連れ去られた先は
ぼくは寝返りを打った。柔らかい羽根布団は寝心地がいい。こんなふかふかとした布団は旅に出てからは、初めてだった。
「………」
誰かがぼくの耳にささやきかける。くすぐったい。ぼくは布団の中に潜り込んだ。ハッとして、急速にぼくの意識が目覚めた。ガバッと布団を撥ね退けて、起き上がったぼくの目の前にあの男の子がいた。背筋が凍りつく。
「おはよう、モエギ。昨日はグッスリと眠れたようだね」
男の子は微笑みながら、硬直したぼくの唇に自分の唇を重ねた。そういえば、ぼくのファーストキス!あの時の熱を感じた思いと同じの奪われたセカンドキスにぼくは大きく目を見開いたまま、ますます銅像みたいにカチンコチンに固まった。
ぼくのキス体験は、耳年増のぼくが聞いてた話と大幅に違っていた。グニャッとした生温かい感触が残っているだけで、感激も感動も泣きたくなる気持ちもない。もちろん、夢心地なんてものには程遠い。まるで、鏡に向かってキスの練習をした時みたい。違っているのは冷たい鏡が相手ではなくて、生身の唇が相手だっただけだ。唇を通して相手の熱を感じる。ただそれだけだ。
「モエギ?」
ぼくはベッドの上で自己嫌悪に陥っている。男の子がぼくを後ろから宝物でも扱うように優しく抱きしめた。
「泣いてるの?」
別にぼくは泣いていたわけでない。ただ、状況が掴めないでいる。ここはどこで、ぼくはなぜ、この子と二人でベッドの中にいるんだろう?
「ベッド!」
ぼくは悲鳴気味に声を張り上げた。背筋をゾワワワァァァァァーーーンとした悪寒が走り抜けた。ぼくは自分を抱きしめて、身震いをする。ぼくって、もしかして、もしかしたら、こいつと、まさか、そんなこと、でも、この状況って、あの状況で、この部屋にはぼくたちだけで、ああ、もうぼく、わけがわかんない。ぼくはクシャクシャと自分の髪をかき混ぜた。
「どうしたの、モエギ?」
男の子がぼくの顔を覗き込んだ。ぼくはペチャ、ペチャと自分の頬を両手で叩いた。ぼくがしっかりしなくちゃ。例え、いやぁぁぁぁぁーなことがあったにせよ。ぼく自身が失われたわけではない。よし、がんばる!ぼくはキチンとベッドの上に正座をした。
「ぼく、モエギ・オーダです。年は十三才、あっ、でも、もうじき十四才になります。父親のノブユキさんは、マース国近衛騎士団の隊長をしていて、母親のルイさんは宮廷魔術士長補佐をしています。きみは?」
つられたように男の子も姿勢を正して、ぼくの前に正座した。ピンと背筋を伸ばして、胸をそらせた態度にはそつがない。ぼくたちは互いに見つめ合った。まるで、お見合いみたいだ。
「アザレイ・ジュナシス・エルシュ・ゼニスだ。一応、ゼニス国の国王で、年はこれでも二十八才になる」
ぼくたちは無言で、バカみたいに見つめ合った。
「あの二人が、今のもえぎの両親?」
「きみがゼニス国王で、二十八才?」
ぼくたちは同時に言葉を発し、また、一様におし黙った。ぼくはコホンと軽く咳払いをした。
「きみ、どう見たって、ぼくと同じ年ぐらいにしか見えないよ」
「俺の中にはもう一人の人格がある。暗黒神エリシュオーネだ。俺のこの姿はエリシュオーネが形造っている。俺が前面に出る時とエリシュオーネが前面に出る時がある」
「どうして?」
顔に掛かった髪をうっとうしそうに、アザレイは後ろに撥ね除けた。
「俺の親父、前ゼニス国王が肉体の滅んだエリシュオーネに自分の息子を与えたのさ。ゼニス国が、北エリシュオーネの覇者となることを条件にだ」
アザレイはクククと嘲るように笑うと、おかしくて堪らないといった感じで身をよじらせた。
「バカなことをしたもんだよ。セニス国などと格好つけるから、自分が生きている内にはゼニス国は北エリシュオーネの覇者になれずじまいさ。お陰で、俺はエリシュオーネに身体を取られてこのザマだ」
アザレイがぼくの顎に手をかけた。スッとぼくの唇に自分の唇を寄せる。途端にピクンと身体を震わせた。
「止めろ!モエギはぼくの物だ」
「な、わかったろう。こいつはあんたに執着している。あんたをこうして、自分の物にするために俺の身体を利用してるんだ」
「うるさい、誰のお陰で、このゼニス国が北エリシュオーネの覇者になれたと思ってるんだ。ぼくがおまえに力を貸してやったからだ。ぼくがいなければ、この国などとうに滅びさっていたさ」
ぼくは目をパチパチと瞬かせた。まるで、アザレイが一人芝居をしているみたいだ。声色と話し方を変えて、一人二役で会話をしているのだ。
「俺は別にこの国が滅ぶなら、それはそれで構わないと思ってる。あんたと契約したのは俺の親父で、俺ではない。いい加減にこの身体から出て行け」
「契約が誰だろうと関係ない。ぼくはこの国を北エリシュオーネの覇者に導いた。だから、ぼくにもこの身体を使う権利がある」
「俺はうんざりなんだ。あんたもあんたが捜していたこの女にもだ。昔、俺たちの祖先が何をしたか俺の知ったこっちゃねえ。もう二千年もたっちまってるんだ。気が狂ったあんたは暗黒時代の終わりに原始の神様に倒された。その時にあんたの肉体は滅んだんだ。この女はとっくの昔に滅んじまって、生まれ変わったとしてもあんたのことは何一つ覚えちゃいない」
「うるさい。モエギは必ず、ぼくを思いだす。その証拠にモエギは昔のままだ。ぼくが愛した当時、そのままの姿だ。この長い黒髪もぼくを見つめる黒曜石の瞳も」
アザレイがぼくを抱きしめた。言葉で言いながら、ぼくの髪を撫で、ぼくの瞼に愛おしそうに口付ける。一人二役のその茶番に呆然としたぼくは人形みたいにされるままになっていた。
「ハン、たいそうな執着心だ。その執着心がこの世界を破滅に追込んだ。そうだろう?あんたは神のくせに一人の女を愛した。そう、この女だ。この女のために世界は滅びかけた。なのに、あんたは懲りずに女を追いかけている。女はあんたのことなど忘れちまってるっていうのにだ」
「あっ、あのさ、ぼく、ちょっと口を挟んでもいい?」
ぼくは恐る恐る声を出した。一人二役の終わらない喧嘩は聞いてる方も嫌になる。
「モエギ、何か用なの?」
「何だよ、言いたいことがあるなら、さっさと言えよ」
「うん、あ、あのさ。ぼく、たぶん、モエギって人でないと思う」
アザレイが悲しげに首を力なく横に振った。あ、今のこっちは神エリシュオーネだと気付く。
「ここって、北エリシュオーネなんでしょう?そして、ゼニス国?」
「そうだ。統一前の元の王城だ。元々、ゼニス国は死の壁山脈沿いの東端に位置していた、南エリシュオーネに一番近い国だった」
「死の壁山脈?」
「南ではエリシュオーネ山脈と呼ばれている。大陸を南北に分断したあの山脈のことだ」
「どうして、死の壁山脈なんて言うの?」
「ふん、南の奴らは知らねえんだ。あの山は暗黒時代にどれだけの人の命を奪ったと思う。山脈を越えて、南に逃れようと思った人間は数多くいた。だが、誰も越えられはしなかった。誰も決して越えられないのに、それでも北の人間は希望を求めて南に逃げようと山脈を登った」
「ぼく、暗黒時代はよく知らない。南では暗黒時代の話をする人は誰もいないもの」
「そうさ、南には暗黒神と化したエリシュオーネの中に残っていたほんのわずかな良心から、神の恵がわずかながらも与えられていた。南は天国だった。ところが、北には暗黒神と化したエリシュオーネ本人がいて、世界中の全ての生き物を憎悪し破滅へと追込んでいた。北は地獄だった」
「詳しいんだね」
アザレイは髪をバサッとかき上げた。こっちはゼニス王の方だ。
「俺の中にいるエリシュオーネの記憶さ。あいつは暗黒神と化しても、心の奥ではモエギ、あんたを求めていた」
「でも、ぼくは違う」
ぼくはベッドから下りると、窓辺に近寄った。真っ白くて襟と袖口にフリルがあるレースで作られたドレスみたいなネグリジェは、ぼくには大きすぎた。ズルズルと裾を引き摺って、やっと窓にたどり着くと、目の前にエリシュオーネ山脈が見えた。巨大な地の壁を思わせる山脈の中腹から上は、灰色の雲で覆われていて、南エリシュオーネから見る猛々しい姿に不気味さが付け加えられている。反対側からこの山脈を見るのは初めてだ。なのに、ぼくにはこの景色が懐かしい。
「ぼくは今、モエギだけど、巫女姫だったモエギさんじゃない。『北でぼくは、真実を知る』ぼくの中で誰かがそう言っていた。確かにぼくの姿はモエギさんだけど、ぼく自身はモエギさんじゃないと思う。ぼくは、ぼくはもっとそう、モエギさんを身近に感じていた人。モエギさんの姿で生まれ変わりたいほど、モエギさんを愛していた?」
ぼくは自分の口から出た言葉に戸惑っている。モエギさんを愛していたのは、神のエリシュオーネで、エリシュオーネはぼくの目の前にいるアザレイと同化している。では、ぼくは何者?ぼくは窓辺にもたれかかった。
「もう、いいよ、モエギ。きみが前を思いださなくても、ぼくたちはまた、あの頃のように幸福に暮らすんだ。ぼくはきみが望んだ通りにこのエリシュオーネを平和な世界に統一する。エリシュオーネには、たった一つぼくたちのゼニス国があればいい。ぼくはゼニス国の国王で、きみは王妃になる。今度は誰にも邪魔させない。あの頃と違って、ぼくもきみも同じ人間だ。今のきみには、ぼくの子供を産むこともできる。きみはぼくのそばにいて、微笑んでいてくれればそれでいい」
アザレイが後ろから、ぼくをギュッと抱きしめた。ぼくは恐怖感に襲われた。アザレイから逃げ出そうと、必死で身をよじらせた。
「モエギ?」
ぼくは壁にピタッとへばりつき、室内を壁伝いに逃げた。ドアを開けようと飛びついたが、鍵がかかっていて、カチャカチャと音をたてるだけだった。
「きみはもう、ぼくから逃げられないよ。ぼくにとっては、きみが昔のモエギでなくてもいいんだ。大切なことはきみがぼくのそばにいる、それだけでいい」
ぼくはまた、壁伝いに逃げ、部屋の隅に追い詰められた。アザレイがぼくの前に立ち塞がり、ぼくの髪を撫でる。耳元に口を近づけて、吐息まじりにささやいた。
「ほら、きみはぼくのモエギにこんなにそっくりで、名前まで一緒だ。こんなきみがモエギでないとどうして言える?」
ラピスラズリの瞳が妖しく光っている。狂気が見えるようだ。
「それとも、きみは思いだしたのか?ぼく自身がきみを殺したことを」
ぼくは悲鳴を上げた。違う!ぼくが殺した。ぼくがモエギをこの手で殺した。身体がガクンガクンと大きく揺れる。真実はぼくの中にあった。
「ぼくはきみで、きみはぼくなんだ」
ぼくは虚ろな眼差しで呟いた。バタンとぼくは床に倒れた。事実はぼくに重すぎた。
-パァァァァァァァァーーーーン!
ぼくの中で何かが弾けて、破片は粉々に砕け散った。ありったけの力を振り絞って、ぼくは救いを求めた。たった一人、今のぼくを救ってくれる人がいる。その人の元へと、ぼくは逃げた。ぼくは、自分自身の身も心もズタズタに引き裂いた。自分を徹底的に叩きのめした。自分が自分であることを否定したかった。それでも、ぼくはこうして救いを求めてる。暗闇の中でぼくはガクンと膝をついた。
「モエちゃん?モエちゃんなんだね………これはひどい。どうして、こんな傷を、モエちゃん、しっかりするんだ」
レンダークさんの声?ぼくは暗闇に閉ざされていて、何も見えない。ぼくの身体がフワリと持ち上げられた。ぼくは手触りでレンダークさんの胸を捜して、顔を埋めた。
なぜ、ぼくは女の子で生まれてきたのだろう?許されない罪を犯したぼくにさえも、原始の神様は救いの道を与えてくれた。モエギの血を引く一組の男女がやがて、ぼくの前に現れる。ぼくは彼らの子供として、人間に生まれ変わるのだと。ぼくが切望した人間にだ。
現れたのはノブユキさんとルイさんで、ルイさんは既に新たな生命をその身に宿していた。ぼくの意識はその生命に吸収された。新たなる生命の再生は、ぼくの意識を奥底に沈ませた。ぼくは記憶を消して一つの新たな生命として、この世に誕生した。ぼくが唯一愛した女と同じ名がぼくに付けられた。その時から、ぼくの名はモエギとなった。




