十一話 天正三年八月十二日 越前侵攻
2年前の元亀四年七月に信長は将軍足利義昭を京より追放し同月二十八日に天正に改元すると、八月に越前の朝倉氏を九月に北近江の浅井氏を滅ぼし、前波吉次に越前を支配させ北近江の浅井支配地跡を羽柴秀吉に任せた。
前波は天正元年十一月に信長より桂田の姓を与えられ桂田長俊と名を変え越前を支配していたが、出雲に生まれ越前朝倉氏に仕え前波と同時期に信長に降った富田長繁との不和により天正二年一月に富田が一向一揆の協力を得て桂田を攻め殺し、朝倉旧臣魚住景固も謀殺した。
富田は信長に対しては弟を人質に出し忠誠を誓ったが、越前支配を任されていた桂田が殺されたことにより混乱した越前に対して一向一揆は富田を立てることはせず富田は居城の府中城を一揆勢に囲まれ討ち死にした。
次いで一揆勢は大野郡の朝倉景鏡を殺し越前各地を支配していくが、信長は北近江の羽柴・若狭の丹羽長秀・敦賀郡の武藤(武藤舜秀)に現在の福井県北部の嶺北と南部嶺南を隔てる木ノ芽峠を固めることを命じ東方の甲斐武田に備えて戦力を温存し越前はこの芽峠を境に守りに徹した。
天正三年三月の時点で信長は今秋に大坂本願寺に対する攻撃を計画していたが、四月八日に信長に反抗してきた三好康長が信長に降り康長の仲介により大坂本願寺との和睦交渉が行われ、五月に長篠で武田家を破り大軍を動かせる状況となり天正三年八月に前年に一揆持ちの国となった越前侵攻が始る。
信長は前波・戸田・毛屋などの朝倉旧臣達に先陣を命じ、佐久間・柴田・滝川・羽柴・惟任(明智)・惟住(丹羽)・別喜(梁田)・長岡(細川)・原田(塙)・蜂屋・稲葉・氏家・安藤・磯野・阿閉・不和・武藤・筒井らの武将と、連枝衆として北畠信意(信雄)・神戸信孝・津田信澄・織田信包など総勢5万を超える軍勢を越前侵攻に参戦させる。
八月十二日信長は岐阜城を出陣すると先だって出陣してい武将たちの働きによって越前は短期間のうちに一揆勢は越前より駆逐されていった。
若狭・丹後の水軍衆が海岸沿いに進む軍と協力して港を焼き払い、主力軍が木ノ芽峠周辺の砦を瞬く間に陥落させると周囲にあった城に籠る一揆勢は戦意を無くし府中に撤退を開始するが、主力軍より先行していた惟任・羽柴が十五日に府中に侵入し一揆の本拠地龍門寺城を陥落させ包囲網を形成していたことで一揆勢は惟任・羽柴両名の働きによって抵抗もできずに斬り捨てられていった。
十六日に敦賀にいた信長が木ノ芽峠を経由して府中に入ると信長が府中にいた5日間で生け捕られた一揆勢は1万を超え全て処刑され、隠れていた者もその後見つけ出され越前で織田軍が奪った命は5万を超えた。
八月二十三日一揆勢の掃討戦が一段落した段階で信長は北庄まで陣を進め、先行して加賀に攻め込んだ羽柴・惟任・長岡・稲葉・梁田より、能美郡・江沼郡の平定が障害もなく進んでいる報告を九月十日小姓の万見重元より受ける。
「上様、加賀南部の能美・江沼も問題なく進行しております。この後はどうするのかと先行した者達から尋ねられています」
「別喜を呼び寄せよ、今後は別喜を目付として加賀を支配させよ。長岡・稲葉・羽柴には数日滞在して、稲刈りができることを優先せよと伝えろ」
「はっ、ではその連絡に行ってまいります」
「早飛脚を遣わすゆえ、仙千代(万見重元)は我に付いてこい」
小姓筆頭の万見重元に加賀に侵攻した武将達の報告を受け、加賀二郡を別喜に支配させる連絡を入れ檜屋城・大聖寺城を築かせ、与力として佐々長龝・島信重・島一正・堀江景忠を付けた。
信長が越前侵攻を開始した同時期の八月十五日に播磨国美嚢郡三木城で別所家の評定が行われていた。
「此度は評定を行うと聞いて参ったが、如何な用件であろうか?」
「何も聞いておりませぬが、尾張守が越前に侵攻する話か西の浦上が宇喜多に押されている話ではなかろうか」
「では越前か備前に戦に向かうという事であろうかの」
といったような会話が、評定の前日に三木の町に来ていた多くの侍達によって宿や寺で行われていた。
城内の大広間の下座に登城した家臣達が座る中、上座の別所長治が此度の評定の目的を説明する。
「此度の評定は越前の戦でも、浦上の援軍として宇喜多と戦うことではない。別所家に新たに加わった者の紹介と家中が大きく変わることの伝達が大きな話となる。稲美よ、入ってまいれ」
部屋の外で待機していた大輔は大広間にTシャツにジーンズと靴下を履いたラフな格好で室内に入り、上座に座る長治の前に胡坐で座る。
「先日より別所家で仕えることとなった稲美大輔と申す」
「稲見は先月の初め山城守(別所吉親)が見つけ登用したのだが唐国や南蛮の知識を多く学びこの一月の短期間だが多くの実績を上げており、此度家老として播磨総奉行の役を与えることとする。町で売りに出している手押しポンプや農機具やマイエンザなどもこの者が齎したものだ」
「最近見るようになった物は稲美殿が作ったものだったか」「厠の臭いが和らいで重宝しておりますぞ」「何と、その様な物が出回っているのか?」「何じゃお主は知らなんだか、他にもあるから町で見たほうがいいが予約待ちですぐには買えんがな」
居並ぶ武士達から大輔の作った物に対する、好感職の声が聞こえてくる。
「話を続けるが、稲見は道具作り以外にも他の知識があるようでな。この者に播磨国内での大きな権限を与えるために播磨総奉行の役職を与えることになった。お主らも知っての通り播磨は雨の少ない地域で河川が近くにない土地では稲作に向かんのだが、播磨の地でも栽培に適した作物や今育てている作物に関しても収穫量を上げる方法を知っているようで別所家直轄地は稲美の方針に従い動いておる。収穫量が増えれば村の収入が増え、輸入が増えれば年貢を増額すこととなるので検地も実施している。そして直轄地の検地が終われば、お主らの土地の検地を実施しようと思う」
「お待ちくだされ、我らの土地を測るなどいくら大殿といえど越権行為ではありませぬか」
「そうだ、何の権限があってそのような行為をするつもりなのだ」
長治の方針に対して、自領の検地に対する反対の意見が上がる。
中世の時代では家臣の土地であっても口を出すことが禁止され、家臣の土地であっても検地などは越権行為として行われていなかった。
大名たちは戦で得た土地に対しての検地は村に対して耕作地や家屋を記した物を村が提出する差出検地が行われ、差出検地に基づいて年貢が決まり大名は年貢額を根拠として武士たちに対して褒美として所領を渡していた。
一度渡した土地では大名による検地は行われず、土地の領主が変わるタイミングで検地が行われていたので長治が家臣の土地に対して行うというのは異例の事であった。
「検地を行うのは総奉行の進言に基づき河川改修などを含めた大きな土木作業が行われ、近隣の百姓どもを動員することになるがどの程度動員ができるのかや公平を期すためにお主らの土地に対しても検地を行いたい。夫役ではなく銭か米を対価に支払う予定だ」
鎌倉時代の頃までは夫役として百姓を領主たちが労働に従事させた場合は1人あたり20文程度の銭が支払われていたが、戦が常態化する室町時代になると夫役は村の規模に応じて強制で人を出させたり、夫役の規模に応じて年貢額が減額されていた。
「その程度では我らに利はありませぬぞ」「そうでうすな、これでは検地は受けいれられませぬ」
検地を受け入れることに対してのメリットが領主側にあまりなく、多くの反対意見が出る。
「わかった、検地の受け入れはしなくてもよい。銭を払い百姓を使う事には文句を言うなよ」
「銭を貰い百姓が納得するのであれば、こちらとしては異論はありませぬ」
長治の家臣の土地に対する検地の提案は多くの反対にあい実行されることは無くなったが、百姓に銭を払い使役することは反対されなかった。
秀吉が天正元年から羽柴姓を使い、改姓してからも木下は使っていたりします。
嫡男信忠の軍団は東美濃の岩村城包囲中で、川尻・池田・森が従軍しています。
磯野の家督は天正四年ごろに津田信澄に譲渡されたとされます。
天正三年九月二日発表された土地の振り分けは、越前八郡 柴田勝家、府中近辺二郡 佐々成正・前田利家・不破光治、大野郡2/3 金森長近、1/3 原政茂、敦賀郡 武藤舜秀、加賀 別喜広政。
中世の時代検地は領主が変わるタイミングで行われ、江戸時代は吉宗の頃までは耕作地の育成状況などを確認して年貢額が決まる検見法が行われていて、吉宗の頃から田畠の面積に対して一定の年貢が決まる定免法が採用される。
検見法は北条家で行われていて作物の耕作状況を現地に代官を派遣して確認するので年貢額が決まるまで村側と交渉が続けられ、どちらかが妥協するまで交渉が続くのと代官を年に2回程度派遣して作物の育成場を確認するので無駄に労力がかかるデメリットがある。
メリットは村からぎりぎりまで年貢を取れるので不作や豊作に対して柔軟に対応できるが、派遣される代官によって判断が分かれる。
定免法は税収は安定するが、作物の価格が変動すると根底が崩れるので江戸時代後期に米価が下がると武士の収入が減った原因の一つでもある。




