ネオンの下、渦巻く噂
——エリックは頑張って筋トレしてたよ! 応援してあげてね!——
世海の親友、呂俊宏からのメッセージには、腕立て伏せを黙々と行う世海の動画が添えられていた。
——ミホさんが来なかったから不機嫌になってたよ!——
というメッセージも来ていたので、私が行ったらますます怒らせてたかもよ、と打ち込み、頑張ってねと伝えておいてと返信しておく。
男同士で気兼ねなく楽しい時間を過ごせたようだ。
俊宏からのメールに返信を送った海帆は、久しぶりに穏やかな顔になっていた。
「ミホさん、何かいいことあったんですか?」
アビーが興味津々と言った様子で、海帆を覗き込んでくる。
ここ最近、エリックを巡る騒動の件で張り詰めていた海帆の表情が、いつもの柔らかなものに戻ってホッとした様子だ。
「エリックからですか? 元気にしてます?」
「違う人からよ」
嘘はついていない。送られてきたのは世海の近況だったが、送信者は俊宏だ。
「なんだぁ、そうなんですね。エリックがどう過ごしているか知りたかったのに」
海帆の隣で、揚げたてのカキフライをつついていたジェシカが残念そうに言う。身は小ぶりだが、クリーミーで揚げ具合のいいサクサク食感なカキフライは、胡椒をつけて食べると台湾ビールにとてもよく合う。その香ばしさと冷えたビールの刺激が、一日の終わりに染み渡るようだった。
海帆もカキフライを皿に取りながら、少しだけ首を傾げて聞いた。
「そんなに気になるの?」
「そりゃそうですよ!」
ジェシカは大きく頷いた。
「あの記者会見以降、エリックの情報はパタッとなくなっちゃったんですから! SNSも更新なくなったし、事務所からもなんのお知らせもないんです。完全に沈黙しちゃってるから、ファンが動揺してますよ」
「そうなんだ」
海帆はそう言って、瓶ビールを傾ける。黄金色の液体が、夜市のネオンを反射して細やかにきらめいた。
仕事終わり、海帆はジェシカとアビーに誘われ、地元民で賑わう夜市の屋台に来ている。
夜の時間帯なのに、店から漏れる明かりによって、雑多な人波が暖かな色に染め上げられていて、これから活動する人も多そうだ。
炒め鍋の乾いた音、スパイスとニンニクの混ざり合った香ばしい匂い、そしてあちこちから聞こえてくる人々の弾んだ話し声。地元民に愛されている夜市は活気があり、人々の様子も交わされる会話も様々で、気兼ねのない雰囲気があった。観光地化された場所にはない、生活の息吹がダイレクトに感じられるこの空間には、不思議と心を解きほぐす力がある。
一行は道路に面したオープンエアの席に座り、思い思いに注文した品をつついて瓶ビールで乾杯した。
「僕も気になってました。エリックは結構マメに更新してたから、いつ再開するんだろうって」
この中の唯一の男性である周路陽が、アビーの隣に慎ましやかに座って、隣の席の彼女へせっせと料理を取り分けながら発言した。
ここ最近の怒涛の業務による激務で精神力と体力がついた周路陽は、かつての頼りなさが嘘のように精悍な顔つきになってぐっと大人っぽくなってきているが、どうも今ひとつ年上のアビーに尻に敷かれている。ただ本人は幸せそうだ。
「そんなことになっているんだね」
世海からしばらく待機の期間に入ったとは聞いていたが、ファンに対してほぼ音信不通の状態になっているとは、海帆は詳しく知らなかった。
「心配させてるんだ」
「ファンというのはいつだって心配しているものですけどね。沈黙の期間は必要だって、ダニエルも言ってましたし」
「ダニエルが?」
ジェシカの友人であるダニエルは、エンタメ情報に妙に詳しい。海帆は話の続きを聞こうと、ビールを置いて口をつぐんだ。
台湾料理の定番である、ニンニクを効かせたシャキシャキの空芯菜炒めを箸でパクつきながら、ジェシカはダニエルからの受売りを披露する。
「スキャンダルが起きた後は、こういう沈黙の期間を作ることが必要なんだそうです。メディアから完全に姿を消すことで、世間に対して自粛して反省している印象を与えることができるそうなんですよ」
「なるほど」
言葉とは裏腹に、ジェシカの表情は納得してはいなさそうだ。眉間にわずかなシワが寄っている。
「記者会見まで開いて、自分の言葉で謝罪したんだから、これ以上の反省は必要なんですかね? 十分だと思うんですけど」
「————反省が足りないって言ってる人もいるんでしょう?」
海帆の言葉に、ジェシカはふんっと鼻息を粗くした。
「そんなのは一部のアンチが言ってるだけです。あいつらは、とにかく事を大きくして荒立てたいだけなんですよ。しかも、最近じゃわざわざ面倒を起こすための荒らし役まで準備してるんですからね」
「荒らし役ってなに?」
アビーが不思議そうに箸を止め、首を傾げた。
「特定の相手を炎上させるのを目的としている人たちのこと。いわゆるネットトロールって奴。こういう人たちは純粋なアンチとも違うんだよね。ターゲットの相手に対して特に個人的な恨みや繋がりがあるわけでもない奴らがほとんどで、周囲を巻き込んで大騒ぎするのを楽しむの。わざと議論を巻き起こすような過激な事を言って、それに一般の人が反応して、どんどんと膨れ上がって収集がつかなくなる状況にゾクゾクする、そういう趣味の人種こと」
ジェシカの説明を聞いて、うんざりした表情をするアビーに、海帆も共感せざるを得ない。世の中には、他人の不幸や混乱を燃料にして生きる人間が確かに存在する。
「その人達が騒動を煽っているの?」
海帆が聞くと、ジェシカは頷いた。
「ダニエルが見つけたんです。彼はエリックの事も好きでしたから、今回の騒動の動向を細かくチェックしてたんですよ。そしたら、自称ファンて言う人達の発言の中に、どうにも不審なものがあったそうで、探ってみたそうなんです。そしたらやっぱり組織的な動きが見えて、すぐにネット上で注意喚起をしてました」
凄いな、ダニエル。普段、どういう仕事をしている人なんだろう。
「何が目的でそんなことするんだろ」
海帆の純粋な疑問の呟きに、ジェシカは諦めたように肩をすくめて首を振った。
「目的なんて持っていないんですよ。ただただ、世間を騒がせたいだけです」
「でも、それにしてはしつこすぎない? あの画像も相変わらず加工されまくりで出回ってるし。なんかエリックが復帰できないように長引かせてるような気がする」
「それはあるかもね」
アビーの指摘に、ジェシカは大きく同意した。
「あの記者会見自体は世間的にも好意的に受け止められていたし、何よりタイミングがよかったって、ダニエルが言ってたから。エリックの事務所の対応も印象が良かったんだよ。それなのにさ!」
瓶ビールを乱暴に掴んだジェシカが、勢いよくグラスに注ぎ足して煽るように飲み干す。
「このまま騒動が沈静化していってくれるかなって思っていたのに、そしたらまたあの画像が出回っちゃって、ファンは傷つけられまくりよ。辛すぎてエリックから離れていく人もいるんだから」
タンッとガラスの瓶をテーブルに置くジェシカの仕草には、隠しきれない憤りが感じられる。
「ジェシカ」
アビーが嗜めるように言って、そっと海帆の様子を伺う。
その視線に気づいたジェシカはハッとした顔をして、隣の海帆に向き直った。
「ミホさん、わたし……」
「気にしないで、心配してくれてるのは分かってるから。私は大丈夫」
海帆はにっこりとジェシカに笑いかけた。
「その笑い方が怖いんです」
「なんでよ、本当に何とも思ってないってば」
苦笑した海帆は、大皿に残っていた手羽先を取ると、ジェシカの皿に取り分けてやった。自分の分もついでに取り皿へ移す。
「ジェシカさ、最近やけにエリックに肩入れしてるよね。前はそうでもなかったのに、急にファンになっちゃったの?」
アビーがふと気になったように聞いてきた。
ジェシカはずっとロビン・ルオという人気俳優に熱を上げていたのだ。
「Coquilleフェスに行ってからさ、エリックの見方が変わったんだよ。最初は、なんかスカしてそうな気取った奴だな~って思ってたんだけどさ、やっぱフェスみたいな生の舞台で、直に目の前でああいうパフォーマンスを見せられるとさ、分かるのよ、その人の人間性が。積み上げてきた経験とか、努力して身に着けた品性っていうのがさ。ここまで来るのに、いっぱいいっぱい頑張ってきたんだな~って痛いほど伝わってきたのよ!」
「よく分かんない」
本気で分からないという顔をして首をかしげるアビーを哀れむように見つめ、ジェシカは盛大にため息をついた。
「あんたもCoquilleフェスに参加してたら良かったのよ。ねーミホさん。楽しかったですよねー」
「そうね」
海帆は曖昧に、しかし肯定の笑みを返した。
確かに楽しかった。途中で抜け出したけど。
むうっと不服そうな顔をするアビーを気遣って、周路陽が慌てて話題に割り込んだ。
「じゃあ、僕達も来年は一緒に観に行こうよ、Coquilleフェス」
「チケット取れるかな? 凄いチケットだったんだよ」
「蔡主任にまたタカればいいじゃない!」
「蔡主任を甘く見ない方がいいですよ。あの人は恩を売る代わりに、後から何倍もの見返りを要求してきますからね、絶対」
「げ、マジで?」
三人の賑やかで他愛のない会話のやり取りを、海帆はグラスを傾けながら温かい気持ちで聞いていた。
今日、こうして夜市に連れ出してくれた三人に心から感謝したい。張り詰めていた心の糸が、程よいアルコールと熱々の美味しい食事、そして何より気の置けない友人たちとの他愛のないおしゃべりによって、少しずつほどけていくのを感じる。
「来年だったらエリックも元気に復活してるよね?」
「当り前でしょ! 今だって大変な時期だけど、次に向けてしっかり準備をしているはずよ。ね、ミホさん!」
力強いけど、どこかすがるように海帆の事を振り返ったジェシカに、海帆はまっすぐに見つめ返してしっかりと頷いた。
「そうだね。本人は元気にしているよ。今は行動を慎むべき時だから、その中でやれることを精一杯やるんだって言ってた」
「なんだ、やっぱり連絡取ってるんですね!」
ジェシカの嬉しそうな声に、海帆はやれやれと肩をすくめた。
このくらいの近況報告なら、親しい友人たちに伝えても問題はないだろう。
「元気そうならよかったです。ドラマも降板になったってニュースで見たから、落ち込んでるんじゃないかと思って心配してたんです」
アビーのホッとした言葉に、ジェシカが再び不満げにかぶさってきた。
「刑事モノのサスペンスでしょう!? 私もすごく楽しみにしてたんだよ。早速、代役が発表されたよね」
ジェシカのトゲのある言い方に、周路陽が首を傾げて聞き返す。
「え、早いね、もう決まったの? 誰になったの?」
「カイルよ」
その名前を聞いた瞬間、海帆は手に取っていた手羽先を、危うく落としそうになった。
「……カイルって、あのカイル・チェン?」
動揺を押し隠して聞き返す海帆に、ジェシカは強い口調で頷いた。
「そうですよ、あのカイル・チェンです。ミホさんも知ってますよね、あの不倫騒動の時に、手引をしていたヤツですよ!」
腕組みをして険しい顔をしかめるジェシカに、アビーが怪訝そうに相槌を打つ。
「カイル、最近ちょくちょく出てきてるよね。もう活動復帰するんだ」
「そうなのよ、早すぎるわよね! あんなことしておいて。もっと長く謹慎しなきゃいけないはずなのに」
「確かに」
意気投合するアビーとジェシカ。周路陽はアビーが怒りすぎて興奮しないように、そっとその背中を優しくさすっていた。
「でも、復帰していきなり主役級の役を任せられるなんて、それはそれで凄いよね」
おずおずといった様子で感想を漏らす周路陽に、女子二人はキッと鋭い視線を浴びせた。
「事務所がゴリ押ししたに決まってるじゃない。主役やれるほど経験積んでないわよ、カイルは」
「そうだよ。しかもあの騒動について自分の口からは何のまともな説明もしないで、謝罪声明だけで済ませちゃってさ。ほとぼりが冷めたらシラーって戻ってきて。カイルこそ反省してるのかって疑いたくなる」
「エリックの騒動があったから、みんなそっちに注目し始めて、カイルが関わった不倫騒動なんてすっかり霞んじゃったんだよ。でなきゃカイルがこんなに大胆に活動できるはずがない。王考文だって何食わぬ顔で戻ってきたしね。ほんと信じらんない! メイなんてまだ自粛中なのに。あたしそれも気に食わないんだよね。いくら大物だからって、そんな簡単に許されていいはずがないんだよ! 不倫は!」
「そうだよね!」
ぷりぷりと憤る女子二人を持て余した周路陽が、助けを求めるように海帆の方をチラリと見た。
「ミホさ~ん……」
それまで静かに二人の熱のこもった会話を聞いていた海帆は、落ち着いた低めのトーンでジェシカに問いかけた。
「カイルが復帰したのって、大体いつ頃なの?」
突然の問いかけに、ジェシカは少しの間だけ考えるように天井を見上げてから答えた。
「ハロウィンが終わって少し経った頃ですね。エリックのコスメが販売されたぐらいです。バラエティ番組に顔出しで出演したのが最初だったと思います」
世海のコスメレビューに誹謗中傷記事が載り、不穏な空気が漂い始めたあの頃か。
「復帰直後は、ネットの反応はどうだったの?」
「早すぎるって意見の方が多かったですね。あたしもそう思いましたもん。でも、直後にエリックのコスメでちょっとした騒ぎとかも持ち上がって、なんだか世間の目がそっちに逸れちゃって、うやむやになった感じでした。本人も最初は大人しかったし」
「その頃はまだ控えめにしていたんだ?」
「そうなんですよ。早めの復帰だから抑えてるんだな、て思ってました」
ジェシカが不満そうに唇を尖らせる。
「カイルがいたグループ、T-PEXの他のメンバーなんてかわいそうですよ。メンバーのカイルがあんなこと起こしたから、グループとしての音楽活動もほとんど休止状態です。もうこのまま解散しちゃうんじゃないかって噂されてます」
「僕、T-PEX結構好きだったんだけどな……」
周路陽が残念そうにポツリと呟いた。今度はアビーがその背中をさすっている。
「カイルはいいタイミングで復帰したんだね」
海帆の静かな呟きに、ジェシカは強く大きく頷いた。
「本当にそうですよ、運がいい奴です。エリックの騒動が重なったから、カイルの活動を誰も気にしなくなってきちゃったんですよ。エリックなんて、ドラマの放送が中止になりそうなんて噂まで出てきて……」
「ええ! そうなの!?」
「そんな!」
アビーと周路陽が揃って驚きの声を上げる。
海帆も思わず目を見張り、ジェシカの顔を凝視した。ジェシカは深い溜息をついて、がっくりと肩を落とした。
「まだ決まったわけじゃないけど、局の判断としてはそうなる可能性が高いって、ダニエルが言ってたんです」
「だって最終回まであと一話なのに!」
アビーの悲壮な声を拾って、周路陽も頷いている。
海帆も聞き捨てならない。
「記者会見は好意的に受け止められたんでしょう?」
「そうなんですけど、またあの画像が出回り始めて、そのことでファン同士でも揉めることが増えて。そういう治安の悪さって、かなり影響がでるみたいなんですよ」
「本当に、エリックを復帰させないように誰かが企んでいるのかな」
周路陽の思わず零したその呟きに、アビーがぎょっとしたように慌てて隣の周路陽の脇腹をひじで強めにつついた。
「イテッ、なに……」
「滅多なことを言わないで!」
「そうだよ!」
ジェシカまで加勢してきたので、周路陽はなすすべがない。
三者三様の感情的なやり取りが目の前で繰り広げられているのも目に入らず、海帆は卓上のグラスの一点を見据えたまま、頭の中で思考を巡らせていた。
「ジェシカ」
名前を呼ばれ、アビーと一緒に周路陽をつつき倒していたジェシカが、動きを止めて振り返る。
「はい、なんでしょう?」
「お願いがあるんだけど————」
読んでいただき、ありがとうございます。




