十二話 天正三年八月二十九日
説明が長すぎるけど、たぶん地元の人でもほとんどの人が知らないことが多いから外すか悩む
天正三年八月二十九日、西暦に換算すれば1575年10月3日。
現代の1年は365日で4年に一度訪れる2月に29日を入れて調整をするが、旧暦では新月の日を月の初めと考え新月の日が毎月1日とされた。
新月から次の新月までの間隔が29.5日で1年が12ヶ月だと354日となり、現代と12日の誤差が生じるが閏月を入れて調整していた。
新月の明日が九月一日なので、八月二十九日が八月の最終日で各地で春に田植えが行われた水田では稲刈りが本格化していた。
天正三年七月も二十九日までしかなかったが、暦を気にする余裕もなく動き回っていた大輔にとって慣れない二十九日で終わる八月。
日本では古くから稲作が行わてきたが、室町時代の頃には同じ村内であっても収穫時期をずらす目的や早生・中生・晩生といった成長速度の違う品種の稲を植えたり、稲の病気対策のために多数の品種の稲を植えていた。
早く育つ早生では早い年では七月中旬から稲刈りが始り、機械化されてない時代の農作業では稲刈りと田植えが人手を要する作業であった。
刈られた稲がはさ掛けされ、稲から籾を採る脱穀が行われ以前であれば扱き箸で1日12束程度であったが、今年から販売された足踏み式脱穀機を利用できたところでは1時間に250束の脱穀処理ができた。
脱穀処理された籾は土臼で玄米にされ商人に売られていくが、今年収穫された多くの玄米が商人を介して別所家に買われていった。
商人を介さず別所家が直接農村から買い上げる案もあったが、商人の仕事を奪うこととなる点を考慮して商人を介して買うことが決まり別所家の各地の城では収穫された米俵が倉に収められていった。
多くの人出を必要とする作業が道具の発達によって短縮された百姓たちは、空いた時間に冬に育てる作物の準備や街道の整備・ため池や建築工事の人夫として1日5文と2合の握り飯で各地で働くことになっていた。
江戸時代の播磨では百姓たちを使役するのに、1日7合の米を支給していたので対価としては江戸時代よりも2倍程度高いが作り出した精銭を市場に流す目的もあって多い目に銭を支払うことにしていた。
各地で稲刈りが行われる時期に播磨総奉行となった大輔は三木城から1日ほどの距離にある摂津の兵庫津に来ていた。
兵庫津は奈良時代の高僧行基が整備した摂播五泊の1つで大和田泊で、明石海峡の東側にあり干満の差によって数時間おきに潮流が変化するため瀬戸内の入り口として古くから港として栄えてきた。
平安時代では平清盛が、室町時代には足利義満が海外との交易拠点とするために整備されてきたが、応仁の乱によって港としての地位はこの時代は堺に奪われることとなった。
播磨の港は遠浅の海岸が多く喫水の深い大きな船は寄港が難しいが、水深の深い兵庫津では大型船も桟橋に横付けでき物資の搬出入も問題なく行われ、三木の町で作られた産物は陸路を通り兵庫津に運ばれていく。
大輔が今日の目的地である1軒の商家に向かう。
「これはこれは稲美様、お久しぶりでございます。以前教えて頂いた石炭は非常に良い品となっております。今日はまた何か良い品でもありましたか?」
「それは良かったです、九州の石炭も早く探索をお願いします。今日は船を南蛮に向かわせたいと思いましてな、正直屋で調達ができないか思ってきました」
商家は正直屋棰井で、棰井家は兵庫津の豪商として三好長慶に特権を与えられ、豊臣秀吉の治世では豊臣家直轄領の村や町で徴税を行うなど兵庫津で大きな権限を有する豪商で製鉄に使う九州の石炭採掘も正直屋に依頼していた。
大輔がパソコンに保存されていた世界地図の東南アジア地域が載っている部分だけを移した紙を棰井の前に差し出し。
「ここにルソン島という地があり、フィリピナスと呼ばれているのだがここに船を出したい」
「これは精巧な地図ですな、これは頂いてもいいのですかな?」
「それはやってもいいが、船は出せるか?」
「出そうと思えば出せますが、利がなければ出せません。ここには一体何があるんです?」
「ここは大量の砂金が採れるので金が安く銀が高く、唐国の商人たちも集まるから唐国の産物もここに集まり。長崎にいるポルトガル人とは違う南蛮の国から来たスペイン人が支配する町で、他にも砂糖や香辛料など多くの交易品が揃っている」
「金ですか、唐国の商人が集まるということは生糸に焼き物もありそうですな」
この時代のフィリピンはスペインの支配下にありフェリペ2世にちなんだラス・イスラス・フィリピナスと命名され、南米アカプルコから出た船が貿易風に乗り西に向かうとルソン島に着き、ルソン島のマニラ市では中国の商人たちが銀を目当てに生糸や陶磁器を売り払い銀を得て、スペインの商人たちは中国の生糸や陶磁器を積んで北東に向かい北緯38度付近まで北上すると偏西風の風をつかまえると東に向かいカリフォルニアのメンドシノ岬付近にたどり着くことができ年に2~4隻の船が船団を組んでアカプルコ・フィリピン・カリフォルニアの三角貿易を行っていた。
フィリピンでは大量の砂金が採れマニラでの金銀比価は1:2.5で金が安く銀が高かった。日本では1:7.5で、中国広東では1:5.4でフィリピンに比べ金が高く銀が安かった。
「ですが何を積んで行けばよろしいので?」
「銀を多めに小麦が螺鈿細工がいいだろう、彼らも銀を積んで交易をしているので低くみられるだろうが唐の商人たちが必要としているので大きくこの国よりは高く売れる。我らと違って南蛮人は小麦を粉にしてパンにしたものが主食で、周辺では良質の小麦が採れないから小麦も持っていけば売れるだろう。南蛮の本国では金や貝殻で装飾した螺鈿細工が高貴な者達に高く売れるから、彼らの好みに合わせた物を作れば高値で売れるだろう」
「素晴らしい情報をありがとうございます。私が知らない南蛮の情報に感謝しますよ」
「船は嵐の少ない十月を過ぎて、翌年の春ぐらいまでにしたほうがいい。準備ができればこちらの積み荷を持って行ってもらう」
「わかりました。船の準備ができればルソン島に船を出しましょう」
江戸時代初期までの日本では金を中国などから輸入しており、金の安いフィリピンに船を送り直接買い日本で売ることで3倍程度の利益があり他に利益率の高い黒砂糖などや来年の梅酒を漬けるための砂糖の買い付けも考えていた。
しかし本命は鉛の入手先を考えていた。
16世紀末の日本では銀などの貴金属の精錬用を主目的として、他に火縄銃の弾として大量の鉛が輸入されており年に120トン以上もの鉛がポルトガル人によって輸入されていた。
鉛はタイのソントー鉱山で多く産出されていたが、シャムよりも近いフィリピンを中継貿易拠点として利用できるならば時間の節約ができるので正直屋に依頼する形となった。
翌朝、泊まっていた宿を西に向けて出発すると、明石川東岸に昼頃に到着する。
この地は現在はJR山陽線の明石駅のある位置で、駅のホームからは明石城の城壁が見えるので明石に来たことがあれば見たことがある人も多い地域だ。
この時代の明石城は現在の明石城からみて明石川の対岸で北西にあった明石氏が居城とする枝吉城が明石城と言われ、その後は豊臣秀吉の治世で高山右近が築造した船上城が明石城と言われ、江戸時代に小笠原忠真が明石藩主となって築造された明石城が現代も残る明石城で、明石城と呼ばれる城は時代によって位置が変わる城であった。
ここでは現代に残る明石城を参考に築城が行われ、海岸線を整備して喫水の深い船も入港できるように港湾の整備や小規模な高炉を備えた製鉄所の建設も進められていた。
明石城のすぐ先には淡路島がありその距離は5kmにも満たず、この地に城を築くことで海峡の監視と三木城への物資の搬入経路して整備されることが決まり、今はまだ城の位置などを決める縄張りが行われていた。
瀬戸内では1日に数回潮の流れが変わり、それに合わせて船は航行をしていた。潮流の速い海域では時速20kmを超えるところもあり、明石海峡も流れが速く海峡を通過できる時間帯が決まっているので海峡を通過する拠点として明石城の築城が進められていた。
建設予定の製鉄所は縄張りもまだ先で、高炉に使う耐火煉瓦が資材置き場に積み上げられている状況で、港や城の築造に使われる石材は高砂の竜山から運搬して置いてある状況だった。
明石の前に広がる海は鹿の瀬と呼ばれる豊かな漁場で水深が5~50mと浅く魚介類の産卵場所として古くから漁業が盛んな地域として有名で、現代では海苔の生産量全国2位の兵庫県の海苔も明石海峡周辺で主に作られている。
昼からタコやタイといった新鮮な魚介類を肴に酒を飲んだ翌日は船で高砂に向かう。
高砂は加古川河口の西側に位置する地で、梶原景秀が居城とする高砂城があり今回の目的は城から近い荒井が目的地であった。
「播磨総奉行殿、その名に恥じぬ働きぶりですな。初め聞いた時はどこの者かと思っておりましたが、総奉行殿の作られた装置で以前とは比べることなどできぬほどの塩ができております」
「それは良かったです、大量に生産しているので一時的に値は下がるかもしれませんが気にせずどんどん作ってください」
高砂城主梶原景秀は大輔が視察目的で荒井にいると知ると、急ぎ荒井にやって来た。
この時代の製塩は満潮時に海水の浸からない位置に塩田を造り、塩田の上に砂を敷いて海水を塩田に撒き、水分が蒸発して塩分が砂に付着するので海水を撒いた砂を集め海水を注いで塩分濃度の高い鹹水を作り、鹹水を鍋などで煮詰める煎熬作業を行い塩を作っていた。
江戸時代に入ると干潮差を利用した入浜式製塩が普及し、海に防潮堤を作り満潮と干潮の中間の高さにに塩田が作られ満潮の時に防潮堤を開くと塩田に海水が染み込み、水分が飛んで塩分の含まれた砂を揚げ浜式製塩と同じように煎熬作業を行っていた。
海水の圧力に耐える防潮堤を作る技術が江戸時代以前では難しく、防潮堤を作る初期投資が大きいことから労力の負担が大きいが揚げ浜式塩田がこの時代は一般的であった。
製塩業は1軒4反歩から専業が可能になり、入浜式塩田が普及する以前の揚げ浜式塩田では兼業で製塩業が行われていた。
江戸時代の赤穂では製塩先進地域であった姫路の大塩や的方の塩業者の移住を進め、塩田200町歩の生産量が33万石になっていた。
しかし今回導入した製塩は青銅で作られた手押しポンプで海水を汲み上げ、汲み上げた海水を竹などで作った枝条架を流れると水分が蒸発して入浜式塩田よりも労力が少なく大量の塩が作れる流下式枝条架塩田であった。
錆びやすい鉄ではなく、青銅を使用することで錆による腐食を防止して銅の働きによりフジツボなどの貝類が付着することも防止する。
荒井は製塩の産地で承応元年(1652年)江戸に入った塩船230艘の内、荒井の船は100艘であったが複数の要因により塩の生産量が低下し塩田が減り製塩業の中心は大塩や的方といった地域に移っていった。
いずれ塩の生産が難しくなるかもしれないが、この時代においては製塩の盛んな荒井でさらなる塩の増産を行っていた。
兵庫津は以前は応仁の乱によって荒廃したとされていましたが、近年の研究ではそこまで荒廃していなかったのではないかとされています。
応仁の乱によって兵庫津が燃えた結果、堺の地位が上昇していきました。
百姓に米7合支給というのは江戸時代にため池などを作るときに、稲美町の歴史を調べた時に載っていました。
瀬戸内海は瀬戸内何だろうかと思いつつ、1日に4回潮流が変わりそれに合わせて行基が摂播五泊を作りますが当寺の船が1日で移動できる距離に港を作ったそうです。
三木合戦の時に別所吉親がこもる城は船上城で高山右近の城とは別です。
正直屋って変わった屋号ですが実在していて、秀吉の治世初期は商人たちが直轄地や町の徴税を行っていて五奉行などの官僚が充実してくると武士が管理するようになっていきます。
スペインが南米で銀を採掘していたってのは有名だけど、生産量が増えていくのが1575年ぐらいから出1560年代ぐらいは人手不足であまり採掘されてなかったりしますが、ほとんどの人がこの辺のこと調べないですよね。
スペインとポルトガルはこの時代は縄張り争いでもめていて、出会えば戦い拿捕したり捕虜に取ったりする敵同士です。
ポルトガルはイエズス会でスペインはフランシスコ会やドミニコ会などでスペインが日本に来るのは史実では1584年です。
日本はポルトガルの縄張りだったのでイエズス会が布教をしていて、マカオと長崎間のポルトガル船に対してイエズス会が関船を受け取り、積み荷の極一部がイエズス会のもので運んできた商品を宣教師たちに口利きして手に入れるために九州の大名たちがキリスト教になっていったりします。
真珠の世界史という本にあったのですが、スペインはベネズエラなどで真珠採取をしていて現地人をかなり酷使して真珠を手に入れますが、ポルトガルは真珠の入手ルートがなく日本の大村などで入手していました。
日本でこの時代の主な産地は大村湾、鹿児島湾、英虞湾です。
気が向いたらこの時代のヨーロッパの真珠の値段も出します。
フィリピンは金が安く、銀25kgを持ってフィリピンで金10kgに変えて日本で銀に帰ると75kgになり3倍の利益になりますが秀吉の時代になると日本戦が多く来てスペインの商船の利益が減るから渡航制限がかけられたりします。
江戸時代後期に木綿帆の普及などで陸地から離れた沖合を進むことで、瀬戸内も潮流に逆らって帆が風を受けて進めるようになります。
江戸時代に赤穂塩田200町歩33万石の塩が作られ、米換算で3万~4万石程度になり、赤穂朝野氏の表高5万3千石で実高は8~10万石とされ浅野氏は裕福だった点もあの事件になったとされます。
作られた塩は7割が江戸へ、2割が大坂へ、1割が地元と北国に行き。江戸と北国には苦汁を含んだ差塩が濃口しょうゆの原料や漬物に利用するために出荷され、大坂や地元には苦汁の少ない真塩が薄口しょうゆの原料や食塩として出荷されました。
江戸時代初期までは高砂の荒井で作られた塩が多く流通していて、加古川の水量の変化や土砂の堆積によって塩田に塩が付きにくくなったことで西側にある姫路の大塩や的方に塩の生産地が変わり、藩主が変わり塩の生産者を真似したことで赤穂で塩の生産が盛んになっていきます。




