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九話 天正三年七月十一日

大きく変更するかもしれない


今更説明することでもないですがネットなどで調べても出ないので説明しますが、市川の東側が東播磨、市川と揖保川の間が中播磨、揖保川の西が西播磨の3つの地域で分かれていて、現代だと北播磨が追加されてますがこの時代は3つの区分で分かれています。

 翌日の朝、黒のスーツを着て日の出からしばらくすると子供達も集まり、持ち物などの確認を行ってから三木城に向かう。

 家から北に向かい美嚢川を川沿いに東に進むと三木城がありかなりゆっくり進んでも二刻(4時間)もあれば三木城に付くという話で、朝7時ごろに出発すると大輔のペースに合わせても1時間ほどで城が見えてくる。

 城に近づくと城下町が見えてきて、川の手前よりも向かい側のほうが町の規模も大きく見える。

 (思ったよりも賑わってるな)


 城門に近づき門番らしきものに声をかける。

 「ちょっといいですか」

 門番が大輔の体を下から上に見つめて、

 「えぇっとその、稲美様ですか」

 「はいそうですが、今日城に行くって伝えてたと思うのですが」

 「少しお待ちください。他の者が確認の連絡に行ってますので」


 5分ほどするとおっさんが走ってくるのが見えてくると、目の前にいた門番たちが慌てだし走ってきたおっさんが大輔に向かって声をかける。

 「はぁはぁ、稲美殿早かったな」

 「まだ暑いので、朝方に家を出たのですが迷惑でしたか?」

 「いやいや、そんなことはなかろう。屋敷のほうに案内するが、どうする?」

 「そうですね、先に屋敷を見せてもらっていいですか」

 「よしわかった」とおっさんが言うと門番の1人に向かって「例の家がわかるか、わかるならこのお方を案内しろ」そう言って門番が有無を言わせず案内係にされ「こちらから連絡をよこすので屋敷にいてくだされ」


 門番に案内された屋敷は現代であれば豪邸と言いたくなる土地であったが、屋敷に向かう途中で見えた屋敷の中では普通より少し小さい程度だった。

 「新しい屋敷はまだ途中でして、しばらくはここで逗留をお願いします。では私はこれにて、失礼します」

 (新しい屋敷って何だろうか?それにしても家よりもでかいな)


 荷物を下ろして屋敷の中を物色して、板の間の床の上でゴロンと寝転がっていると。

 「稲見様、城から使いの者が現れ準備ができたので来てほしいと」


  子供達には自由にしていいと伝えて、使いの者に案内され城に向かうと城内にある部屋に案内され、使いの者が襖を横にスライドさせ開けると中に入るように促され入ると昨日初めて見た人物がいた。

 「稲美殿入られよ、昨日は名乗ってなかったが家老の淡河定範と申す。今日からこの部屋を稲美殿の部屋として使っても構わぬが稲美殿を話しておらぬ者も多いのでこの部屋には変わったものは持ち込まぬようにしてほしい。明日から商人や職人を呼んで会わせるので、当分の間は朝から出仕してくれ」

 「うーむ、服についてはそれでも構わぬが正装をする必要もあろうから裃などの服や刀も用意しておいたほうがいいぞ。何か聞きたいことや要望はあるか」

 「服と刀を買う手持ちの銭がないことと、馬に乗ったことがないので馬術を誰かに教えてほしいです」

 「商人にはこちらから話を通しておくのでツケで払えばよいが、銭は昨日約束した100貫を屋敷に届けるように言っておく。馬は城に来た時に調練していけばよい」


 定範との話を終え馬に乗る練習を今日から始めることになり、日本の馬は小さいと言われているように実物も小さく100kgの俺の体重に馬が耐えられるのか不安だったが特に問題ないようであった。

 江戸時代には60kgもある米俵2俵(120kg)を背に積んで運び時には3俵(180kg)も運び、鎧を着れば小柄なこの時代の人たちでも100kgを超えるので俺の体重でも問題はなく今日一日である程度乗れるようになったが暇を見て今後も練習に来ることにした。

 注意する点として馬は町中では乗らず手綱を曳いて歩き、街道などで乗るようにと言われた。


 屋敷に帰ると千文ごとに縛られた銭が精銭10貫文分で約3万枚が届けられており、残りは後日運ぶのとのことだと子供達から報告を受ける。

 しばらくすると呉服商という男がやってきた。

 「御初に御目にかかります、呉服商を営む服部平助ともうします。淡河様から稲見様の服を用立てるように申し付けられていますので、さっそく採寸させていただきます」

 採寸が終わり平助が連れてきた者達に命じいくつか丸められた反物を取り出していく。

 「どのような柄がよろしいでしょうか、これなぞどうです」

 (どれが良いとかいわれてもわからないよ)

 「お任せでお願いします」

 「わかりました。ではこちらの柄で織らせていただきます」


 呉服商の服部が帰ると子供たちを連れて町に行き、いろいろな店を覗き物価の確認や必要なものを購入していく。

 米を含めた雑穀や鍋などの調理器具に薪や(むしろ)や紙や筆に墨など必要になりそうなものを買い、子供たちに持たせていく。

 この時代の基準となる米の値段を確認すると玄米1石(150kg)が精銭で500文で織田家で戦があるということと収穫前で米価が上がっているという話であった。

 例年なら収穫された米を含めた穀物が出回るので1石300文いかになることもあり秋は安く、春は裏作に収穫された麦類があるが夏は収穫前で穀物の価格が1番上がるという話だ。

 支払いは今日貰った銭はビタ銭だったので精銭の3割程度の価値しかないので今日買ったものは全て生鮮価格の3倍の銭を払った。


 刀を売っている店に入り、どれを選んでいいのかわからないので店主に聞いてみる。

 「店主よ、護身用に持つ程度の刀でよいのだが、打ち刀と脇差を貰えるか。この子達の分の刀も頼む」

 「見慣れぬ格好をしているから異国の方かと思ったら、武士の方ですかい?それだったらこれがいいんじゃないか、この子達にはこれでどうだい?」

 「店主の判断に任せよう。それでいくらだ?」

 「打ち刀と脇差は1貫文、こっちの刀3本は合わせて300文だ」

 思ったより高かったが、ビタ銭で3貫9000文支払い屋敷に帰り買った荷物などを整理して少し考える。


 (この時代の撰銭はやはりめんどくさいな、支払った銭を一つ一つ確認して銭の損傷・厚さ・銭名・裏面・色などで価値が変わることが買い物のときにやっぱり不便だな。天正通宝や慶長通宝といった銭も作られたけど市場で流通しないと意味ないよな。大きな買い物は銀も使えれば便利だけど銀の流通量も九州と違ってくないのが問題だな)

 今日の買い物でビタ銭で買い物をすることが不便なことを実感して、銭を作る段取り急ぐ必要があると大輔は実感した。


 ある程度考えがまとまると子供達を呼び寄せる。

 「私は別所様に仕えることとなったが、手足となって動いてもらう家臣と呼べる者がおらぬが住職の薦めでお前たち3人を含めた者達を雇うことになったが、嫌だという物がいれば名乗り出てくれ。本当は元服の儀式がどういったものかよくわかってないが、私の家臣となる気があるのならこの刀を受け取ってくれ」

 子供たちは迷うことなく刀を受け取り。

 「俺たちはあのまま村にいても田畠を持てず、村を出て不安定な行商や足軽としてしか生きていけなかったと思います。住職に稲見様のことは聞いてます、多くの書物や知識を持っているので偉大な人になると聞いてます。何もない俺達ですが、稲美様に仕えさせてください」

 「わかったお前たちは元服して今から俺の家臣だ。今日からお前たちの名前は左衛門、中衛門、右衛門だ」

 彼らの年齢はまだ13歳と元服には早いが、家臣として今日から雇っていくこととした。

 翌日は今回連れてきてない他の者達も連れて来るように連絡して、残りの者達にも名前と刀を与え元服させ家臣とした。


 それから数日は城に出仕して商人や職人と会い、紙に書いた図面や加工の容易な粘土などで形を説明しながら必要なものなどを準備していく日々が続いた。

地図で調べた場合に加古大池から三木城まで歩いた場合が約2時間


江戸時代は明確な身分社会が定着していて、武士の中でも騎乗資格のある人ない人とわかれていて農民や町民は馬に乗れませんでしたが、それ以前の身分社会があいまいな時代は誰でも馬に乗れました。

何の本だったかは忘れましたが、足利尊氏が馬を用意するのに百姓に乗ってこさせればいいという話が載っていました。


米の値段として1石1貫とよく例に出されますが、これはある意味正解で間違っていると言えます。

北条家が支配していた相模小田原の永禄12年(1569)8月28日の米価が米1.4斗が銭100文で71.429文/斗で1石が約700文です。


山城国京都の永禄13年10月19日は米9.1555斗が銭374文で40.85文/斗で1石約400文で、天正16年5月6日は1石約400文なのは変わりません。

京には上京と下京に米場座があり、米を勝手に売ることは禁止され決められた者達だけが討っているので価格は統一されていて年によっては価格は変化しますが1石400文なのはあまり変わりません。

他に米場座があったのは奈良や駿府などがあります


人口が多く物資の消費地である京では米などは他の地域から運んでくる必要があり運送費用と都ということで他の地域より米価が高いと思うので、作者の個人的な意見で播磨の米価を秋に300問程度の設定としています。


秀吉の支配していた時代でも1貫が3石とされているので妥当な数字だと個人的には思っています。

精銭を3倍にしたビタ銭価格で1貫1石だったのではないかと思います




戦国の村を行く 藤木久志

この本にある15世紀後半の頃の山科家礼記の説明があり、村人の成人を祝う元服の説明があり11月にオトナ百姓の子が元服するときに親子は祝いの品の他に銭2~3貫文をもって代官に訪ね、代官は村の子の烏帽子親を務め戴冠する儀式であったが15世紀の頃には幼名の代わりに名前を付けて刀1腰を与え酒でもてなしたとあり、さらに成長して1人前と認められると兵衛・衛門・太夫などの格式あるオトナ風の名に改め銭や祝いの品を持って代官所にいき荘園の代官が村人の成人の儀礼に深くかかわっていたことがわかります

今回成人の儀がある11月はまだ先ですが家臣にするならということと、2貫文なんて払えないけど元服させました

幼名・元服後の名前・オトナの名前と百姓であっても名前が変わることや、元服の義に荘園の代官が関わり百姓に刀を渡していたというは初めて知り、本を読んで勉強になりました

刀の参考価格は1422年に120文だったので、これを参考にしました


この時代の銭は地域・年代・銭の種類で大きく価値が変わるので、自分で調べないと全く値段が違う情報だったりします

情報を見返してみると天文の頃には伊勢で宋銭と明の永楽銭の価値が逆転していて、信長が登場してくる頃には伊勢周辺は永楽銭のほうが価値があったみたいです

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