危機一髪
エピソードの区切りを調整しました。
内容に変わりはありません。
翌日の世海の一日は、散々だった。
出演ドラマの台本の読み合わせが上手く出来ず、監督に何度もダメ出しをくらいひどく落ち込んだ上、共演者が遅刻してしまったので世海の予定も狂ってしまい、その後の仕事の調整もせざるを得なくなり、現場は静かなのに時限爆弾を抱えているかのような緊張感の中で仕事をする羽目になった。
特に世海のマネージャーの宇翔は、胃が破けるのを心配しているのか、常に胸の下あたりをさすりながら携帯電話片手に四六時中どこかと連絡をとっていた。
「エリック! 待って」
呼び止められ、世海はため息を押し殺して振り返る。
今日のトラブルの張本人がすぐ後ろに立っていた。
「歩くの早えーな。置いて行くなよ」
爽やかな笑顔の青年が、世海の肩に強引に腕を回した。
カイル・チェンは今人気の五人組アイドルグループの一員で、押し出しの強い兄貴風キャラで人気がある。最近、ドラマ出演も増えてきており、俳優業として本腰を入れているらしい。
「なあ、エリック。今日はごめんな? 俺が遅刻したせいでそっちの仕事まで遅れちゃったみたいで」
「別にいいよ。気にするな」
素っ気なく言って、世海はカイルの太い腕から逃れようと体をひねった。
潔癖症の気があるので、世海は人に近づかれて触れられるのが苦手だ。今後、恋愛ドラマものに出るのは必須なのだから、なんとかしてその性分を治せ、と宇翔から口を酸っぱくして言われているのだが、小さい頃からの習性はどうしようもなくて、カイルのようにぐいぐいと距離を詰めてくる奴がいると離れたくなる。
「気にするよ。エリックが仕事に一生懸命なの、知ってるからさ。なあ、お詫びと言ったらなんだけど、この後飲みに行かない? おごるからさ。用事ある?」
「誰かさんのせいでこの後あったはずの用事が明日に延期されたから、ない。でも行かない」
ツレナイこと言うなよ〜。カイルが世海の肩をバンバン叩く。痛い。
やめろ、と腕を振り払って怒鳴りつけようとしたが、カイルの太い腕からなかなか逃れることが出来ない。
「離せ!」
「行くって言うまで離さない〜。頼むよ、お詫びさせて〜」
ギリギリとさらに締め付けられて、世海はとうとうギブアップした。
「……わかった。行くよ」
「よっしゃ!」
カイルが大げさにガッツポーズをする。それを見て、世海は少しだけ笑った。
今日は散々な日だったから、酒でも飲んで気分転換をするのもいいかもしれない。
強引だが、カイルは明るくて人懐っこいし、同年代なので気を使わなくて済む。奢ってくれるし。
普段ならマネージャーの宇翔に必ず確認を取るのだが、彼はまだどこかと連絡を取っていて忙しそうだったし、世海はとにかく酒でも飲んで鬱憤を晴らしたかった。
集中力を妨げる頭の中の存在を、早く消してしまいたかった。
「個室なんだ。そっちの方がいいだろ?」
「うん」
なかば引きずられるようにして、世海はカイルと歩き出した。
「……………………酒を奢るって言ったよな」
「言ったよ? 今日は俺の奢りだ!!」
カイルの豪快な雄叫びに、周囲からイェーイと声が上がる。
いま流行りのスピークイージーバー。落ち着いてしっとりした店内の奥、大部屋の個室内に男女十数人くらいが賑わっている。
見知った顔ぶれがかなりいるので、カイルの業界仲間がほとんどなのだろう。とはいえ、会話をしたことがあるのは一人もいない。
こんなことになるなら、絶対に来なかった。
苦虫を噛み潰したような顔で、世海はロックグラスを傾ける。カイルの顔を潰さない程度に付き合ったら、さっさとお暇するつもりなので、彼の周りには高い高い壁が築かれていた。
その壁は分厚くて、何人かの男女が世海の隣に来て話しかけてきたが、突破できたものはいない。
一人を除いて。
「エリックー、飲んでるー?」
しなだれかかる体を無視しつつ、微妙な部位に腕が当たらないよう体をずらす。
もたれかかる方は、そんな世海の努力に気づいてるのか気づいてないのか、けらけらと笑ってさらに密着してきた。
「もー、相変わらず仏頂面なんだからー。たまには笑ってよー」
メイ・クー。華奢な体つきに雪のように白い肌、天使のリングが浮かんでる黒髪ロングヘアーに少々垂れてる大きな瞳が可愛らしい、まさに清純派の王道を闊歩してるような子だ。去年の若手女優ランキングでも上位にランクインし、男性からの指示が圧倒的に多いことでも知られている。
世海は一度、彼女とドラマで共演したことがあるのだが、その頃よりだいぶ大人っぽくなったようだ。
「酒飲んでも平気なのか?」
「あーやっとしゃべった。ハロー楽しんでる?」
カクテルグラス片手におどけるメイに、世海は呆れたように肩をすくめた。
「楽しんでるよ」
「なら楽しい顔しなよ。お通夜みたいだよ。どしたのフラレた?」
話し聞こか? と首をかしげるメイは天使のように可愛かったが、口にする言葉がいちいち気に障る。
「そんなんじゃない」
「じゃあなに?」
世海の肩に顎をのせるメイの顔をじっと見下ろす。かわいい。今の世海の立場に成り代わりたいと望む男は大勢いるはずで、実際何人か羨ましそうにこちらを見ている。
でもどうしてか、それ以上に心を動かされることがなかった。
はああ、と世海は大きくため息をついた。
「…………なんなの?」
「いやなんでも。お前はカワイイな、メイ」
素直に言った言葉だ。少なくとも世海は褒めたつもりだったのだが、なぜかメイの顔から機嫌のよさそうな笑顔が消えた。
ありがとー、と言って彼女は席を立ってしまう。
また一人になった世海は前よりも虚しくなって、テーブルの上にあるボトルに手を伸ばして、手当たり次第にグラスに注ぎ、一気に煽りはじめた。
「おい、無理な飲み方するなよ」
離れた場所から諌めるカイルを無視して、世海はひたすらグラスに注いだ酒を飲み続けた。
そんな無理な飲み方がいけなかったのか、それともメイの祟りか、しばらくすると世海はすっかり出来上がり、立つのもままならない状態でソファに突っ伏していた。
「おーい大丈夫かー?」
「……………………らいじょーぶ」
声をかけてくるカイルに、世海はソファに潰れたまま返事をした。完全にろれつが回っていない。
おかしい、この程度でこんなに酔うはずがないのに。
世海は酒には強い方で、酔ったとしても多少顔が赤くなるだけで酩酊することなんて今までなかったし、そうなるほど飲んでいないはずだ。
だが、いま彼は強烈な倦怠感に襲われているし、膝から太ももにかけて、熱いのに力が抜けていく感覚がずっとある。
これは、だめだ。帰らなければ。
「かえる……」
「そりゃ別にいいけど、一人で帰れるか?」
らいじょーぶ、と応えて、世海はふらつきながら立ち上がった。
ぐらぐらする視界の中で、なんとか部屋のドアまでたどり着く。それまでに何度か壁やテーブルや人などにぶつかっていた。
「わりーな、酔ってんだ」
倒したスタンド照明に謝罪し、扉を開けようとして、とうとう自分が倒れてしまった。
「言わんこっちゃないな。エリック、しっかりしろ」
腕を引っ張られて立ち上がろうとするが、足に力が入らない。
「少し休んだほうがいいよ。それから帰れば?」
誰かがそう言って世海の傍に跪いた。
顔を上げて相手を確認しようとするが、倒れた拍子にコンタクトを落としてしまったらしく、視界がぼやけて誰だか分からない。
周囲に人が集まっている。注目を浴びているのが嫌で、世海は無理にでも起き上がろうとするが、どうしても足に力が入らなかった。
「無理しないで、休みなよ。ほらソファ行こ」
やたら優しい声が不気味で、冗談じゃないと起き上がろうとしたら、腹の上に何かが乗っている。
「なに……」
「んー? 気持ち悪そうだから、ベルト緩めてあげようと思って」
世海の腹の上にまたがった誰かが、笑みを含んだ口調でそう言うと、ハハハと周囲からも笑い声が上がり、はやし立てる声が大きくなる。
ちょっとした余興とでも思っているのだろうが、世海にとってはとんでもない話で、下腹部の辺りをまさぐられて完全に鳥肌が立った。
「やめろ!」
腹の上に乗る存在を押しのけ、世海は部屋から逃げ出した。
そこからは無我夢中で走り、店もいつの間にか飛び出していた。体を襲う悪寒は収まらず、世海はとにかく明るい方へとふらつきながら進む。
ようやく車が行き交う通りに出た世海はタクシーを拾い、倒れ込むように乗り込んだ。
どこまで、と問いかける運転手に、切れ切れになる意識の中で口にしたのは、
「グロンブルホテル」
「ミホさん、ミホさん!」
フロントスタッフの慌てた声に、異変を感じ取った海帆は帰り支度を途中で止め、すぐに呼びかけた相手のもとへ向かった。
「どうしたの」
「あの、タクシーがすごく怒っていて、酔っぱらいがミホさん呼んでて、お金を払わないって!」
要領を得ない説明だが、取り敢えず現場へ急ぐ。着替えの途中だったが、まだシャツとスラックスを着ていたので、見苦しくない程度に整えながら急ぎ足で歩いた。
連れて行かれたのはホテルのタクシー乗り場。そこに顔を真っ赤にして怒る運転手と、その車内でうずくまる、
「世海くん!」
海帆はタクシーに駆け寄った。後部座席には明らかに具合が悪そうな様子で世海が倒れ込んでいる。
「世海くん、どうしたの? 何があったの」
呼びかけても苦しそうに呻くだけで、応える様子はない。
運転手に事情を聞くと、タクシーに乗り込んで「グロンブルホテルまで」と言ったあと倒れてしまい、そこから一向に起きる気配はなかったという。ホテルに着いて何度呼びかけても目を覚まさず、揺さぶっても朦朧とした様子で「ミホ、ミホ……」と言って倒れる始末。仕方がないので、体を起こそうとすると狂ったように手を振り回して嫌がるのだそうだ。
まだ支払いもしてもらってないのに、と怒る運転手に運賃を支払い、海帆は世海を引き取るため再び声をかけた。
「世海くん、起きて」
さっきよりも更に近くに寄り添って声をかけると、ようやく世海が目を開いてこっちを見た。
「おまえ……」
「うん、海帆だよ。起きられる?」
怖がらせないようにそっと世海の腕に手をかけると、がばっと突然抱きつかれた。
「うわっ……」
不意打ちだったのでバランスを崩し、海帆は世海に抱きつかれたまま車外へ倒れ込む。
「ミホ、ミホ……」
倒れても海帆にすがりついたまま離れない世海からは、強いアルコールの匂いがする。
「世海くん、お酒飲んでるの?」
「……………………のんでる」
呻くように答えた世海は、海帆にすがりつく腕を強めた。
「気持ち悪い、きもちわるい……」
「待って待って待って。まだ吐かないで」
道端でエリック・スンを嘔吐させるわけにはいかない。
慌てて海帆は世海を抱き起こし、そばでおろおろしていたスタッフに声をかけた。
「アビー、どこでもいいから空き部屋を一つ確保して。彼を連れて行くから」
「分かりましたッ」
走り去るスタッフがフロントに駆け込む。
海帆はしがみつく世海をなだめて腕の力を緩めてもらい、体をひねって彼を背負った。
「うわ、けっこう重いな……」
海帆のつぶやきが気に入らなかったらしく、世海がうめき声で抗議する。
ぐったりした世海を背負ったままホテルに入り、近くのトイレへ直行した。海帆の背中で、世海はかなり苦しそうだ。じっとりと汗ばんでいるのが背中越しに伝わってくる。
彼がえづきそうになるたびに、海帆は背中に吐かれることを覚悟したが、世海は口を真一文字に引き結んでどうにか耐えていた。
ようやく目的の場所に到着すると、蹴破る勢いでトイレのドアを開け、世海と中に飛び込んだ。
「世海くん、よく我慢したね。トイレ着いたよ」
声をかけながら慎重に背中から下ろし、吐きやすいように誘導する。態勢を整えさせてから、彼が気にならないようにその場から出ようとしたが、なぜか世海は便器を抱え込んだまま動かない。
「どうしたの?」
「う、うぅ……」
どうやら吐けなくなったようだ。
ここまで必死で耐えてきた分、出すことへの抵抗が強くなってしまったらしい。
それでも気持ち悪さは増すばかりなのか、世海の顔色はみるみる悪くなっていく。
こうなってはしょうがない。海帆は覚悟を決め、袖をまくった。
洗面所へ行き、勢いよく水を出す。
「世海くん、よく見てね。こっち、よく見て」
声をかけると、世海は苦しそうにうめきながら、なんとか顔を上げて海帆を見上げた。
海帆はハンドソープを手に取り、急いで手を洗い始めた。
「ほら、私いま手を洗ってるからね。よく見てね、すごくキレイに洗ったから」
指の股、爪の先を特に念入りに洗浄し、しっかりとすすいだ手の平を世海に見せる。
世海はうつろな目で一部始終を見守り、何がなんだか分からない顔をしながら素直に小さく頷いた。
それを見届けた海帆は世海のそばにひざまずき、彼の後頭部を優しく支え、おもむろに口を開けさせると人差し指をのどの奥に押し込んだ。
「…………!」
驚いた世海に指を噛まれる前に、舌のなるべく奥の方を押して引き抜く。
世海は海帆を押しのけて便器を抱え込み、胃の中のものを思いっきり吐き始めた。
海帆はそばで背中をさすり続ける。
苦しそうなうめき声がしばらく続き、ようやく吐く物が無くなって胃液だけになってきたところで、世海は弱々しくその手を振り払った。
「触るな……」
「うん、ごめん」
海帆はすぐに世海から身を離す。
世海はよろめきながら洗面台にすがりつき、勢いよく水を出して口を濯いだ。
「おまえ、なんてことを……なんでこんなこと…………」
貞操を奪われた乙女の風情で呟き、世海はがくんっと崩れ落ちた。
「世海くん!」
再び海帆に抱きとめられた世海は、抵抗する力もなく目を閉じ、意識を失った。
読んでいただき、ありがとうございます。




