二十三話 露天風呂に来た
顔を真っ赤にして謝るフィルネリアさんと出る時間を決めて男湯の暖簾をくぐる。
中は十年経っているという事前情報の割には清潔感が保たれているが、葵が支配人ということを知っていると相当努力して手入れしている姿が眼に浮かぶ。
きっと自分の指示通りに動いてくれない清掃員にブツクサ文句を言いながら最終的には自分でやることになってるんだろう。
根は真面目な性格だけになぜこんなところにいるのかという疑問は絶えないが、銭湯から出たら話してくれるというなら今はありがたく満喫することにしよう。
「ちゃんと鍵付きのロッカーになってるし。」
昔はカゴに荷物を入れて棚に置くだけの田舎特有の甘いセキュリティーだったが、腕に巻くバンドのついた鍵で管理できるようになっていて素晴らしい。
持ってきたバッグからタオルを取り出し、着ていた服も何もかもロッカーにぶち込むと鍵を閉めて抜き取る。
「おー、ドライヤーもちゃんとしてるやつじゃん。」
千円で買えるようなドライヤーではなく、いくらか出して買うような中堅ぐらいのものだ。
正直髪も薄くなってきた爺さんたちが使うにはかなり勿体無いものだが、なぜに葵はこんなところまでこだわったのか。
首を傾げながら体を洗いに行く。
そこには黒い石造りの洗い場が仕切りも建てられてずらっと並んでいた。
今の所そんじょそこらのスーパー銭湯が比じゃないほどの設備が用意されているが、本当に使われていないことだけが勿体無い。
それを考えると爺さんたちでも使っているだけいい気がしてきた。
「お、夏樹もおったか。」
「ん?父さん?」
ちょうど頭を洗っている時に声をかけられたものだから声の主が誰かを見ることはできない。
しかしまあ、声からして父さんであることに間違いないだろう。
「おう。ここもようなっとるがやろ?」
「良くなってるっていうかここまで来たら別もんだろ。」
鼻高々に自慢するように尋ねてくるが、流石にここまできたら良くなるという言葉の持つ効力を超えている。
場末のラーメン屋で水を頼んだら一杯一万円もするような高級天然水を出されたようなもんだ。
客の求めるレベルを遥かに超えている。
「葵ちゃんがやっちょるき偶に入りにくるが、こらえいぞ。」
「...見りゃ分かるよ。」
風呂なんて入れれば良いと言わんばかりにこだわりがない父さんですら良いというこの銭湯をこのまま放っておくのは世界の損失...いや、汐乃島の損失じゃなかろうか。
「てか良いなら年間パス買いなよ。」
別に車で行けばそこまで遠いわけではないし、田舎特有の余った土地をフルに使った必要以上にでかい駐車場もある。
あそこならどれだけ運転が下手でも絶対に駐車できるだろう。
家の風呂は一度リフォームしているとはいえお世辞にも良いとは言い難い。
近くにこんなにも素晴らしい銭湯があるのだから年間パスを買う価値は十分にある。
「まあ、そう言うな。母さんが家の風呂を気に入っとるき。」
「母さんが?」
意外な理由だった。
父さんが行きたがっていないというなら風呂にこだわりがないのに金を払いたくないとか、運転したくないとか色々理由は想像つくが、まさか母さんが止めているとは。
それに気に入っているって...あんな風呂に気にいる要素はないと思うのだけど、母さんには違うものが見えているらしい。
父さんも家の風呂でいいのなら俺が口を挟むことでもないので構わないが、俺は正直こっちに通いたい。
年間パスだけじゃなくて月間パスぐらい売ってくれないかな。
あとで葵に言っておこう。
「そいじゃ、先行っとくにゃ。」
「はやっ。」
まだリンスを流している途中だというのにもう湯船のほうに行ってしまった。
後を追うように急いで体も洗ってしまう。
「あれ、いないじゃん。」
ぱっと見渡す限りでは父さんらしき影はない。
ぽつぽつと他にもお客さんがいるのは安心できるが、この広い空間にほぼ貸切のような状態になっているのは逆に心臓に悪い。
もし人が誰もいなかったら不安になるぞ。
ひとまず近くにあったところに入る。
少し離れたところには誰かが入っているのが見えた。
「よっこいしょ。」
座るのについ声が出てしまう。
信じられないかもしれないが大人になるとは、動く時にいちいち声が出るということなのだ。
湯船は若干熱めに設定されているがそれでもやはり湯船に浸かるのは気持ちいい。
目を閉じて満喫していると、湯船の表面が波うち始めた。
誰かが入ってきたのか、あるいはあそこにいた人が出たのか。
もし俺が入ってきたことで出て行ってしまったなら若干気まずいが、まあ銭湯なんて誰かと入ること前提の場所なのだから許して欲しい。
「んん?もしかして水野んとこのせがれか?」
お爺さん特有の嗄れた声ではあったが、流石にこの状況では俺に声をかけているはずだ。
誰かと思って目を開くと、全く知らない人だった。
これは本当に知らない人だ。
拓斗はあれでもまあ面影もあるし、拓斗だと思っていたので分かったが、これは本当に記憶にない。
「えーっと?」
「覚えちょらんか。佐藤じゃ佐藤。二丁目の町内会長やっとった。」
二丁目の町内会長という言葉でピンときた。
二丁目といえば小学校のある場所で、その関係で通学路の清掃や整備などを精力的にやられている方だったのでほとんど毎日顔を合わせていた。
「おっきなったなあ!」
「いやいや、拓斗の方がよっぽどでかいが。」
なんとなく気まずいので拓斗の名前を出して話を逸らそうとしたが完全に失敗した。
新しい人間の名前を出したことでかえって興味を引いたのだ。
「あんの悪ガキも店継いでなあ、なんや戻ってきちょったんか?」
「いや、ちょっと帰ってきてるだけやき。」
「なんにゃ、もっと帰ってこんか。」
町内会長をしていただけあってかなりイケイケな性格だ。
いや、こんな知り合いしかいないようなところでずっと過ごしてるんだからそりゃ誰とでも話すようになるか。
その後もしばらく会話に付き合わされ、ようやく解放された頃にはほとんどのぼせていた。
なまじ熱かっただけに余計にのぼせるまでが早かった。
「涼しいところ行こう。」
一旦体を休ませたいので外に出る。
露天風呂へと出るドアを開けると肌寒い風が一気に吹き込んでくる。
「おおお、いい感じじゃん!」
それは今まで見た中で一番景色のいい露天風呂だった。
竹の柵に仕切られている左右とは違い正面には瀬戸内海の海が望める。
まあ夜なのでなんとなく波の音を感じるぐらいのことしかできないが、もし昼間に来たらそれはそれは綺麗な景色だろう。
これを見るだけでもこの銭湯に来る価値があると思えるような、そんな景色があるはずだ。
「ここに入るとするか。景色は見えないけど。」
真っ暗闇しか見えないがそれでも海の匂いがここまで届く。
壁にもたれてぼんやりと心地い暖かさを楽しんでいた。
「ん?お前も来たのか。」
精霊であってもこの銭湯は楽しめるんだろうか。
「楽しいか?」
うんうんと頷く精霊は湯船に浸かっているわけではないが満足していそうだ。
「ならよかったよ。」
精霊は置いて湯船のうちに頭を乗せて上を向く。
この体制が一番楽で時間が遅いこともあり眠くなってくる。
流石に寝ると危ないので瞼が下がってきたらあがるつもりではいるが、果たして体がいうことを聞いてくれるだろうか。
そんな俺を心配するかのように精霊も上から顔を覗き込んでくる。
心配しなくても人様のお世話になるようなことはしないさ。
そんなことになったらお前のご主人様も心配するだろうからな。
...いや待てお前どこから来た!?
「フィルネリアさんについて行ってたんじゃなかったのか?」
これまたうんうんと頷いている。
フィルネリアさんと一緒にいたのは間違いないようだが、しかし意思疎通ができないと不便だな。
「なんでこっちに来たんだ?」
そう尋ねると、指をピンどこかに向けて指している。
指先を辿ると露天風呂のドア、いやその隣の壁の上の方の時計を指しているのか。
えーっと、今は何時かな。
「やべ、もう出る時間じゃん!」




