた頃なら、こんなものは絶対に食べなかった。
母親が作った料理にも、文句をつけていた。
「……日本に帰りてぇ」
思わず、そんな言葉が漏れた。
だが、すぐに首を振った。
「いや、違う……!」
まだ、終わっていない。
自分には、もっとすごい知識がある。
水車なんて、所詮は古い技術だ。
本当の産業革命を起こすには、もっと強力な機械が必要だ。
「……蒸気機関だ」
健太は顔を上げた。
そうだ。
蒸気機関。
水を沸かして蒸気を発生させ、その力で機械を動かす。
鉄道。
工場。
船。
あらゆるものを動かした、現代文明の原点。
「これなら、間違いない……!」
健太の目に、再び希望の光が宿った。
水車は、確かに難しかった。
だが、蒸気機関なら知っている。
学校でも習った。
テレビでも見た。
ゲームにも登場した。
あの大きな鉄の機械。
煙を吐きながら動くピストン。
そして、勢いよく回る車輪。
「……よし」
健太は立ち上がった。
「次こそ、本当の産業革命だ!」
周囲の人々は、誰も振り返らなかった。
薄暗くなった広場を、一人の男が歩いていく。
所持金、ゼロ。
住居、なし。
仕事、なし。
そして、発明品もなし。
それでも彼は、まだ自分を天才だと信じていた。
水車の構造を説明できなかった男が、次に目指したのは蒸気機関。
だが、健太は知らなかった。
蒸気を利用して機械を動かすためには、単に水を沸かすだけでは足りないことを。
高い圧力に耐える容器。
精密なシリンダーとピストン。
蒸気の流れを制御する弁。
そして、爆発を防ぐための安全装置。
どれ一つとして、健太は設計したことがなかった。
それどころか。
健太は、蒸気機関がどうやって回転運動を生み出すのかさえ、正確には知らなかった。
だが、本人にとって、それは問題ではなかった。
なぜなら――。
「細かいことは、鍛冶師に任せればいいんだよ」
それが、田中健太という男だった。
アイデアは、新しいものを生み出すきっかけになります。
しかし、実際に形にするためには、設計、試作、検証、そして改善が必要です。
同じ発想に触れても、そこから何を学び、どう行動するかによって、結果は変わっていくのかもしれません。




