Prisoner of Love ~あなたが現れたあの日から~
ドアベルが来客を告げ、歓迎の挨拶を言おうと振り向いた夏思洋は、入店して来た男を見て絶句した。
「俊凌、どうして……」
上品で隙のない身のこなしで現れたのは、思洋の元恋人張俊凌だった。
俊凌は店内に一歩入るなり、値踏みするように辺りを見回し、ふっと傲慢に鼻先で笑った。
それを見て、思洋の顔はカッと熱くなる。
この店は王偉と思洋が毎日、開店前と閉店後にきれいに掃除をし、ぴかぴかに磨き上げている。小さくて狭いが、内装や調度品にも王偉のこだわりが生かされ、落ち着きのある居心地のいい店として評判なのだ。
俊凌に鼻で笑われる筋合いはない。
「何しに来た」
思洋の険がある言い方に、俊凌はゆっくりと目線をくれた。
見下ろしてくる視線の冷たさに、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。この顔は、俊凌がイライラしている時によくするものだ。昔はこの顔をされると、思洋は身に覚えがなくても謝ったり、必死になって機嫌を取ったりしていた。
でも今は違う。
思洋はただ俊凌に怯えていただけの、恋人とは名ばかりの飼い犬ではない。
王偉と出会い、彼を好きなったことでようやく、俊凌と思洋の関係がどれほどいびつなものだったのか分かったのだ。
「その口の聞き方、誰に教わった?」
俊凌の口調は、怖いくらいに優しい。
表情は相変わらず、上品で穏やかな紳士然としているが、思洋はそこに狂暴な気質が巧妙に隠されているのを知っている。
「思洋、どうした」
厨房から、王偉が出てくる。
店内での思洋と俊凌のただならぬ様子に気づき、王偉はゆっくりと歩いて思洋の隣に並んだ。
「すみませんが、店はまだ開店前なんで。出直してもらえますか」
俊凌のことを客だとは毛ほども思っていない王偉の言い方に、思洋は内心ハラハラした。
突然現れた、背の高い自分とさほど変わらない上背の男に目の前で凄まれても、俊凌は余裕の表情で皮肉げに笑った。
「なるほど。これがお前の新しい飼い主か。随分と安い買い物だな」
「王偉に失礼なことを言うな!」
大事な人を軽んじる発言に、思洋が顔を真っ赤にして叫ぶ。王偉、と俊凌は口の中で呟いた。
「見たところシェフだろ。違うか?」
「答えなきゃいけないのか?」
王偉は腹を立てるでもなく、悠然と構えている。
俊凌は氷のような、冷気が漂う笑顔を浮かべた。
「シェフなら気を付けろよ。そいつは噛み癖がある。特に興奮しすぎると手当たり次第に噛みついてくるから、商売道具の指に食いつかれないようにな」
王偉が眉を潜め、思洋が顔を真っ青にしている間に、俊凌は「また来る」と言って優雅に店を出て行った。
カットの声がかかり、世海はふうと息を吐いた。
すかさずスタッフが側に来て、メイク直しをされる。
「エリック、お疲れ。いやあ、いいクズっぷりだったよ」
「どうも」
通りすぎるスタッフが口々に世海を誉めていく。顔にスポンジを当てられながら、世海はその一つ一つに律儀にお礼を言った。
「エリック! すごく良かったよ。傲慢で、何とも言えない嫌らしさが堪らないね」
「ありがとう」
宇翔の賛辞にも答え、世海はカメラチェックに向かった。
世海が出演するBLドラマ『Prisoner of Love ~あなたが現れたあの日から~』の撮影が開始され、数週間。
不倫スキャンダルで出鼻をくじかれたりしたが、ドラマの進行は着々と進み、撮影は順調だった。
「エリック、ねえ後で時間くれる? 怒鳴りつける時のタイミングがしっくりこないんだ」
カメラを凝視して、自分の演技をチェックしていた世海に声をかけてきたのは、夏思洋役の林子凱だ。
世海より四つほど年下だが、子役出身ということもあり、臆せず話しかけてくる。
世海は子凱に頷くと、彼にもカメラが見えるように体をずらした。
「先輩、俺も後で時間もらっていいすか」
子凱の後に言ってきたのは、王偉役のジェフ・チェン。元野球選手という異色の経歴の持ち主で、子凱と二人でこのドラマの主役を任されている。
「わかった」
ジェフにも短く返事をして、世海は台本を手にその場を離れた。
次のシーンの撮影の前に、セリフのチェックをする。
台本の余白には、世海の書いたメモがびっしりと書き込まれており、それを逐一確認し、演技のおさらいをしていく。
「エリック、スタンバイ!」
「はい!」
ふうと息を吐き、エリックは張俊凌になる。
「張俊凌!」
思洋に呼び止められ、俊凌は振り向いた。
今にも泣きそうな顔をした思洋が、俊凌に駆け寄ってくる。
「お前、なんで、なんであんなこと!」
血の気の引いた顔は、今にも気を失って倒れてしまいそうだ。
「あんなこと?」
何を言ってるのか分からないと首を傾げる姿は、天使のように無垢で、その美しさは俊凌という男の底のしれない冷酷さを際立たせ、思洋をますます絶望させる。
「あんな、俺の……」
「ああ、お前のイキ癖のことか」
「やめろ! でたらめ言うな!」
思洋が悲鳴みたいな声を上げる。
通行人がちらちらとこちらを見てくるが、俊凌は気にすることなく、思洋に微笑みかけた。
「でたらめじゃない。何度お前に噛まれたと思うんだ? お陰で俺は外科医になる道を断念したんだぞ」
「う、嘘だ……」
呆然とした顔で、思洋がつぶやく。その表情を見て、俊凌の胸が得も言われぬ満足感で満たされる。
俊凌は手を伸ばすと、思洋の後頭部の髪を掴み、自分の胸へと引き寄せた。
「うぅ」
顔を歪ませる思洋に、俊凌はことさらに優しく囁く。
「思洋、戻ってこい。もう充分反抗して、気が済んだだろう? たかが浮気ぐらいで大人げないが、今回は俺も少しは悪かったよ。迎えに来てやったんだ、一緒に帰ろう」
「嫌だ、帰らない。俺は、お前とは別れたんだ!」
強情に言い張る思洋の髪を掴む俊凌の手に、ぐっと力が入る。
思洋はさらに呻いたが、きっと俊凌を睨みつけた。
「俺は、もうお前に振り回されるのはうんざりだ。息を吐くように嘘をついて、俺を騙して、や、優しくするフリをして、また騙されて、もううんざりだ! お前みたいな冷たいヤツ、付き合いきれない」
「俺が冷たい? 相変わらず、お前は馬鹿だな、思洋」
俊凌は微笑む。とても優しく。
思洋の大きな目が恐怖で開き切り、涙が溜まっていくのを満ち足りた気持ちで見下ろす。
「俺ほど優しい男なんて、そういないんだぞ」
いじめて、泣かせて、傷つけて。ボロボロになるまで痛めつけた後、とろとろに甘やかして優しくするのが、何よりも好きなのだから。
「俺は優しい男だ。お前が一番よく分かっているはずだ」
吐息のように囁いて、思洋の頭をぐっとさらに近づける。
思洋の顔がさらに歪むのを見て、世海は思わず手を緩めてしまった。
カット! と監督の怒号が響き渡る。
「エリック何をやってるんだ!」
「すみません」
「張俊凌はそんなところで手を緩めたりしない! むしろさらに締め上げてくるようなヤツなんだ! お前が理解しないでどうする!」
「はい」
一通り監督から怒鳴られた後、世海は後頭部を撫でている子凱に声をかけた。
「悪い。痛かったか」
「へーき。それより、ガシガシきて! ガシガシと! 俺のこと愛しすぎて壊したい、てぐらい激しく」
茶化すような言い方だが、子凱の目は真剣だった。世海は頷いて、気を引き締めようとしたが、監督が小休憩を告げたので少し離れた場所まで行き、ぐったりと座り込んだ。
演技とはいえ、乱暴な動作は気持ちが疲弊して、自分自身も相当なダメージを受ける。特に張俊凌という男は、元恋人を傷つけて弄んで悦ぶという男なので、相当理解を深めないと演じきれない、という焦燥感もあって世海は余裕を持てない。
「先輩、お疲れさまです。凄く迫力がありました」
ジェフが話しかけてくる。世海は少しだけ顔を上げて、ありがとうと呟いた。
「鬼気迫るような演技でした。どうやって入り込んでるんですか?」
ジェフは真面目だ。元々スポーツ選手だったということもあり、努力することを惜しまない。質問もストレートだ。
「入れ込めてはいないな、まだ。ただ理解しようと悪戦苦闘としてる段階、てところか。手探りだよ」
「そんな風には見えませんでした。マジ張俊凌の気持ち悪さが乗り移ってましたよ。ゾワゾワしましたもん」
「そうか」
ジェフはため息をついた。
「俺、ちゃんとできるかな。張俊凌のこと殴れるかな。なんか先輩の演技に圧倒されちゃって、ビビりそう」
張俊凌はあの後、夏思洋を追いかけてきたジェフ演じる王偉に殴られるという展開になっている。
明らかに気後れをして、尻込みしているジェフの背中を、世海は強めに叩いた。
「怯むなよ。張俊凌のことを気持ち悪いって思った気持ちを、そのままぶつければいいんだよ」
励ますと、ジェフは迷いを吹っ切った顔で言った。
「ありがとうございます。俺、思いっきり殴りに行きます!」
「……………………顔には当てるなよ」
撮影が終わった深夜帯。世海の疲れた体は、通い慣れた道を歩いていた。
ホテルグロンブル台湾のメインバー『Seagull』。
入店すると、いつものバーテンダーが今夜も、洗練された店内の主として静かに君臨していた。
姿勢正しい優雅な姿を見ると、世海は仕事が終わって帰ってきたんだと実感する。
海帆は世海に気づくと、ふと微笑んで、飲み物の支度を始めた。
「おかえり」
いつもの席に世海が座ると、小さく声をかけられる。
それを聞いただけで、世海の体にわだかまっていた疲労やストレスが流れ落ちていく気がして、世海はほうとため息をついた。
「疲れてるね」
「うん」
頷くと、いつもの飲み物が目の前に置かれた。
「なんか食べる?」
「適当に、頼む」
海帆は頷くと、注文を伝えに厨房へ行く。
その後姿を世海は見つめていた。
ここ最近は、海帆がシフトに入っている日は必ずSeagullに行き、そこで過ごすことにしている。
今ではすっかり常連である。
カウンターに戻ってきた海帆が仕事をする姿を、飽きずに眺めて食事を待つ。
世海はぼんやりしながら、張俊凌について思いを巡らした。
なぜ彼は、あんなにも夏思洋を追い詰めるのだろうか。設定では、最初に恋に落ちるのは張俊凌で、あらゆる画策をして夏思洋を手に入れる。
そして本性を現し、夏思洋を散々な目に合わせて愛想をつかされ、逃げられるのだ。普通ならそれで終わりなのに、張俊凌は自信満々で夏思洋を迎えに来る。夏思洋は自分の元へ戻ってくると、信じて疑わずに。
なぜ、そんなにも自信にあふれているのだろうか。
一度離れた恋人が、また戻ってくると、どうして信じられるのか。
世海は、海帆と再会した日の事を思い出した。
到着口に現れた、二十年ぶりに会う幼馴染のすらりとした姿を。
俯いて、唇を噛みしめる。
恋愛なんて結局、先に愛してしまった方が不利じゃないか、負けではないか。
情けなくて、みっともないだけなのに、なぜ張俊凌はあんなにも堂々としていられるのか。
「お待たせ」
声をかけられ、世海は、はっとして顔を上げた。
目の前に、海帆の顔があった。
「どした? ごはん、できたよ」
世海はじいっと海帆を見つめたまま、固まってしまった。
海帆はいつまでも自分を見つめて動かない世海の前で、ひらひらと手を振る。
その指先に唇が触れた時のことを、世海は思い出した。
ほんの微かな接触だったが、あの感触は今でも鮮明に世海の唇に残っている。
「世海くん?」
首をかしげる海帆に、世海はわかってると呟いて、目の前に置かれた皿に目を落とした。
「ずいぶん豪勢だな」
「この間おいしいって言ってたでしょ。だからまた作ってもらった」
初めてこの店に来た時に出してもらったサーモンとポテトのサンドイッチに、鶏軟骨の唐辛子味炒めと帆立貝と白桃のコリアンダーサラダ。
夜はあまり食が進まない世海のために、ハーフサイズで揃えてくれている。
「ちょっと多かったかな?」
「いや、いただくよ」
そう言って、世海はサンドイッチを手に取る。
ゆっくりと頬張りながら、世海は幼馴染のことを見つめる。
張俊凌については、まだ理解できないことばかりだ。あの男の闇は深い。でも、闇の深さでは自分も同じなのかもしれない。
一つだけ分かったことがある。
きっと恋愛においては、先に愛した方が強いのだ。
読んでいただき、ありがとうございます。




