意地を張ったところで
エピソードの区切りを調整しました。
内容に変わりはありません。
俊宏の店での一見以来、世海はもやもやした気持ちがずっと続いていた。
最後に見た海帆の後ろ姿が忘れられず、ふとした瞬間に蘇ってくる。
ドラマの仕事が始まり、顔合わせや稽古などと慌ただしくしていても、集中している頭の中で彼女のシルエットは常にそこにあり、世海を悩ませた。
このままでは仕事に支障が出る。
そう思い至った世海はとうとう観念して、久しぶりに実家へ帰ることにした。
いつも休日に海帆が世海の実家に来ていることは知っていたので、彼女の休みに合うように調整してスケジュールを立てる。
一度ちゃんと話そう。ようやくそう決心がついてわざわざ実家に帰ったのに、そういう肝心な時に限って海帆はいなかった。
あの大食漢が食事の時間に間に合わないはずがない、と実家の居間で世海は落ち着きなく外を気にしていたが、脳裏に焼き付いたすらりとした姿勢のいい姿が現れることはなかった。
しかも、海帆が来ないことに家族の誰も気にする様子がない。
世海の祖母、林淑芬ですら、孫に近況を尋ねるだけで、他のことは何も聞いてこない。
家族が揃ってるテーブルで、世海は途方に暮れた。
海帆とここで食事をしたのはたった一回だけなのに、彼女がいないだけでなぜこんなにも物足りなさを感じるのだろうか。
ころころとよく笑って、恵君の食事を楽しんでいた姿を思い出す。食べる仕草は優雅なのに、みるみるうちに皿が空になっていくのが不思議で、ずっと見ていられた。
「…………あいつはどうしたの?」
「あいつって誰のこと?」
母親の問い返しに、世海は小さく呟く。
「…………あいつだよ。ミホ。今日は休みだから来るはずだろ」
「あんた知らないの? 小帆は担当部署が増えたから、休みの日が変わったのよ。一昨日、来てくれたわ」
「……………………ふーん」
知らなかった。
ていうか、そういうことは頼まなくても恵君が世海に連絡してきてたのに、なぜ知らせてくれなかったのか。
恨みがましく睨む息子の目付きもどこ吹く風で、恵君は涼しい顔で箸を動かしている。
顔しか取り柄がないやたら態度の悪いイケ好かない男、で終わっちゃうぞ。
俊宏の言葉が、ずうぅんと胸に重く響く。
これはヤバい。絶対によくない。
気持ちだけは焦るのに、世海はどうしたらいいのか、まるで分らなかった。
「王宇さん、在庫チェック済みました。上がりますね」
注文票の記入とサインを終え、海帆は厨房担当のスタッフに声をかけた。
「ミホさん、おつかれ」
穏やかな四十代男性特有の、落ち着きのある深い声に心密かに癒されながら、海帆はバックヤードへ向かった。
ネクタイをゆるめ、カマーベストを外し、ふうと息をつく。
海帆は今、空き要員が出てしまったグロンブル台湾のメインバー「Seagull」のバーテンとして、週に数回夜勤シフトに入っている。
以前のスタッフが突然辞めてしまい、求人が間に合わない上に、他のスタッフではバーが回りきらないため、大学時代にバーテンのバイトをしていた海帆が急遽ヘルプとして入ったのだ。
最初は少々戸惑ったが、店内の配置や在庫更新のタイミング、客層などを把握したらすぐに馴染むことができた。
ホテルグロンブル台湾を使用するお客様は家族連れが多く、バーを利用する人もあまり長居をしないで穏やかに過ごされる方が多い。困った酔客も滅多に現れないので、新宿のバーでクセが強すぎる酔っ払いをあしらっていた海帆としては、余裕を持って店内に意識を行き渡らせることができた。
(でも最近お客様増えたよな)
着替えをし、制服のスラックスをきれいに畳みながら、海帆はため息をつく。少し疲れが溜まっている。
バーは男性客が多く、大半が寡黙に飲む人ばかりなのだか、ここ最近なぜか女性客が増えてきており、しかも連れ立って来店される方が多い。
とてもありがたいことなのだが、なぜ急に客足が増えたのか分からない。
しかもやたらと声をかけられる。
身に沁みた接客業魂で顔や態度には出さないが、結構戸惑っている。
実はグロンブル台湾のバーに新しく入ったバーテンが性別不詳な上、やたらミステリアスな雰囲気があると噂が出回っていて、その物見遊山で来店している女性客が増えているのだが、そのことを海帆は知らない。
しかも初見時の海帆の落ち着いた佇まいときめ細やかなサービスに惚れ込む人が多く、リピーターも着実に増えている。ついでに、カマーベストとスラックスという彼女のバーテン姿を拝もうと、他のホテルスタッフまでもが、バーのヘルプに来てくれたりもしている。
ただ当の本人は、お客様が増えて嬉しいなと思うのと、グロンブル台湾のスタッフは仕事熱心な人が多いなと感心するだけだった。
着替えを終え、バックヤードから出る。
一度スタッフルームへ寄って、次のシフトのスタッフと簡単な打合せと報告書を作成して、ようやくホテルを出た。
深夜だが、こういう時に寮が近くにあると安心する。
グロンブル台湾は、ホテルの近くにあるマンションを丸ごと従業員の寮として借りているので、出退勤が非常に楽だ。
もちろん管理人が厳しく目を光らせているので、友人や恋人などは家に呼べないし、新人などは相部屋となってしまうが、海帆は日本での勤続年数と実績を加味してもらえたので、早々に個室をもらえた。
基本的に誰とでもそつなく付き合うことはできるが、やはり個室はありがたい。
(お腹空いたな。なんか買っていこう)
深夜という時間帯だが、結構ご飯ものを提供してくれるお店はある。
最近お気に入りの鉄板焼のお店は、当然鉄板焼がメインなのだが深夜帯はお粥を出してくれる。その上、テイクアウトにも応じているので、海帆は今やこの店の常連だ。じゃことピーナッツを炒めたおかずや、ネギ入りの卵焼きなどと一緒に食べるのが最近のお気に入りで、一日三食毎回これでもいいかも、と思えてしまうほど美味しい。
テイクアウトにしようかな。
管理人の奥さんは料理自慢で、寮生相手に手料理を振る舞うのを生き甲斐にしている。実際とても美味しいので喜んでいただくのだが、無類の話し好きなのが少々難で、一度捕まると簡単には解放してくれない。
今日は疲れたし、食事が済んだらさっさと寝てしまいたい。海帆はテイクアウトすることに決め、鉄板焼屋へ向かった。
夕飯を決め、歩き出しながら携帯電話をチェックすると、着信があった。
場所は日本、雄一からだ。
かけ直して数秒で懐かしい声が聞こえてくる。
『悪い、電話料金かかるだろう? かけ直すよ』
「ううん、いいよ。そんなに長くかからなければ。どうしたの?」
久しぶりに聞く雄一の声と日本語に、海帆の顔に穏やかな笑みが広がる。
『いや、なんかちょっと声が聞きたくなって』
「なあに、なんかやましいことでもしたの?」
からかうと、実はさ〜と雄一が冗談を返してくる。
数か月前まで普通に交わしていたやり取り。意識していなかった緊張感が静かにほどけていくのを感じる。
思っていたよりも海帆は疲れていたようで、雄一とのこういったやり取りにほっとする。近くにあったコンクリートブロックに腰掛け、しばらくの間、恋人との語らいを楽しんだ。
とはいえ国際電話なので、そんなに長くは話せない。また電話をすることを約束し、だらだらと話しを長引かせながらようやく通話を切る。
雄一との久しぶりのおしゃべりに、満足げなため息が出る。予定外に長く話してしまった。急いで夕飯を買って帰ろう。急ごうとする海帆の顔には、微笑みが浮かんでいた。
だが、暗い夜道に出て数歩、海帆はバッと後ろを振り返った。
誰もいない。
なんだろう、なんだかとても無視できない視線を感じたんだけど。
周囲を見渡しても、怪しい人影は見当たらない。
ホテルに戻るか、鉄板焼屋に行くか、それとも寮に帰るか。
悩んだのは一瞬、海帆は足早に寮へと急いだ。
何をやっているんだ、俺は。
急ぎ足で去っていく海帆の足音を聞きながら、世海は暗がりで頭を抱えた。
怖がらせてどうするんだ、完全に不審者じゃないか。
この間の無礼を謝ろうと彼女の勤め先まで来たのはいいが、カウンターやロビー、海帆がいそうな場所に尋ね人は現れず、かといってホテルスタッフに気軽に聞いて回れる身分でもないため、世海は難儀した。
しばらくしてようやく、海帆らしきバーテンダーがいるという話しを聞きつけ、世海はホテルの地下にあるバーへと向かい、そこでバーテンとして働いてる海帆を見つけたのだ。
普段の清潔感のあるコンシェルジュの装いとは違い、白シャツにカマーベスト、ラフにアップにした髪型の海帆は夜の大人の雰囲気が漂ってとても色っぽく、そつなく客の相手をしながら店内に気配りをしていた。
素直にカッコいいと思った。
話しを聞きつけた時の女性が、少し興奮気味に海帆のことを褒めていたのが分かる。
海帆はどこか人を惹きつける雰囲気がある。昼間のコンシェルジュの時は親しみやすく、どんな問題も顔色一つ変えず解決できる有能さを感じさせるのに、夜の装いを纏うと一変して近寄りがたいミステリアスな人物になる。
職業柄、彼女よりも美人な女性には何人も会っているのに、海帆という存在は世海に強く印象を残すのだ。
そのことに気づいた世海は激しく動揺した。
気づいたというより、気づきたくなかったのにうっかり認識してしまった、という方が正しいか。
とにかく世海は店内に入って勤務中の海帆に会う気にはなれず、彼女の仕事が終わるまで待つことにしたのだ。
だが、上りの時間になって外に出てきた海帆は、携帯電話を確認してすぐに誰かに電話をかけ始めた。
誰と話しているのか、すぐに分かった。
日本語は分からないけど、彼女の表情を見れば察しはつく。
世海は奮い立たせていた意気込みが急に萎えてしまい、立ち去ることもできずその場に留まるしかなかった。
俺はこんなに情けないやつだったのか?
暗がりをぼんやりと見つめながら、世海は自問する。答えは出ない。
「……………………帰ろう」
ぽつんと呟いて、世海は海帆とは反対方向へと歩き出した。
読んでいただき、ありがとうございます。




