十四話 天正四年一月 吉書始め
前倭の話で水田にはレンゲを植えて、畠に蚕豆を植える理由を説明忘れていてレンゲは有名として加古川と高砂は江戸時代に木綿栽培が盛んで夏は木綿を育て調べると裏作に冬でも育つ蚕豆が栽培されてたからです。
中世の時代の正月では吉書始めが行われ、吉書始めとは領主や代官の館に家来や村の長老たちが集められ祝宴を行い僧が紙に領主と百姓が守る内容が書かれていく。
内容は、領主と百姓は寺社を大切にする・領主は勧農に努める・百姓は年貢を納めるといった内容で僧が読み上げ、領地の繁栄を神仏に祈り、両者の責務を確かめ合い誓いのお神酒を酌み交わすこの行為が正月の書初めになったという。
正月には全国各地で吉書始めが行われ、村人が逃散し吉書始めが行われないと村が年貢を納めないという意味であったので領主にとって吉書始めは重要な儀式であった。
吉書始めも滞りなく進んだ天正四年一月五日の三木城では、別所長治と吉親と重宗の話し合いが行われていた。
「義兄上は何と返してきた?」
「儂が右大将に荻野との密談が知られているかもしれぬと忠告した時は驚いておったが、釘を刺しておいたから大丈夫であろう」
前年丹波攻略を命じられた惟任光秀は九月に丹波国に入り、丹波国衆の内藤と宇津を降し赤井と戦うことになる。
赤井家当主赤井忠家の叔父荻野直正が実質赤井家を取り仕切っており、但馬国の竹田城を攻めていたが光秀が赤井家を攻めると直正が丹波黒井城に戻ったところで光秀に黒井城を包囲されていた。
長治の妻の兄である波多野秀治は光秀に従い、黒井城を包囲している陣中に吉親が訪れ前年十一月四日に従三位権大納言に、七日に右近衛大将に補任された信長が直正と秀治が連携している可能性を疑っていると嘘を伝え、秀治が黒井城を包囲している光秀を裏切り攻囲が解かれないように釘を刺していた。
秀治は三好によって居城八上城が奪われていたが、直正の助力によって永禄九年二月奪い返したことで直正に大きな借りがあった。
「丹波のほうは問題はなさそうだが、義兄上が裏切った場合連絡だけはすぐ入るように手配だけはしておいてくれ。荒木殿に今年戦を行う許可を求めたが、保留なのは変わらぬからとりあえず軍備を整えいつでも動けるように待つだけだな」
信長との謁見で播磨国内での戦の許可を求めたが、荒木村重の許可があればよいということで村重に使者を送ったが時期や攻め込む場所が決まっていなかったこともあり許可が下りていなかった。
「義兄上が裏切らず、二月になり丹波の動きがないことを確認しないとどうにもできぬな」
波多野秀治が光秀を裏切ることなく黒井城を攻囲している状況が変わらず、播磨国内では大きな動きもなく二月になった。
明石川東側に新しく総構えの城を築くことになった地では、丹波から取り寄せた珪石を煉瓦に成形して高温で焼き上げ、炉を作ることに数ヵ月を要し5mの煙突を備え耐火煉瓦で造られた製鉄のための高炉が完成した。
今回の操業では問題がなければ3日を予定しており、九州から取り寄せた石炭を蒸し焼きしたコークスを使用し1日約2トンの銑鉄の製造を予定していた。
現代の製鉄では数年連続操業が行われることが普通だが、この時代の日本では粘土で作られた甑炉で鋳鉄が作られており1回の操業ごとに炉が補修されていた。
連続操業することで炉が冷えた時に炉壁が収縮することで破損するリスク抑え、鉄の大量生産を計画していた。
この時代の日本では鉄鉱石や砂鉄を使った甑炉や、砂鉄を使ったたたら炉で鉄が作られ年間生産量が全国で約3000トンとされている。
不純物の少ない砂鉄を使用し、低温で鉄を還元することで不純物の少ない良質のたたらで製鉄するほうが良いのだが、高炉で鉄鉱石を高温で還元する方法に比べ生産量が少ないことから高炉を備えた製鉄所が明石に造られた。
高炉からドロドロに溶けた鉄が出てきて3日間の操業は問題なく行われたが、操業後3日経って十分に冷えた炉の内部点検を行うと、複数の破損個所があり修復と補強に時間を要することになり次の操業まで一月ほどかかることになった。
作られた銑鉄は鉄鉱石に含まれるリンやコークスに含まれる硫黄によって品質はたたら炉で作られた鉄よりも不純物が多く品質は良くないが、鍛造して不純物を抜くことで農工具など大きな力がかからないものについては問題なく使用できた。
「これほど大量の鉄が作れるとは、稲美様ぜひとも正直屋で取り扱わせていただけないでしょうか?」
「正直屋だけで商わせる気はないが、今回は3日の操業でこれだけの鉄ができた。次は数か月の操業をかんがえているから、さらに多くの鉄が安く手に入るぞ」
鉄鉱石や石炭の入手には兵庫津の豪商正直屋棰井が取り扱っており、今回生産された鉄の多くは東播磨で消費されるが次回生産分の何割かが正直屋によって商うことが決まる。
(それにしても大分と栃木に派遣した子供たちは帰ってこなかったな。鉱床が見つからなくても、定期的に帰ってくるように言っとくべきだったな)
円光寺の住所訓示進められた子供たちの何人かはこの時代まだ何の価値があるかわからないものの探索などを命じ、大分県である豊前国と栃木県である下野国に派遣していた。
高炉で作られた鉄は鉄鉱石の還元に使ったコークスの炭素が鉄と混じり炭素含有量の多い銑鉄となり固く脆い鉄であるが、転炉を作り空気を吹き込むことで炭素を鉄と反応させる転炉を作ろうとしていたのだがリンを含有している鉄鉱石を使用しているので脱リンする必要があり酸化カルシウムや酸化マグネシウムを含んだ耐火煉瓦を作る必要があった。
去年の秋に伐採され水分が抜かれた木を1mの長さに切断した椎茸栽培用の木材に年明けから菌糸を植え付け椎茸の原木栽培の準備や、秋まきの大麦や小麦の栽培で鎮圧ローラの導入など農作業の準備も整え。
灌漑水路の新設によって畠から田へ転換できる土地を増やしたり、手押しポンプによって耕作地の大きな転換が去年の秋から別所家では進んでいたが一番大きな転換点は道路の整備だった。
東播磨では街道の新しい整備方法として明治時代に生野銀山と姫路の飾磨港を繋ぐ街道を整備したマカダム補装を導入していた。
雨が多く車輪を使うと轍で立ち往生することから日本では京や鎌倉の一部の地域以外では車輪を使った輸送が使われていなかったが、明治時代になるとフランス人技師ジャン=フランソワ・コワニェの提案によって市川沿いがマカダム補装され銀鉱石を積んだ馬車が往来するようになった。
マカダム補装は4ch程度の砕石を敷き詰め、隙間に小さな砕石を入れ重量のあるローラーで圧し固め、自動車が普及するまでは各地で行われた舗装方法であった。
馬や牛の背に荷物を載せて運搬するには100kgの荷物を1日10km程度移動する程度であったが、荷車が使えることによって数倍の荷物を1日20km以上は輸送できるようになり運搬効率が数倍になった。
三木の城下町と兵庫津の街道を優先して工事を行い、2月には街道の整備が完了し今では毎日大量の物資が兵庫津から三木に運ばれていく。
兵庫津から運ばれる荷の多くは石灰で各地から運ばれてきた石灰が兵庫津に運ばれ、牛に牽かせた荷車に石灰が詰まれ三木に向かいそれから東播磨各地の農村に運ばれていく。
石灰は田畠に使われる予定で、1反あたり100kg程度使用する予定なので大量に輸送されていた。
三月になると丹波の黒井城を囲んでいた惟任光秀が、黒井城を攻略し荻野直正が腹を切り開城したと三木城にも連絡が伝わり歴史が大きく動いた瞬間でもあった。
コークスは漢字で書くと骸炭。
高炉は中国では紀元前からあり西ヨーロッパでも初めて登場したのが14世紀半ばとかで15世紀で高さ4.5m程度で1昼夜で1.6トン程度の銑鉄を生産していました。
高炉は煙突を高くすることで空気の流入量が増え高温になり、たたら製鉄に比べ鉄のコストは安くなります。
製鉄にかかる費用の6割以上が炭で木炭から石炭に変わったことで大きくコスト低下しますが、石炭に含まれる硫黄分で品質的には木炭よりも劣ります。
鉄鉱石に含まれるリンがあることで転炉で鋼を作れるようになっても鋳造で作られた鋼は強度の低い鋼で、鉄鉱石に含まれるリンが少ない産地の鉄鉱石が必要でした。日本では東北の釜石がリンの少ない鉄鉱石で有名です。
リンをどうやって除去するとかというと、酸化マグネシウムや酸化カルシウムなどが含まれた耐火煉瓦で転炉を作ると脱リンができ釜石以外の鉄鉱石を使う場合はこれらの耐火煉瓦の開発が必要だったりします。
大分と栃木に鉱床があったりします。
他にリンの少ない砂鉄を使い、たたら製鉄で作ったリンの少ない鉄を転炉で鋼にする方法もあります。
たたら製鉄は1トンの鉄を生産するのに炉を作り操業して炉が冷えるまでで、だいだい1週間程度で高炉と比べて生産力が大きく落ち、ヨーロッパで初期に造られた高炉でも10倍程度の差があります。
石灰は全国各地に鉱床があり、明治時代頃は三重県が生産量が多かったりしますが機械化された現代だと大きな鉱床で採掘されるので歴史作品では伊吹山にこだわりますが人力の時代は他でも普通に採れます。
兵庫県の場合は石灰工場が明治時代に神戸に初めて作られたときは、徳島県阿南市黒津地町で採掘された物だったりします。




