魔海へ
鬼ヶ島に向けて、朝早く出発した船団は、正午過ぎに鬼ヶ島に到着する予定であった。春先の青く晴れ渡る空、凪の海、肌をなでる爽やかな海風、それが運んでくる無機質な潮の香り。出発直後こそ、航海は順調に思われたが、沖に進むにつれ、上空を霧が覆うようになった。ぼんやりとした太陽に照らされた海面に白波が立ち始めた。
「鬼ヶ島が近づいている証にござる。」
耳元から三寸法師の声が聞こえた。先頭を眺める桃吉郎の左肩に乗っている。先頭には浦島次郎の後ろ姿が見えた。その先では灰色の海原がうねっていた。
頭上に目を向ければ、次第に強くなる海風を受けて、帆が膨らんでいた。陸の近くでは櫂を漕いで推進することもできるが、基本は帆を操縦して、航海する。
「それにしてもなんで、あんな奴をつれてきたのだ。」
後方の看板の上では物ぐさ善太郎が寝そべって、酒を飲みながら、釣竿を海に垂らしている。あいかわらず、朝起きたばかりのような垂れ目にぼさぼさの頭髪、数カ月はそっていないだろう無精髭を生やしている。足軽の胴当てを装着して、長槍を持っているももの、これから戦に向かうという緊張感がまるでない。
「あいつは幼き頃からの友なんだよ。あいつを見ていると、少し安心するんだ。あそこまでは俺も酷くないって思えるからなのだろうか。まあ、何か役には立つだろう。」
「最初に鬼に捻りつぶされておしまいだ。」
善太郎の親父、物くさ太郎は、今でこそ、都の大富豪で、帝の血筋という噂もあるが、当時は信濃国に住んでおり、道端に竹四本を立て薦を掛けただけの粗末な小屋を建て、そこに働きもせず寝転がってばかりいるという大変な怠け者であったという。
あるとき物くさ太郎は人から餅を貰ったが、それを食わずに寝転がってもてあそんでいるうち、思わず手から離れて道まで転がってしまった。そこへ鷹狩に行く地頭の左衛門尉のぶよりが通りかかると、物くさ太郎は寝たままのぶよりに向かって、その餅を拾えと呼びかける。この物くさ太郎の様子にのぶよりは、腹が立つのを通り越して興味を覚え、飯や酒をやってこの男を養え、さもなくばこの土地から追放すると近隣の者に言い渡した。人々は実に理不尽な命令だと思いつつも、物くさ太郎に飯や酒を与え続けた。
それから三年後の春のこと、信濃国の国司が長夫と呼ばれる役割を与え、都に行かせる事になった。長夫とは、為政者が農民などに賦課した労働課役である。百姓たちはこの長夫を嫌がり相談の結果、物くさ太郎に行かせようと決めた。物くさ太郎に長夫に行くよう話をするが承知しない。そこで、都に行けばきれいな女がいてそれを妻にできるぞと言うと、それならと物くさ太郎は都へと向かうことにした。上洛した物ぐさ太郎は、人が変わったように働き、嫁ももらい、帝の前で歌を詠むようになったという。
善太郎も父の若いころのように怠け癖があるが、潜在能力はあるはず、大器晩成するだろうと、桃吉郎は信じていた。幼少期、悪太郎に虐められていたころは、巻き添えを食らうのが嫌で、周りの子供も離れて行ったが、善太郎だけは変わらず接してくれた。鈍感なだけかもしれないし、自分を守ってくれたわけでもないのだが、孤独感はまぎれたものだ。元服の後は桃吉郎に気を遣う輩が増えてきたが、建前を言うのも面倒がり、思ったことをそのまま口に出すのがまた、清々しかった。
「桃吉、女は連れてこなかったのか。むさくるしくてやってらんねーよ。」
「我慢しろ。鬼ヶ島に村の女たちがとらえられている。助け出せばきっと、好きな女を妻にできるぞ。」
「左様か。それなら、いっちょやってやるか。」
そうは言うものの、善太郎はあいかわらず、立ち上がろうとしない。釣竿を海から引き揚げて、その先っぽで、刀の手入れをしている柿兵衛のこめかみをつつき始めた。柿兵衛は、刀を振り上げて、脅した。
「切り刻むぞ、この雑魚が!」
善太郎は相変わらず、釣竿を揺らしている。
「どうぞ、どうぞ」
あきれた柿兵衛は館の中に潜ってしまった。
海上の視野がぼやけてくる中、岩でできた小さな島々がが時々見え隠れした。船は速度を落として進んでいるようだ。他の船はかろうじてこちらから見える範囲にはいるが、皆がどのように過ごしているかはわからない。兵力に余裕があるとはいえ、着岸後にすぐに襲われる可能性も考えると、今のうちに休んでおいた方が良いのかもしれない。半日の航海とは言え、慣れていないため、船酔いしそうである。あと二刻ほどはかかるであろうから、少し休眠することにした。
ほぼ予定通り、正午を少し回る頃に大きな島影が見えてきた。昼間だが、上空が霧で覆われているため、薄暗い。海面から波が消え、静まり返っているのが不気味に感じる。黒い岩が聳え立つ島の輪郭が迫ってくる。桃吉郎は、そこに待ち構えている光景を目にした時、血の気が引いていくのを感じた。




