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十三話 天正三年十月 再上洛

街道の名前って入れるかどうかで正直悩むんですよね、この時代は目的地の名前が街道であって反対側からは別の名前になりますし、複数の道が全て同じ名前だったりして判別なんてできない問題があります。

播磨から京に向かう道は摂津経由でも丹波経由でも京街道と呼び、近江や紀伊から京に向かう道も京街道で判別なんてできず、山陽道が現代の国道2号線といったような固有名称がないんです。

京から播磨に向かうと同じ道でも播磨街道になり、但馬が目的地なら但馬街道になり訳が分からなくなります。

なので昔は街道名ではなく、経由した宿場町や城や村が記録に残す形でした。

 高砂で数日滞在してから加古川を船で渡り、稲美の台地にある家に帰る。

 加古川は丹波と但馬の国境にある粟鹿山に水源があり兵庫県最長の緩やかな流れの河川で、闘龍灘などの岩場の地点が多くあり文禄三年(1594年)になるまで加古川には上流と河口を繋ぐ船運は無く橋がないため船の渡し場は複数あった。


 家の周りには高さ3m厚さ50cmほどの壁で囲われ、壁の中には家と小さな砦があり30人ほどの足軽が滞在している。

 「殿お帰りなさいませ、周囲から集まってきた者達を使い池の築造のほうも順調です」

 「わかった。堀君、引き続き訓練と池の築造を頼む」

 家臣として子供たちを雇ったが、この時代の文章に慣れていない大輔では子供たちに対して教育や実務的なことを教えれないので領主の経験があり流浪の人材を探していたが、そんな都合のいい人材がいるわけもなく数日過ぎていたある日、任官希望で屋敷に来た若い武士と話すと部下の失態で領地を没収され追放されたと言う。

 「とりあえずうちで働いてみるか?」と仮採用したのだが、子供たちの教育や実務も問題なくできていたので正式に一族含めて家臣として50貫で雇うことになった。

 子供達や新しく雇った足軽たちは1人5貫で雇い、人件費だけで年間300貫近い支出となっているが役高の増額もあり対処することはできていたが領地は入植がまだ行われていないので年貢収入はなかった。

 池は北にある草谷川から水を引き加古大池のあった地に複数の池を数ヵ年計画で築造する予定で、最初のため池築造が行われていた。


 堀君の名は堀秀村で北近江の浅井家に仕えていたが父親が亡くなったことで秀村が幼少時に家督を継ぎ、浅井家が織田家と敵対すると秀村15歳の元亀元年(1570年)に信長に降り、木下藤吉郎秀吉の与力として従軍し浅井家が城に籠るようになると坂田郡の半分以上を支配していき与力の立場であったが秀吉よりも力を持っていた。

 天正二年初めに一向宗が蜂起したことで混乱した越前に対して信長は木ノ芽峠を防衛線として秀吉に守らせていたが、堀秀村家老の樋口直房が八月に木ノ芽峠の城から出奔したことで秀村も連帯責任として所領を没収され織田家から追放処分を受けることになり任官先を求めて三木の町にいたところで大輔と出会うこととなった。


 家に入り大輔を出迎える女性がおり、大輔が10日ほど前に婚姻を結んだ秀村の妹で名を千といい、子持ちの17歳であったが兄秀村が追放処分を受けた時に嫁ぎ先から離縁され秀村が任官したことで播磨に来たのだが、幼い子供を養っていくためにも後ろ盾を欲した状況で大輔を篭絡して既成事実を結び、素人童貞の大輔は舞い上がりこのチャンスを逃すまいと即婚姻となった。

 大輔の婚姻に当初反対していた別所家の面々も大輔が譲らないことから認めることとなり、千と連れ後の与作と暮らすことになった。


 「ただいま。与作帰ったぞ、ぱぱでちゅよ」

 血の繋がりはないが我が子として大輔は与作をかわいがっていた。

 「旦那様、与作は寝ているので起こしては駄目ですよ。明日からまた仕事に出ていかれるのですか?」

 「当分は家にいようと思う。秋に植える農作物の準備もあるから、それらの段取りかな」

 それから数日はため池工事に顔を出し、作業改善できる点などを探す日々が続いた。





 一月ほど経った天正三年十月二十日(1575年11月22日)の京では、織田信長に謁見するために播磨国の者達が上洛していた。

 東播磨を支配する別所長治をはじめ、御着城主小寺政職や龍野城主赤松広秀などが同席していた。

 長治が上座に座る信長に対して、別所家の献上品を説明する。

 「別所家からは精銭100貫文・銀10枚・梅酒・しゃぼん・鏡を献上いたします」


 信長の撰銭令によって銭の価値が乱高下した影響で質の悪い銭が信長おひざ元の美濃に集まることになり、

信長の支配地では精銭が不足していたので100貫文(10万枚)は大きな価値があった。


 銀10枚とは銀1両が4匁3分(16.1グラム)とされ、10両を1枚の薄く伸ばした板状にした物が贈答などに使われ銀1枚は43匁(161グラム)となり、金1両は天文二年(1533)年ごろから4匁4分とされ金と銀で両に1分の違いがあった。


 室町時代には京では多くの清酒が作られ、清酒を献上しても効果が薄いことを考え大輔秘蔵の梅酒を献上することにした。

 蒸留酒が琉球などから少量入ってくる時代では数年貯蔵された古酒は腐敗しなかったことから上質の酒とされいつから梅酒が日本で作られていたかは不明だが、長治は「梅を砂糖を多く使い酒精の強い蒸留酒に数年漬けた貴重な薬種」と説明する。


 鏡は銅などの金属の板をするまで磨き上げたものだったが、1291年のベネツィアではガラス製造の窯をムラノ島に移し、鏡職人たちを島で囲い技術の流出を防ぎ逃亡した者は死刑とした。

 当時の鏡は板状にしたソーダガラスを平坦になるように研磨し、水銀に錫を溶かしてガラスに塗布して水銀は常温で蒸発することを利用した水銀アマルガム法が使われ室町時代には日本にもポルトガル人を通して鏡が入ってくるようになった。


 日本でのガラスの製法は中国から奈良時代頃に伝わり各地で鉛を使用した鉛ガラスが作られ、ペルシャなどで作られた炭酸ナトリウムを使用した強度のあるソーダガラスは瑠璃と呼ばれ交易品として入ってきてはいたが国内で作られるようになるのは明治時代からだった。

 奈良時代に作られた東大寺の大仏はできた当時は金色に輝いており、水銀に金を混ぜた水銀アマルガム法が利用されていた。


 珪砂・石灰を細かく砕いて炭酸ナトリウムを混ぜ高温で溶かし、亜鉛を溶融させた炉に溶けたガラスを流すと板ガラスができ、水銀に銀を溶かして塗布させて鏡を作り出していた。


 「此度の献上品は見事なものよ、褒美は何を望む」

 信長に対する献上品として国内からは鷹や馬といった動物や金銀などの貴金属が送られることが多かったが、海外の宣教師などからしか石鹸や鏡といった加工品の入手が難しかった。


 「尾張守様に従わず、此度の上洛にも応じなかった播磨の国人どもを征伐する許可を頂きたい。浦上が宇喜多に敗れた今、播磨国内には我が別所家の様に尾張守様に従う者達と宇喜多と誼を通じる者達とに分かれております」

 「播磨については荒木に任しておる、戦をするのであれば荒木と談議せい」




 信長との謁見が終わり宿に向かう途中で小寺政職が長治に尋ねる。

 「先ほどの献上の品は見事でしたが、あの品も東播磨総奉行殿が関わっているのですか?」

 「鏡の製法は稲美が知っておってな、稲美は石鹸と言うがしゃぼんの製法も奴が知っておったのよ」

 「博識な方なのですな、話は変わりますが戦はどこに攻め込むつもりだったので?」

 「まだどこに攻め込むかは決まっておらなんだが、来年の二月を予定しておった。戦に関しては荒木殿に相談することにする」

 長治は丹波攻めを行っている惟任(明智)光秀に与力として従っている義兄上の波多野秀治が来年1月に光秀を裏切ることを防ぎ、歴史改変を行いその後播磨国統一に向けて動こうとしたが信長から播磨切り取り次第の許可がもらえなかったことで悩んでいた。


 足利義昭が将軍に就任すると摂津には池田勝正・伊丹忠親・和田惟正の3人が守護となり、荒木村重は池田氏の家臣であったが池田家の内紛で地位を高め池田氏の実質的支配者となる。

 村重は和田惟正と対立し三好三人衆と誼を通じ永禄十二年八月二十八日(1569年10月8日)郡山の戦いで和田軍を破り、惟正は討ち死にした。

 義昭と信長が対立する中で村重は信長に味方し、伊丹忠親は義昭に味方し元亀四年三月七日(1573年3月7日)信長に攻められ賀島城を開城し、再び信長に反抗したことで翌天正二年十一月十五日伊丹城を開城する。

 村重は伊丹城を有岡城と改名し有岡城を居城として大改築を行い城下町を壁で囲う総構えとし、信長から大坂本願寺を除く摂津の一職支配者としての地位を得る。

 天正三年八月に織田家で越前征伐が行われていた時は宇喜多と戦う浦上に兵糧を送るなど西の備えとなり、9月には播磨国から人質を集めるなど播磨衆の後ろ盾となる立場でもあった。




 長治が上洛している頃、東播磨では稲や麦といった夏に育った作物の収穫も終わり、冬に育てる裏作の準備が進められていた。

 今冬の裏作では麦の代わりに水田ではレンゲを、畠では蚕豆(そらまめ)を育てることを別所家では推奨されていた。

 マメ科植物を育てることで根粒菌の働きによって窒素を地中に蓄え、来春に向けて土地の自力回復を計画していた。

 一部の村では博多から取り寄せた鶏・家鴨(あひる)・豚といった家畜を育てており、食べる目的ではなく糞を発酵させ肥料とする目的のため数を増やすことを優先していた。


 大輔の畠で七月に作付けされた蕎麦の収穫も終わり畠でも蚕豆が撒かれ、近隣の村に六条大麦のシュンライの作付けを頼み家ではこの秋に玉ねぎ・ニンニク・じゃがいもを育てている。

 じゃがいもは面積当たりの反収が多い作物だが、1つの種や種芋から増える指数を表す収穫倍率は米や麦に比べ小さく温暖なこの地では10倍程度で、救荒作物として育てるには時間を要した。

 じゃがいもは密に種芋を植えることで採れる芋は小さくなるが、数が取れるので次に採れる種芋を増やす目的で密集して植えていた。


 「この羽毛布団というのは良いですね、暖かく冬の寒さを感じませんが朝起きるのが辛いですね」

 「寒くなってきたから羽毛布団を出したけど、起きるのが本当厳しくなってたよ」

 この時代は稲などの藁で編まれた筵が布団代わりに使われ、木の板の上に筵を使って寝ていた。

 上流階級では畳の上で寝たり、木綿の綿を詰めた敷布団や寝るときに着る夜着などもあったが木綿の栽培が普及していないので一部の人たちが使用するだけであった。

 羽毛布団を作るために来春から合鴨農法を実施するため家鴨を購入していたのだが、人力による完全除草に比べ収穫量が落ちる合鴨農法に難色を示した長治に親父の羽毛布団を譲り今秋から使用させることで合鴨農法の奨励も許可をもらった。

明治時代になるまでの人間の名前って結構適当で、後世の現代に残っているものには複数名前があったりします。

読み方なんかは家系図にフリガナが降っている場合もあるらしいですが、フリガナがない場合は違う読み方が複数あったりで正解が実際にはわからなかったりします。

特に女性なんて家系図にも載ってなかったりで何人子供がいたかなんてわからず、名前もほとんどが創作です。

信長の正室の斎藤道三の娘も、江戸時代前期に書かれた美濃国諸旧記に帰蝶と名前があることで広まっていますが、創作の軍記物で道三の娘の本当の名なんてわからないけど皆がわかりやすいように帰蝶とか濃姫なんて名が使われているだけってことを知るべきで名前なんて作者が適当に付ければいいと思います。

千という名前は私が学生時代に好きだったゲーム由来です。

側室の吉乃も生駒家文書だと類になるので、実際の名なんてなんでもいいんですよ。


堀秀村は坂田郡で今井氏と争っており、今井氏が磯野に従って佐和山上に籠ると周辺を制圧していき浅井が滅ぶまでは与力の立場ながら秀吉よりも支配地が多かったとされ約10万石の領地があったとされます。

追放された後の消息は不明で偽書扱いされている武功夜話によると、秀吉の下で千石のみぶんでつかえたとさています。

重修譜にある堀存村と同一人物だとすると、羽柴秀長に仕え慶長四年に亡くなったとこになりますが実際追放されてからは不明な人物ですが、家老の樋口が取り仕切っていた可能性はありますが10万石近い領地まで拡大させたのは本人か家臣が有能だったとは思います。

なぜ堀を登場させたかというと、浅井が滅び近江北三郡が丸々秀吉の支配下になったと思っている人が多いので、信長と秀吉が堀を追放して秀吉の力が強くなったと説明するためでもあります。


金は古くから贈答用に使われていて、銀は灰吹き法が伝わってから産銀量が増えて中国地方から京に銀が献金として贈られるようになります。

但馬の山名韶煕あきひろで一般的に祐豊で通っている人物が、天文23年に銀300両、弘治2年に銀200両を朝廷に献上していたり、毛利が石見銀山の代官を願い出る形で朝廷や幕府に銀を献上するようになると、畿内でも銀が価値を持って流通します。

九州では1540年代には年貢や貿易の決済などに銀が使われた記録があったりで貨幣代わりに利用されていて、伊勢では1560年代後半に銀で取引の記録があったりします。

現代の歴史では京などの取引では1560年代までは銭が使われ、70年代に米で80年代に銀とされますが、1570年第初めに貴族が銀で薬を買う記録が残っていたりと定説よりも早い段階で銀は貨幣代わりに使われていました。

60年代に銀が畿内に流通する量が増えたのは明の解禁政策の影響もあるとされていて、いつから銀が貨幣価値があったかというのは難しい問題だったりします。

朝倉氏が滅んだ天正元年の越前では信長が越前に所領を持っていた武士や寺社に対して所領安堵を認める代わりに金を要求しますが、当時の越前では金があまり流通していなかったのか銭で金を買うなどして用意したとされています。


清酒に関しては室町時代に普通にあり、この時代の少し前に信長が燃やした百済寺なんかも有名だったりします。

室町時代だと柔らかく加工のしやすい柳の桶に入れられた酒や柳酒屋もあり、柳が酒の意味として使われていたりします。


鏡に関しては初めは錫が使われ後に銀も使われるようになり、水銀に錫や銀を混ぜてガラスに塗布すると水銀が蒸発して錫や銀が残り鏡が出来上がりますが、蒸発するまでに時間がかかり量産に向かないことや水銀の毒性から現代では使われていません。


じゃがいも温暖な本州だと10倍程度で北海道など寒冷地だと20~30倍程度種芋から増えるそうですが、密集して植えることで出来る芋は小さくなりますが数が採れるそうです。

花も咲き種も採れ、種から育てることもできますが種から育てると小さく食用に向かず、3年ほどかけて少しずつ大きくしていく必要があるそうでスペインがフィリピンを支配していた寺1570年代には東南アジアにはあったが芋が種で運搬していてできた芋が小さかったから日本では育てられなかったのではないかと個人的には思っていたりします。

フリント種のトウモロコシもこの時代に入ってきます。


玉ねぎは江戸時代に入ってきたとされ、本格的に栽培されるのは明治からで神戸の今井作兵衛が明治6年ごろに研究し始め、アメリカからイエローダンバースが導入されました。

大正12年ごろに大阪の古淵健蔵から導入した品種を選抜淘汰して多収で貯蔵性の高い淡路中甲高が生まれ、淡路中甲高を交雑させて品種改良が行われ現在の淡路玉ねぎが出来上がり現代はほとんどが1代限りのF1品種だったりします。


畜産をしていない日本で動物の値段は正直わからないですが、牛は百年ぐらい前の文明十四年(1482年)の奈良で1頭銭1貫文。

16世紀末の交易価格では中国マカオで雌牛1頭銀40匁。

豚は中国広東で1頭銀15匁、マカオで20~30匁。

雌鶏は広東で60kg銀20匁。

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