十話 天正三年八月 一月の成果
「くっさ」
この時代のトイレは水洗ではなく現代ではボットンと言われる和式トイレなので、人間の排泄物を下の桶に入れる構造になっており溜まった便は肥しとして作物に使われる。
人間の便は水分が多く上手く発酵せずそのまま田畠に撒くとメタンガスが発生したり寄生虫の問題が発生するのだが、そんなことはこの時代では知る者はいなかった。
百姓たちはうんこを手に入れるためにうんこを肥しにして、出来た野菜を対価として渡し多くのうんこを手に入れていた。
水洗便所のある家から離れ三木城付近にある武家屋敷の一つを貰い生活する大輔は、商人や職人と毎日会う生活だったが、この時代の七月は西暦でいうならば八月にあたり、温暖で過ごし易い播磨の気候でもさすがに暑かった。
夏の暑さによって人間の排泄物も悪臭が酷くなり、許容範囲の広い大輔も毎日のことで我慢の限界であった。
そんな悪臭から解放されるために行ったのが町で今年出産した牛から牛乳を集め一晩常温で放置してできたヨーグルトと、人肌程度のぬるま湯で納豆を洗ったぬるま湯と、家から持ってきた砂糖と冷凍庫に入れてあったドライイーストを壺に入れ一晩放置するとできるのがマイエンザ。
愛媛工業技術センターで開発され下水処理軽減や糞便の堆肥化の促進ができるもので、大輔はトイレの悪臭を抑えるのに今回作ることにした。
この時代は牛乳を飲まないので乳牛を探すのは苦労をするのだが、近畿周辺では馬借の代わりに牛を利用するので他の地域よりも牛の数が多く牛乳を入手するのに苦労はしなかった。
大輔の小さかった頃の関西では納豆を食べる習慣がなく大輔自身は納豆が嫌いであったが、作り方は知っていたので納豆の入手も問題なくでき、イースト菌は南蛮船が日本に来ているので入手をできるが植物から入手も楽であり大輔の持っているドライイーストを培養して入手することもでき、結晶化しにくいが糖を採れるサトウモロコシを代わりに使って作られたマイエンザの製法を悪臭対策のために大輔は公開した。
数日して悪臭が軽減されたトイレに大輔が満足して、ゲロを流し込むのも日常と化していた。
ドンっと障子戸を勢いよく開けて。
「くぉらぁー!!いつになったら報告に来るじゃ、できたもんをさっさと報告に来んか!」
いきなり扉を開けて入ってきた吉親が、開口一番に怒鳴りつける。
「なっ何ですか」
「何ですかも、こうですかもあるか。作った物ができたならさっさと報告しろと言っとるだろうが」
「まだ全部できてないので良いかと思ってました」
「良いかもあるか!さっさと来い」
別所家に仕えて一月ほどは毎日の様に人と会って、夜は接待宴会コースで最近は依頼した物が出来上がる報告のほうが多かった。
大輔はこの一月の間は日帰りで、時には数日泊まりで出かけ水酸化ナトリウム・蘭引・蒸留酒・塩酸・硫酸銅・銭・ショベル・手押しポンプ・足踏み脱穀機・土臼・唐箕・動力鋸・南蛮吹きと数々の技術や物を作り、他には原材料になる物資が届くのを待っている状況であった。
大輔は吉親に連れられ長治ほか数名の者が末部屋に連れていかれ座らされる。
「稲美よ、いったい何を作っておるのだ。少しは報告せんか」
報告をしてなかったことを長治に指摘されると、報連相は社会人の基本として報告をしていた大輔は。
「淡河さんには報告はしていたんですが、いくつかできた時点で説明したんですが以降は説明はしなくていいと言われたので、以降は報告はしてませんでした。説明もあるので皆さんで町の工房に出かけますか」
「報告は聞いていたのですが、わからぬ部分も多く他の仕事もありましたので報告は無用と連絡と某の判断でしておりました」
淡河定範の報告に眉をひそめる長治だったが、どういった物を作ったのか気になる部分もあったので町の工房に向かうことにする。
「そうですね、最初は石鹸工房から行きましょうか」そう言って、寂れた小さな建物に向かう。
「おーい、おっさん入るぞ」と声をかけると、「入ってくれ」と返事が返ってくるので戸を開けて中に入る。
建物の中にいた男は「稲美殿、あんたが言ったように作ってもうすぐ一月だから、そろそろ最初に作ったのはできたんじゃないか?」
「あれもうそんなに経ったのか。じゃあちょっと試してみるか」
大輔が男に渡された小さな塊を掴み水に浸けて擦り始めると泡が出てきて、周りで見ていた長治たちに鎌足が何かと聞かれて。
「石鹸、この時代だとしゃぼんでいいのかな。南蛮で体や衣類を洗うのに使う物で、もう少し大きいと思うんですが2個で銀5匁ぐらいのかちがあるはずです」
大輔の発言に全員の動きが止まった。銀1匁が精銭45枚の価値がるので、これが精銭200枚上の価値があるというのが信じられなかった。
「油とか水酸化ナトリウムとかいろいろ使ってるから、そこそこぜにはかかりますよ」
「殿、これですよ!水酸化ナトリウムとか言われても儂がわからぬから、それは何だと言っても訳の分からぬことばかり言うのですよ」
「水酸化ナトリウムは苛性ソーダと言って、炭酸ナトリウムと水酸化カルシウムを混ぜて濾過した液体を蒸散させて残った物質です」
「だから、それが何だと言っているんだ」
初めて聞く言葉だらけで要領を得ぬ説明にイラつき始めた長治たちに1から説明していく。
海に行き海岸に生えているオカヒジキという植物を燃やして出来た灰を水に入れ濾過した液体の炭酸ナトリウムと、石灰石や貝殻を焼いた消石灰(水酸化カルシウム)を水に混ぜ濾過してできた液体が水酸化ナトリウム。
熱した油に水酸化ナトリウムを混ぜ容器に入れて一月ぐらい置いておくと、石鹸ができ作ってから日が短いとアルカリ性が強く触ると肌がピリピリすると説明していく。
「複雑な工程があって何とも難しいの。石灰はいいとしても、オカヒジキという植物や油は簡単に手に入るのか?」
「オカヒジキは海岸に行けばありますが、海に近い村では来年からは塩田の代わりにオカヒジキを栽培してもらおうと思います。油は秋に収穫の終わった田畠に菜の花の種を撒いて、種から油を採ろうと思います」
現代であれば秋田で食用にされているオカヒジキだがこの時代では海岸にある雑草で無価値で海に行ったときにオカヒジキを集めていて、油は胡麻や荏胡麻から作られ食用としてではなく寺などで使用していた。
この国で価値が出るかどうかわからないので、おっさん1人に任せて作らせているが売れるようなら規模を大きくする予定と伝え次の工房に行く。
次の工房では陶器で作られた蘭引を使って黄鉄鉱などの硫化鉱物を入れて熱し乾溜すると硫酸を作ることができ、蘭引に硫酸と塩を入れると塩化水素ガスが出るので乾溜して作った塩酸を作っていた。
蘭引とは、ポルトガルから入ってきたアランビックが日本では蘭引と呼ばれ酒を蒸留して焼酎などが作られ、
ポルトガルなどの南蛮ではガラスで作られ日本では陶器で作られていた。
塩酸にアワビやサザエなどの真珠層を持つ貝殻を入れて輝く貝殻を作り、貝殻は螺鈿細工の原材料として売りに出していた。
「蘭引という物で焼酎が作られるのか、焼酎は作ったのか?」
「焼酎は家で原料の酒を造りましたが、夏の今作ると他の場所では腐敗するリスクが高いので焼酎の生産はしてませんよ」
鋳物師のところではショベル・手押しポンプを作っていて、この時代では鍬などの農工具や釜や鍋といった調理器具は鋳物師が作っており、鋳物師達は鎌倉の時代までは仕事があれば移動していたのだが室町時代に入り戦が常態化すると領主たちによって武器防具を作る鋳物師達は地域の独占権などを約束されると定住していくようになった。
鋳砂で型を作り、甑炉で作られた鋳鉄を流し込み鋳造品が作られていた。鋳鉄は炭素の含有量が高く硬くて脆い物く錆びやすい物だった。
手押しポンプは明治時代に日本に伝わり金属以外にも木や陶器で作られたものもあり、釣瓶で水を汲んでいた頃よりも楽に水が汲めるようになり、構造は単純で23尺(7m)下の水も吸い上げることができ、水不足で悩むこのあたりの地域にとっては低位にある川から水を汲み上げ、樋などを使えば遠くの田畠にも水を供給できると説明する。
次は足踏み式脱穀器・土臼・唐箕を作っている工房に向かう。
現代で三木といえば金物の町として知っている人は知っているが、知らない人は全く知らない市だが三木が金物の町として始まるのは宝暦(1751~1764年)の頃と言われ三木金物の主要製品であった三木前挽鋸鍛冶仲間三軒がが京都前挽鋸鍛冶仲間の下株として成立している。
大坂や江戸の市場に問屋を通して商品を全国に流通させ現在に板いるが、それ以前の三木の町は加古川上流にある多可郡の豊富な木材を利用した木工業に携わる者や出稼ぎの大工が多くいる木を扱う事にに特化した町だった。
この時代の住む百姓たちは年貢の支払いのために米などの農作物を収穫して商人などに売り銭を得て、得た銭を年貢として支払っていた。
機械化されていない農作業では人の手により作業が行われ、稲を刈りとり商人に売る玄米の形にするまでも多くの手間がかかっており、この時代では刈り取った稲は扱箸と呼ばれる竹を割ったものに稲を挟み引き抜き籾を採り、臼に籾を入れ杵で突き籾殻を取り除く脱稃を行い、竹などで編まれた箕に脱稃したものを入れて箕を振るい玄米と籾殻に分けていた。
足踏み式脱穀機は明治四十四年(1911年)に福永章一が発明したもので、ペダルを足で踏むことでペダルの直線運動を回転方向の力に変える装置のクランクを使い、鉄の金具をクランクによって回転する円筒型の胴に取り付けペダルを踏み回転する胴の金具に稲を近づけると早く稲から籾が採れ、稲以外にも麦・蕎麦・大豆などにも使え大正時代に全国に普及した。
土臼は中国で作られ江戸時代に日本に伝わると作業時間は短くなるが十分に乾燥しきれていない籾を土臼を使って籾摺りをすると割れたりもしたが、割れた米は自家消費するなどして江戸時代では農村部では籾摺りに土臼が使われ木や石などの素材で作られていた。
唐箕は籾摺りされたものを投入してハンドルを回すと内部にある羽が回転して風が発生し、風によって玄米と籾殻などを風の力によって比重を選別する道具で、中国で作られ江戸時代に日本に入り普及していった。
作った3つの農工具は売りに出されたが生産が追い付かない状況となっており、近隣で水車が利用できる河川のある場所に製材所を作り水車の動力を歯車を使った動力鋸を使用することによって木材の生産量も増大させていた。
農耕具についてはさほど興味を示さなかったので、銭を作っている工房に向かう。
日本を含めた中国文化の浸透するアジア圏では鋳型に金属を流し込み銭を作っていたが、ヨーロッパなどの地域では鋳造して板状にした金属を切り模様や文字の入った刻印をハンマーで打ちつける鍛造によってコインを作っていた。
この時代の日本では中国で作られた銭が古くなり割れたり欠けたりしたことで銭が不足したため、各地で作られたビタ銭と呼ばれる新銭なども銭不足から市場で流通するようになった。
基準となる精銭1枚に対してビタ銭は3枚で等価とされ、精銭よりも低い価値であったが銭不足の影響もあって各地でビタ銭が作られた。
精銭とビタ銭の見分けは新しく作られたビタ銭は錆もなく輝いており、精銭は年月とともに銅が錆び緑色の銭となっていた。
日本では寛永通宝が発行される江戸時代までは緑色の銭こそ価値があり、色の違いによって撰銭が行われていた。
工房では油圧プレス機を導入しており銅板を銭の形に圧穿したものをプレス機で両面に文字を刻印してバリなどを取り除くために磨き、加熱した青い液体に浸けた後は取り出しいく。
青い液体は硫酸銅水溶液で銅鉱石の胆礬を水に溶かして作り出し、液体に触れた銅製品は緑青と呼ばれる錆が発生し緑色に変色する。
「まさか、ビタ銭から精銭を作っているのか。どれだけの銭を作っているのだ」
「鋳造で作るよりも生産量が多いので、1日に千枚ぐらいですね。人を増やして銭不足を解消できる程度にいずれは1日1万枚程度は作れるようにはしたいですね」
「それほど作る必要があるのか?」
「播磨だけであればそこまではいらないですでが、日本国内の分や海外に輸出する分を含めると1万枚でも全く足りないですけどね」
アジアの国では日本以外にも中国の銭を使っている国があり、江戸時代初期にはベトナムなどの様に銭を大量に作っている日本から銅銭を輸入する国や銅材の原料として日本の銭は海外で使われていた歴史を知っているので大輔はこれでも全く足りないと感じていた。
次の工房では銅から銀を取り出す南蛮絞りを行っている。
南蛮絞りは銅鉱石を炉に入れて採りだした粗銅を、粗銅を熱して鉛と混ぜて合銅を作り、粘り気のある状態となった合銅を叩いて炉の下部に鉛を取り出し、取り足した鉛を灰の上に置くと鉛は灰に吸収され、灰の上に鉛に含まれていた金や銀などを採りだす方法が南蛮絞りとされる。
工房に入る前に全員に大輔が注意する。
「皆さんが知っているかどうかは知りませんが、鉛というのは毒で体に入ると病に虫食まれるので鼻と口を覆うようにこちらの布を使ってください。
全員に木綿布を渡し鼻と口を覆うようにして、同じようにしてくれと注意する。
銀の精錬に関わる職業に就くものは鉛を大量に使用するので長く生きることができず、江戸時代の石見銀山で働く者達は30歳で長寿の祝いを強したなどと言われていた。
日本最初のマスクは江戸時代後期に備中国の医師宮太柱が作ったとされ、銀山で働く労働者のための防塵マスクが最初と言われ家にあったサージカルマスクを真似して木綿で布マスクを作り鉛や水銀などの毒性のある物質を扱う者達に注意をして渡していた。
粗銅に含まれる銀は多くても0.4%で平均0.1%で南蛮絞りで使われる粗銅と鉛の比率は通常は4:1だが、粗銅に含まれる銀の比率が多いほど鉛の必要量も増えるので多い目に4:3で行っている。
南蛮吹き1回の操業は一刻(2時間)ほどで、10~20貫目(37~75kg)の合同を使い10貫目(37kg)の木炭を消費して10匁(37g)の銀が抽出でき、1回の操業であれば南蛮絞りは赤字だが、鉛を再使用できるので操業を続けることで黒字化していた。
日本の産銅量は江戸時代に入り伊予国の別子銅山、下野国の足尾銅山、常陸国の日立鉱山の日本三大銅山で銅が大量生産され、元禄十年(1697年)には年間6000トンの銅が生産されていたとされ当時世界1位とされている。
この時代で主に採掘されている銅山は長門国の長登銅山で、採掘された銅は国内や海外に流通しており天文八年(1539年には179トンの銅が輸出されていた。
三木の町にある別所家が出資している工房の視察が終わり、城に戻り今後の方針を話し出す。
長治が大輔に一部の工房以外は技術を秘匿していないと聞き、理由を尋ねられ大輔が答える。
「多くの技術が唐国(中国)や南蛮ですでに使われているものなので、こちらで秘匿したところでそちらから技術が知れ渡れば意味がないので秘匿はしていません。現時点で重要なのは銭と南蛮絞りと蘭引などで抽出できた化学物質ぐらいです。秘匿する工房には警備を配して対策はしています」
大輔の回答に長治などが議論を重ね「来月に別所家中の者を集め評定を行う」と話が決まり、三木城に別所家に仕える多くの家臣が集まることとなった。
マイエンザは下水の処理が早くなり、ヨーグルト・砂糖・ドライイースト・納豆・ぬるま湯が原材料で、ヨーグルトは牛乳を常温で放置するとでき、砂糖はこの時代は高いので室町時代に以前に入ってきていたサトウモロコシでたぶん代用はできると思い、簡単に下水処理ができる物として登場。
あらゆる有機物から肥料を作る方法 本田進一郎
この本にいろいろと載っていますが、トマトに海水を10倍に希釈して施用すると収穫量は減少するが甘くなるっていうのは初めて知りました。
石鹸作りでカリウムが多い草亀背でも作れるが固まらないらしく、ナトリウムの多い海藻が使われ古くから海岸に生えるオカヒジキガ使われていました。
九州では貝殻などを使った螺鈿細工がヨーロッパに輸出されていて、この時代の日本で数少ない鉱物以外の輸出品。
手押しポンプは明治時代頃に日本に広まり、金属以外に陶器や木でも作られていた。
三木市が金物の町として有名になるのは江戸時代からで、それまでは大工や樽職人が多い木工産業に特化した町なのは当時の記録からわかります。
貨幣は鋳造で作るよりも鍛造で作るほうが生産効率が高く、ヨーロッパなんかでは金属の板を鋏で切りハンマーで刻印を打ちつけるハンマープレス法が使われていた。
応仁の乱前ぐらいに銭不足の問題が出始めますが、1540年代は中国の福建省で民間で銭を作り日本に輸出していて、その銭を新宋銭と呼び1540年代は銭不足が緩和されますが、石見銀山の銀が中国に大量に入るようになると、銀の釣りとして貨幣が必要になり福建省の銭は日本に流れなくなり北京に流入するようになった。
この辺の銭の話はかなり難しいですが、興味があったら日銀研究所の貨幣史研究会・東日本部会の記録とか調べてみると面白いです。
16世紀末の日本では鉛の価格がマカオの2倍で60kgで銀60匁(約200g)です。
南蛮絞りについては住友修史室報 第一ニ号に載っています。
酒造りの話もしようかと思ったが、夏場に酒造るのはおかしいのでやめました。




