第2話 マヨネーズで大儲けできると思っていた。
誰も知らないものを知っている。それだけで、大金持ちになれるのだろうか。
知識と技術の違いを知らない男が、異世界で初めての商売に挑みます。
異世界生活、二日目。
田中健太は、人生で初めて本気になっていた。
「今日で俺の人生が変わる……!」
朝日が差し込む安宿の一室。
机の上には、一枚の紙が置かれていた。
『マヨネーズの作り方』
一、卵を用意する。
二、油を用意する。
三、酢を用意する。
四、全部混ぜる。
昨夜、健太が考案した革命的な調味料の製造方法だった。
「これを商業ギルドに持ち込めば、一発で大金持ちだな」
健太は満足そうに頷いた。
現代日本では当たり前のマヨネーズ。
しかし、この異世界には存在しない。
少なくとも、健太はそう確信していた。
昨日、市場を歩いた限りでは見かけなかったからだ。
「まずは特許だな。権利を押さえて、製造はギルドに任せる。売上の二割くらいもらえれば十分か」
もちろん、この世界の特許制度など調べていない。
そもそも、商業ギルドがどのような組織なのかも知らなかった。
だが、そんなことは些細な問題だ。
自分には、現代知識という圧倒的な武器がある。
「待ってろよ、異世界……!」
健太は紙を握りしめ、宿を飛び出した。
* * *
商業ギルドは、冒険者ギルドよりも立派な建物だった。
三階建ての石造り。
入口には二人の警備兵。
中に入ると、商人らしき人々が書類を抱えて行き交っていた。
「おお……」
健太は思わず声を漏らした。
ここが、これから自分の成功物語が始まる場所なのだ。
受付には、眼鏡をかけた女性が座っていた。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
「新商品の開発です!」
健太は胸を張った。
「この世界に革命を起こす調味料を持ってきました!」
女性は少し驚いた様子で顔を上げた。
「新しい調味料、ですか?」
「はい。絶対に売れます」
「完成品はお持ちでしょうか?」
「……え?」
「試作品です。食品の場合、まず現物を確認させていただいております」
健太は眉をひそめた。
「いや、まだ作ってないですけど」
「では、製造方法をお持ちですか?」
「もちろん!」
健太は自信満々に紙を差し出した。
女性はそれを受け取り、目を通した。
「……卵、油、酢」
「はい!」
「全部混ぜる……」
「そうです!」
女性はしばらく黙っていた。
そして、丁寧に紙を机の上へ戻した。
「申し訳ありませんが、これだけでは審査できません」
「……は?」
「材料の配合量、製造工程、完成品の特徴などが記載されておりませんので」
「いや、だから! 混ぜるだけですよ!」
「どの程度の割合で混ぜるのでしょうか?」
「それは……適当に」
「適当、ですか?」
「ええ。料理なんて、だいたいそんなものでしょう?」
女性は困った表情になった。
「当ギルドでは、製造方法が確認できない商品について、権利登録を受け付けることはできません」
「……権利登録?」
「はい。新しい技術や製造方法については、一定期間、独占的な販売権を認める制度がございます。ただし、実現可能であることが条件です」
健太の表情が明るくなった。
「それ! それですよ!」
「はい?」
「それを登録したいんです!」
「ですから、まずは完成品を――」
「わかりました! 作ってきます!」
健太は紙をひったくるように受け取った。
まったく、融通が利かない。
現代日本でも、こういう役所仕事が経済発展を妨げていたのだろう。
「できたら驚くぞ……」
健太は小さく笑った。
受付の女性は、その背中を不思議そうに見送っていた。
* * *
市場には、色とりどりの食材が並んでいた。
健太はまず、卵を購入した。
続いて、植物油。
最後に酢。
材料は、思ったより簡単に揃った。
「なんだ。余裕じゃん」
問題は、調理場所だった。
安宿の部屋には、台所がない。
宿の主人に頼んでみたが、断られた。
「厨房を貸してほしい?」
「はい。ちょっと新しい料理を作りたくて」
「料理人なのか?」
「いえ、違いますけど」
「じゃあ駄目だ。火事でも起こされたら困る」
「火なんて使いませんよ!」
「だったら部屋でやればいいだろ」
そう言われてしまった。
仕方なく、健太は宿の部屋へ戻った。
市場で買った木の器と匙を机に並べる。
「さて、と」
卵を割る。
中身を器に落とす。
油を注ぐ。
酢を加える。
「よし。あとは混ぜるだけ」
健太は匙を動かした。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
五分後。
「……あれ?」
器の中には、黄色く濁った液体ができていた。
油が表面に浮いている。
マヨネーズとは、明らかに違う。
「混ぜ方が足りないのか?」
さらに混ぜた。
十分。
二十分。
三十分。
「はぁ……はぁ……!」
腕が痛くなってきた。
十五年間、まともな運動をしていなかった健太にとって、手作業で混ぜ続けるのは予想以上の重労働だった。
「なんで固まらねぇんだよ……!」
匙を置き、器を睨みつけた。
目の前にあるのは、相変わらず油っぽい液体だった。
「……卵が悪いのか?」
健太は考えた。
現代日本の卵とは品質が違うのかもしれない。
あるいは、異世界の油が特殊なのか。
そうだ。
きっと材料が悪いのだ。
「俺の作り方が間違ってるわけないしな」
健太は残った材料を確認した。
もう一度試すには、油が足りない。
「……買い足すか」
財布を開く。
中にある銀貨は、三枚と少し。
宿代と食事代も必要だった。
「まあ、完成すれば何百倍にもなって返ってくるし」
健太は自分に言い聞かせた。
* * *
三日目。
健太は再びマヨネーズ作りに挑戦していた。
今度は卵を二個使った。
油の量も増やした。
混ぜる時間も長くした。
結果は、前日と変わらなかった。
「……おかしい」
黄色い液体が、器の中で揺れている。
「絶対におかしい!」
健太は机を叩いた。
その拍子に器が倒れ、油混じりの液体が床に広がった。
「あああああっ!」
健太は慌てて布で拭いた。
だが、床には油染みが残った。
そこへ、宿の主人がやってきた。
「おい、何やってる!」
「いや、ちょっと……」
「なんだこの臭いは!」
「料理の研究です!」
「部屋を汚すな! 掃除代をもらうぞ!」
「はぁ!? ちょっとこぼしただけじゃないですか!」
「床板に油が染みてるだろうが!」
結局、健太は銀貨一枚を支払うことになった。
「最悪だ……」
財布が急激に軽くなっていく。
それでも、健太は諦めなかった。
いや、諦めるわけにはいかなかった。
ここで諦めれば、三日間の努力が無駄になる。
それだけは許せなかった。
* * *
四日目。
健太は思いついた。
「そうだ! プロに作らせればいいんだ!」
自分は開発者だ。
技術者ではない。
経営者が自分で商品を作る必要などない。
優秀な人材に任せればいいのだ。
健太は市場の近くにある料理店を訪ねた。
店内では、恰幅のよい中年の料理人が仕込みをしていた。
「すみません!」
「ああ? 客か?」
「新しい調味料を作ってほしいんです!」
料理人は手を止めた。
「調味料?」
「はい。絶対に売れるやつです」
「ほう。どんなもんだ?」
「卵と油と酢を混ぜて、白っぽいクリーム状にするんです」
「……それだけか?」
「はい!」
料理人は顎を撫でた。
「卵と油と酢ねぇ。油と水気のあるもんは、普通に混ぜても分かれるぞ」
「……え?」
「酢と卵には水気がある。油とは馴染みにくいんだ」
「でも、ちゃんと混ざるはずなんですよ!」
「なら、混ぜ方に工夫がいるんだろうな」
料理人はしばらく考えた。
「卵黄だけ使って、油を少しずつ加えてみるか。いや、先に酸味を入れた方がいいかもしれんな」
健太は目を見開いた。
「それです!」
「何がだ?」
「そういう作り方なんですよ!」
「……お前、知ってたんじゃないのか?」
「知ってますよ! 確認しただけです!」
料理人は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
「まあ、試すことはできる。ただし、材料代と手間賃はもらうぞ」
「えっ、お金取るんですか?」
「当たり前だろ。こっちは仕事中なんだ」
「成功したら儲かるんですよ!?」
「儲かるかどうかもわからん話に、なんで俺が金を出すんだ?」
健太は口を閉じた。
まただ。
この世界の人間は、どうして目先の金のことしか考えないのだろう。
「……わかりました。いくらですか?」
料理人が告げた金額を聞いて、健太は固まった。
今の所持金では足りなかった。
「もっと安くなりません?」
「なら自分で作れ」
「いや、だから……」
「他の客の仕込みがある。頼むなら金を用意してから来てくれ」
健太は店を追い出された。
いや、少なくとも本人はそう感じていた。
* * *
五日目。
健太は商業ギルドの受付に立っていた。
「つまり、製造資金の援助をご希望ということですね?」
以前の眼鏡の女性が確認した。
「そうです! 絶対に売れる商品なんです!」
「試作品は完成しましたか?」
「まだです」
「製造方法は確立していますか?」
「それも、まだです」
「では、事業計画書はございますか?」
「……事業計画書?」
「必要な資金、製造費用、販売価格、想定顧客などをまとめたものです」
健太は呆れた。
「そんなの、作ってから考えればいいでしょう!」
「しかし、資金を融資するには、返済の見込みを確認する必要がございます」
「だから! 絶対に売れるって言ってるじゃないですか!」
声が大きくなった。
周囲の商人たちが振り返る。
受付の女性は、落ち着いた声で答えた。
「その根拠をお示しいただきたいのです」
「根拠?」
「はい」
「……俺のいた世界では、誰でも使ってました」
「それは興味深いお話ですね。では、製造技術をお持ちなのですね?」
「だから、それは料理人に作らせれば……!」
「その料理人との契約は?」
「……」
「製造費用の見積もりは?」
「…………」
「完成した商品の保存方法は?」
「………………」
女性は、さらに説明を続けた。
「卵を生のまま使用するのであれば、保存期間や食中毒の危険性も確認する必要がございます」
「食中毒?」
「はい。販売する食品ですので」
健太は思わず反論した。
「いや、マヨネーズって腐らないでしょ!」
「……腐らない?」
「だって、日本では普通に何か月も保存できましたよ!」
「保存のために、何か特別な工程があるのでしょうか?」
「……」
「容器は密閉するのですか?」
「……たぶん」
「温度管理は?」
「…………」
健太は黙り込んだ。
日本のスーパーに並んでいたマヨネーズ。
あれは常温で置かれていた。
だから、腐らない。
そう思っていた。
だが、なぜ腐らないのか。
どうやって製造されているのか。
開封後は冷蔵庫に入れる理由すら、考えたことがなかった。
「……そんな細かいことまで、必要なんですか?」
「食品を販売する以上、必要な確認です」
女性は淡々と答えた。
「当ギルドとしても、新しい商品は歓迎しております。しかし、製造できる見込みのないものに資金を提供することはできません」
健太は拳を握った。
悔しかった。
目の前に大金持ちになるチャンスがある。
それなのに、誰も理解してくれない。
「……もういいです」
「田中様?」
「こんなところに頼んだ俺が馬鹿でした」
健太は立ち上がった。
「完成したら、あんたたちには絶対に売ってやりませんから!」
そう言い残し、ギルドを飛び出した。
* * *
その日の夕方。
健太は市場の片隅で、一人の少年を見かけた。
年齢は十五歳ほどだろうか。
小さな屋台で、何やら白っぽい調味料を使った料理を販売している。
「……ん?」
健太は足を止めた。
少年は焼いた肉に、淡い黄色のソースをかけていた。
客が一口食べ、満足そうに頷く。
「うまいな、これ」
「ありがとうございます! 新しく考えたソースなんです」
健太は屋台へ近づいた。
「ちょっと、それ見せて」
「はい?」
「そのソース」
少年は小皿に少量を取り分けた。
「試食ですか? どうぞ」
健太は指先につけ、口に運んだ。
「…………!」
酸味。
油のまろやかさ。
卵の風味。
完全に同じではない。
だが、間違いなくマヨネーズに近い味だった。
「お、おい!」
「はい?」
「これ、誰が作った!?」
「僕ですけど……」
「どうやって!?」
少年は戸惑いながら答えた。
「卵黄に酢を混ぜて、油を少しずつ加えながらかき混ぜたんです。最初は分離しちゃったんですけど、何回か試していたらうまくいって」
「…………」
「まだ保存が難しいので、その日のうちに使い切るようにしてます。店長にも相談して、今は加熱した肉につけるソースとして試しているんです」
健太は言葉を失った。
どうして。
自分は五日間も苦労したのに。
この少年は、あっさり完成させている。
「……お前、転生者か?」
「え?」
「日本から来たのかって聞いてるんだよ!」
「ニホン……? いえ、生まれも育ちもこの街ですけど」
少年は不思議そうに首を傾げた。
「料理人の見習いをしています」
健太は歯を食いしばった。
おかしい。
こんなはずがない。
マヨネーズは、現代日本の知識がなければ作れないはずだ。
なのに、異世界の子供が。
「……誰かに教わったんだろ?」
「いえ。師匠に油と卵の扱い方は教わりましたけど、この組み合わせは自分で試しました」
「嘘だろ……」
「え?」
健太は少年の手を見た。
指先には、小さな火傷の跡があった。
爪の間には、落としきれていない汚れが残っている。
何度も失敗し、材料を無駄にし、師匠に叱られながらも試作を続けてきた手だった。
だが、健太にはそんな事情など関係なかった。
「……俺の方が先に考えてたのに」
「はい?」
「いや、なんでもない」
健太は踵を返した。
背後で、少年の明るい声が響く。
「ありがとうございました! また来てください!」
その声が、ひどく腹立たしかった。
* * *
夜。
健太は宿の部屋で、財布をひっくり返した。
机の上に転がったのは、銅貨数枚。
最初に持っていた銀貨五枚は、ほとんどなくなっていた。
宿代。
食事代。
材料代。
道具代。
掃除代。
気がつけば、何も残っていなかった。
「……クソ」
健太は呟いた。
「クソ、クソ、クソッ!」
机を叩く。
あの少年の顔が浮かんだ。
自分より年下。
自分より知識がないはずの人間。
それなのに、自分が作れなかったものを完成させていた。
「……たまたまだろ」
健太は自分に言い聞かせた。
「たまたま、運が良かっただけだ」
あんなもの、大したことはない。
マヨネーズなんて、現代日本では誰でも知っている。
もっとすごいものがある。
そうだ。
水車だ。
川の流れを利用して、機械を動かす。
製粉にも、木材の加工にも使える。
さらに蒸気機関を作れば、工場だって動かせる。
「……そうだよ」
健太の表情に、再び笑みが戻った。
「俺は、こんな小さな調味料で満足するような男じゃないんだ」
むしろ、今回は失敗して正解だった。
マヨネーズ程度では、自分の才能を十分に発揮できなかったのだ。
「次は産業革命だ……!」
健太は紙を取り出した。
『水車の作り方』
一、大きな丸い車輪を作る。
二、周囲に板をつける。
三、川に設置する。
四、水の力で回す。
「……よし」
完璧だった。
少なくとも、健太にはそう見えた。
問題は、材料と製作費。
そして、誰が作るのか。
「……まあ、その辺は職人に任せればいいか」
健太は欠伸をした。
今日は疲れた。
明日から本気を出せばいい。
布団に潜り込み、目を閉じる。
その日の夕食は、買えなかった。
腹が鳴った。
「……成功したら、毎日ステーキ食ってやる」
健太は呟いた。
そして、眠りについた。
自分が何を間違えたのか。
なぜ、あの少年にはできたことが、自分にはできなかったのか。
その理由を、一度も考えることなく。
* * *
同じ頃。
市場の料理店では、昼間の少年が師匠に報告していた。
「師匠! 今日、あのソースが全部売れました!」
「そうか。そいつは良かったな」
「でも、まだ分離しやすいんです。明日は油の量を少し変えてみようと思います」
「いい心がけだ。ただ、保存の問題もある。作り置きはするなよ」
「はい!」
少年は笑顔で頷いた。
そして、小さな手帳を開いた。
そこには、何十回もの試作記録が書き込まれていた。
使用した卵の量。
油の種類。
混ぜる順番。
失敗した理由。
次に試すこと。
少年は、その一つひとつを丁寧に書き留めていた。
「いつか、自分の店を持ちたいんです」
「なら、まだまだ勉強しねぇとな」
「はい!」
少年は嬉しそうに答えた。
彼は知らない。
自分が今日出会った男が、別の世界から来た人間だったことを。
その男が、自分と同じ調味料を作ろうとしていたことを。
そして、その男が、現代日本の知識を持っていることを。
ただ、少年には一つだけ、確かなことがあった。
知らないことがあれば、教わる。
できなければ、練習する。
失敗したら、原因を考える。
それだけだった。
一方、健太は布団の中で夢を見ていた。
自分が発明した水車によって、国中の人々が歓喜する夢を。
国王が頭を下げ、貴族令嬢が微笑み、莫大な金貨が積み上がる夢を。
そして、夢の中の健太は、得意げにこう言っていた。
「やっぱり俺は、天才なんだよ」
異世界生活、五日目。
田中健太、所持金はほぼゼロ。
収入、ゼロ。
発明品、ゼロ。
借金こそなかったが、明日の宿代を払える見込みもなかった。
それでも本人は、まだ確信していた。
自分は、成功するためにこの世界へ来たのだと。
ただ、世界は彼の成功を約束していない。
そして、彼が夢見ている産業革命にも、一つだけ大きな問題があった。
健太は、水車の構造を知らなかった。
知っているのは、ただ一つ。
水車は、水で回る。
それだけだった。
知識として知っていることと、実際に作れることは別の話です。
同じ材料を使いながらも、結果が大きく分かれてしまった二人。
その違いは、才能や特別な能力だけでは説明できないのかもしれません。




