八話 天正三年七月十日 三木城
時間の話は出すかどうか微妙な気がする。
室町時代後期から江戸時代の日本は不定時法という太陽の出ている時間によって一刻の長さが変わるもので、夏場の一刻は長く冬の一刻は短いけど出すと難しいのでたぶん出さない
今回も説明が長い
吉親が訪れてから数日後の七月十日の午前7時頃、過去に来てから運動不足解消のために日課の散歩を終えてシャワーを浴びてから体重計に載る。
「おっジャスト100kgまで痩せてる」
100kgを超えていた大輔の体重も日々の運動によって減り続け、短期間で5kg減量していた。
朝飯を食べ終えてパソコンのデータを紙に書き写していると、いつもの様に円光寺の寺坊達が来るので彼らに使っていなかったパソコンを使わせてわからない言葉などを教えるのが最近の日課となっていた。
先日雇う約束をした近隣の村の子供達には交代で二見村に魚介類の買い付け等の買い物や畑の世話をお願いしていた。
カタクチイワシなどの子魚を釜で茹でて油を取った後に干して作物の肥料になる干鰯はこの辺りではまだ普及しておらず、小さな魚は売り物にならないようで安く仕入れることができるので買って来るように頼んでおいた。
刈り取った大麦ははさ掛けしてまだ干している状態で、畑は住職から短期間で実る蕎麦を作ってほしいと言われ蕎麦の種をまいている。
蕎麦は3か月ほどで収穫できるので7月に種を撒いておけば、収穫は10月頃の予定で西暦換算だと一月ほど早いので11月頃になる。
10時ごろインターホンが鳴り外に出ると、吉親含め以前来た武士たちと初めて見る者が4人いた。
「吉親さん今日はどうしたんですか?次は連絡したら、城に来るように言ってませんでしたか?」
「そうなんだが、事情が変わってな。こちらに来ることになった。隣にいるのが殿だ」
言われて吉親の隣を見ると、利発そうなキリっとした顔たちのイケメンがおり、「御初に御目にかかる佐藤様、別所家当主別所小三郎長治と申します。話をしたいのだがよろしいだろうか」
イケメンは三木城主別所長治で美嚢郡・明石郡・加古郡・印南郡・加東郡・多可郡・加西郡・神東群の八郡と、小寺家を臣従させて飾東郡を合わせた九郡を支配する大名であった。
「こちらこそ初めまして、佐藤大輔です。そうですね、家の中に入って話しますか?」
「ありがたい。ではそうさせて頂こう」
急な来客の為、寺坊達には帰ってもらい武士たちを家の中に入れる。入ってきたのは吉親と長治以外には初めて見る3人だった
人数が多いのでリビングで話すことになり全員分の麦茶をグラスに入れてテーブルに出し、彼らをソファーに座らせ大輔はフローリングに胡坐をかいて座ることになった。
「先日叔父上(吉親)から佐藤様のことを聞きまして、狐にでも憑かれたのかと思っていましたが七月三日の織田家の武将達の任官について都に人を遣り確認したところ真の事であると確認できたので、今日は貴方が真に400年ほど先の時からこの播磨に来たという話を信じてこちらに来ました。この先別所家に起こる出来事については叔父上から聞きましたが、佐藤様からももう一度話を聞かせてもらえませんか」
この先の出来事について知りたいというので「私がこの世界にいる時点で私が知っている出来事と、この先に同じことが起きるとは限りません。それでもいいのなら話します」
織田と毛利が争うようになると毛利に付いたことで負け、重宗だけが羽柴秀吉の部下として生き残り、明智光秀の謀反で織田が本能寺で殺され、明智を羽柴が討ち織田家内部の争いを利用して羽柴が織田の支配地を手に入れた後に天下を統一して、徳川が征夷大将軍となりその後300年以上支配して、明治から令和までの流れを簡単に説明していく。
「まさか最後に徳川殿に持っていかれ太平の世を築くとは。自動車という物や、人が空を飛び、あの月に行く日が来るとは不思議なものよ。次に兎はいたのですかな?」
「月には兎どころか生き物なんて何もいないですよ」
長治は少し考えた後にソファーから腰を下ろし胡坐になると、「佐藤様どうか私の家臣になってくれませんか。別所家を守るために貴方様のお力を御貸し頂きたい」と言って深く頭を下げると、今まで黙って話を聞いていた者達も同じように頭を下げる。
「頭を上げてください。こちらこそ元の時代に戻れないのでこの時代で生きていかなければならないので、こちらこそ宜しくお願いします」
大輔も頭を下げて言うと、「頭をお上げください。では今日より佐藤様は別所家中の者ということですな」と言うので、家臣となりましたので「様を付けるのは」やめてほしいとお願いした。
「叔父上に聞いたのですが知行地はこのあたりの開墾されていない土地で構わないと聞いたのですが、このあたりのいなみ野は水がなく長く開墾もされていなかった土地で今であれば他にも良い土地がありますがどうされますか?」
「このいなみ野でいいですよ、私の知っている知識を使えば10年ほどで村も成り立つ(中世の時代に村が存続できること)ので、既にある村などは今までと全く違う統治になると軋轢を生むので遠慮しておきます」
「そうですか、ではどのような役職にしましょうか。役職に応じて役高もお支払いしますがとりあえず100貫でよろしいですか」
「えっ、そんなに貰っていいんですか?もらえるならありがたいですけど、役職はわからないので任せてもいいですか?」
「構いません。それだけ儂は佐藤に期待しているのです。官職の名乗りはどうされますか」
朝廷から正式に補任される官職以外に自ら名乗ったり、主家に許しをもらい名乗るようになる百官名と呼ばれる官職を自官が行われていた。
「官職は遠慮しておきます。朝廷から正式に補任されたときのみで結構です」
(正式にもらわずに、詐称するとかダサいからね)
「そうですか、では姓はどうですか。佐藤がいた時のこのあたりの土地の名である稲美の姓をはどうですか」
(全部断るわけにはいかないから、これぐらいはいいか)
「わかりました。今日から私は稲美大輔を名乗ることにします」
そんなわけで今日から佐藤大輔改め、稲美大輔と名乗ることになった大輔。
明治時代に入るまでの日本では主家などに姓や偏諱を受けて名前を変えることが普通にあった時代であった。
「別所家は織田殿に従い毛利と戦う所存ですが、何かするようなことがあるか意見を聞きたい」
「そうですね歴史をどこで大きく変えるのが良いかという点は難しいですが、今年の九月に明智が丹波平定に入り赤井(荻野)と戦い来年の一月に波多野が明智を裏切るので、波多野の裏切りを止めることですね」
「義兄上を止めればよいのだな、それならば織田殿に裏切りが知られているとでも言って止めればよいので簡単であろう。歴史を大きく変えるかもしれない点で、義兄上を止めることで何か大きな意味があるのか?」
「波多野自体はどうでもいいんですが、八上城の少し北で珪石が採れるんでそのあたりで戦があると困るんですよね」
長治は義兄上の波多野秀治が何か重要な人物なのかと期待したが、波多野家には特に意味がなく周囲の石に価値があると知って少し落ち込む。
波多野秀治の居城八上城の北にある畑などがある丹波国は、明治時代に珪石の採掘が始り丹波珪石は良質な珪石として知られていた。
珪石は製鉄やガラスなどの高温の炉に使う耐火煉瓦の原料となり、珪石煉瓦は国外から輸入していたが国産珪石煉瓦の開発にあたり最初に採掘されたのがこの丹波の地であった。
丹波珪石と耐火煉瓦について説明して煉瓦の製作に、職人として明石の瓦職人で別所家に仕えている橘を紹介してくれと頼むとすぐに許可をもらえた。
「河川改修などの土木工事や田畠の農作業のために今までと違う道具を作るので、木工や鋳物師や鍛冶師も紹介してほしい」
「紹介するのは構わないのですが、あまりこの屋敷のことは他の者達に教えないでいただきたいので職人たちと会うのは三木城か町にしていただきたいのです」
(そうだよな、あまり何も考えてなかったけど明らかにこの家なんて異物だよな」
「今までこの屋敷を訪れた者は、叔父上のほうで口止めをするように言いつけてあるそうなのでもんだいはないかとおもいますが、いつまでもこのままというわけにもいきませぬのでここに砦を立て兵を滞在させる許可を頂きたいのです」
「それぐらいはいいけど、このあたりは水がないから難しいと思うよ。井戸を掘るにしても最低66尺(20m)以上掘らないとダメなはずで水の確保が難しいと思うよ。家は深井戸ポンプって特殊な道具で水を吸い上げいるけど100人や200人なんて人数を維持できる水は無理だよ」
「兵は30人ほどの信頼できる者達を考えており、それであれば近隣の村や川から水を集めるので大丈夫かと思います」
城に行き道工具を作る職人たちに会い、家の周囲に砦を作ること兵を常駐させることが決まっていく。
「鉱山開発にも力を入れたいので、場所はこの地図を見て探すように言ってください」
大輔は3枚の紙に書いた地図を長治に差し出す。
地図には蝋石を産出する兵庫県加東市の平木鉱山の地図と、兵庫県多可郡にある樺坂鉱山を含めた周囲の銅鉱山の地図と、兵庫県神戸市須磨区(摂津国矢部郡)車村と奥妙法寺村付近の炭鉱の地図だった。
平木鉱山は昭和三十五年(1960年)に発見された国内最大の埋蔵量がるとされる蝋石鉱床で、蝋石は耐火粘土の材料や陶器の材料として使われている。
樺坂鉱山は江戸時代に発見されたとされ江戸時代には年間採掘量が10トン、明治時代になると周囲の鉱山を含めて月産40トンを超えていた。
摂津国矢部郡の炭鉱は江戸時代末期に神戸港による海外からの蒸気帆船に石炭を提供するために安政四年(1857年)に採掘が始り、慶応三年(1867年)は262万9800斤(1577トン)を産出していた。
「この蝋石と石炭は何に使うものですか」
「蝋石は耐火煉瓦の材料と陶器の材料になり、石炭は燃える石でここで採れる石炭は亜炭で質はよくないですが薪や炭の代わりの原料になります。石炭を使えば炊事や製塩なんかに使う薪代が1割程度まで下がると思います。九州にある質の良い石炭であれば鍛冶や鋳造でも使えるので、商人に声をかけて探してほしいですね」
「摂津となると荒木殿に声をかけたほうがよいですな。他に何か戦に使える技術はないですか」
(軍事技術か、難しい問題だな。雷酸水銀とかが作れれば火縄銃から進化できるけどパソコンのファイルが見つからないんだよな。何だったか全然覚えてないや。五箇山の培養法を教えればいいか」
「硝石の作り方ならわかります。この紙に書いてあるようにすると5年ほどで毎年硝石が採れるようになり、隔年で採取したほうが量は多いようです。
「屋敷の軒下にある土を採る以外にそんな方法があったのですか、なるほど本願寺はこうして手に入れていたのですな」
パソコンにある技術で使えそうなものは優先して紙に書き写していた大輔だが、雷酸水銀に関するデータは消失していたが硝石製造に関する方法は紙に書き写していた。
戦国時代に火縄銃が伝わると火縄銃に使う火薬の原料となる硝石は日本には鉱床がないため多くを輸入に頼っていた。
古土法と言われる弘治(1555~1558年)の頃にはすでに国内に伝わっていたとされる家の軒下などの雨の当たらない場所の土を集め水に一晩浸けると土に含まれる硝石が溶けだし、硝石の溶けた水を濾過して水分を蒸発させれば残った白い粉が硝石となったが一度採取すると20年以上は硝石が取れないとされ安定生産には向かなかった。
硝石丘法と言われるいつ頃からか伝わったのはわからないが雨などの水が当たらないように建物の中に乾かした草を切り刻み黒い土と腐った水を混ぜ合わせ積み上げていき、尿や糞を注ぎ2か月に1度鋤き返し風に晒すことを5年ほどすると硝石丘の表面の土を削り水に浸けると硝石が採れ、江戸時代には薩摩藩など多くの藩で行われた方法だが海外から輸入した硝石よりもコストは高かったとされる。
培養法は加賀国にある本願寺が支配している地域で山奥深くの五箇山で行われた方法で6月の養蚕の頃に囲炉裏のあたりに2mほどの穴を掘り稗殻、たばこ殻、蕎麦殻、麻の葉、ヨモギ、シシウドを敷き詰め、その上に乾いた土と蚕の糞を混ぜ合わせ、草と土を交互に積んでいき、八月に土を取り出して草と土を交互に積んでいき春夏秋と同じように繰り返すと5年した土からは硝石が採れ、五箇山の民家1300戸で慶応二年(1866年)には10800貫(約40トン)の硝石が生産されていた。
この時代の硝石は主に明(中国)から輸入され、他にシャム(タイ)などからも輸入されていた。
「培養法というものをしたいが、蚕を育てる必要があるな」
「蚕を育てるには桑を育てる必要があるので2年ぐらいで養蚕はできるのでそれまでは古土法を進めて、北側の山の多い地で桑の植樹と養蚕を奨励して、南の海に近い地は木綿栽培を奨励したほうがいいでしょう」
「作物に関しては儂の一存で決められぬので城に戻り他の者と相談して、奨励する作物は考えましょう」
播磨では木綿栽培が奨励され特に水不足に悩む加古郡・印南郡では田畑全体の5割の土地で木綿が栽培され、長束木綿といい天保七年(1836年)に150万反を超えるほどであった。
「今日はよい御話が聞けました。稲美の屋敷を用意しておりますので城に出仕してくだされ、今日はこれで失礼する」
「明日でよければ向かいますよ、数日泊まる準備をしていきますよ」
他にもいくつか話すことがあったが15時を回った頃になると、日が落ちる前に帰るということで明日城に向かうと約束をして長治たちは帰っていった。
長治たちが帰った後、岡村に向かい住職に明日から城に向かうので留守にすると伝えた。
「それではあの子らも連れて行ってくだされ、何かのお役に立てましょう」
「わかりました。彼らに明日の朝家に来るように連絡をお願いします」
住職に子供たちの連絡を頼み、家に帰ると明日城に持っていくものを準備する。
丹波は畑以外にも珪石の産地が多いけど、この辺は説明いるか悩む
ひょうごの主な鉱山・鉱山跡
ここに兵庫県の鉱山などが載っています。
兵庫県多可郡下の銅鉱床 原口九萬
この論文に樺坂鉱山の鉱脈などが載っています
神戸の炭鉱は予想以上の採掘量に驚きますが、九州や北海道などで炭鉱が採掘されだすとすぐに閉山されたので兵庫県民でも知ってる人はほぼいないような感じです
加賀藩の火薬 Ⅲ.土清水薬合所かんけいの新史料:木炭,硫黄箱,アラ・ケシ筒薬,水銀と雷管,ドンドル銃,洋式火薬生産試験,幕末期の鉄砲火薬の化学分析など 板垣英治
雷汞の多量生産に就て 又木武一
この2つの論文を読めばある程度雷酸水銀についてわかると思いますが、出したらほぼその時点で天下統一できると思うので出さないです
加賀藩の火薬 1.塩硝及び硫黄の生産 板垣英治
第4章 加賀藩の黒色火薬製造と土清水塩硝蔵 板垣英治
五箇山の塩消 板垣英治
硝石とか火薬に関しては板垣英治の論文が多いと今更思いました
科学研究費助成事業(科学研究費補助金)研究成果報告書 軍事・社会・政治への革命的影響に関する人造硝石の史的研究 加藤郎
戦国時代の硝石に関してはこの論で説明されてますが、天然硝石はインドのビハール州、中国の河南省、チリ、スペイン、イタリア、ロシアの一部など特定の乾燥地域でしか産出しない。とあり、他の資料でインドのビハール州の硝石鉱床は1600年ごろにイギリス人によって発見されたので日本の硝石は主に中国の河南省産の硝石となります。
シャム(タイ)の硝石は家屋の床下に豚などの家畜を育て、その糞などが堆積した土から硝石を採っていたとされ、ヨーロッパなどで豚小屋で硝石を作っていたのと同じ原理でこの方法が日本に伝わり硝石丘法になったとされています
シャムとは鎌倉時代の頃から貿易をしていて、日本からは刀や鉱物類を輸出していて、シャムからは鎧の材料になる鹿革や刀に使うエイの皮が輸出されていました
薩摩の焼酎も、シャムの蒸留酒が琉球王国に伝わった後に薩摩に伝わっとされ、戦国時代のシャムは重要な国で火縄銃の弾の鉛もシャムから多く輸入していたとされています
合戦で使われる鉛の産地で国産は4割、中国朝鮮が2割、シャムが4割とされ、シャムのソントー鉱山が多いのがわかります
木綿の値段は記録が少なく難しいですが、
文明四年(1475年)木綿半疋 950文 大和奈良
1疋が2反で半疋は1反になり、1反が着物を作るときに大人1人分の布になります
100年以上あとの
文禄二年(1593年)茜木綿3反 180文 常陸水戸
1反あたり60文でこの他の資料で確認すると精銭60文だと思うので鐚銭だと3倍の180文となると思います
1反の価格が950文だったのが100年後に60文になっていることを考えると1593年ごろは貿易の影響か木綿栽培が普及していたのかもしれません
1593年のデータは大和田重清の日記からわかります
加古郡・印南郡の木綿に関しては新しい一万円札の渋沢栄一も関わっていたりします
中世の時代は侍になると名前を変えたりするのは知っている人は多いと思いますが、侍になったときにその土地の名前や功績に由来する名前に変えたりします。
徳川家康に仕えたイギリス人のウィリアム・アダムスは知行地の三浦から三浦按針と名乗ります。




