陣中見舞い
じっとりと湿り気を帯びた空気が、部屋の中に充満している。
空調は効かしていたが、肌にまとわりつく不快感を拭い去るには程遠く、さらに温度を下げようとしたところで、ピンポーン、と無遠慮なインターホンの音が鳴った。
「……よお」
玄関のドアを開けると、そこには見慣れた顔があった。親友呂俊宏の姿を目にした世海は、彼を迎え入れるために体を少し脇に寄せた。
だが、俊宏はいつものように我が物顔で上がり込んで来る様子はなく、ドアの開いた隙間で足を止め、しばらくその場に立ったまま、ぽかんとした顔で世海の全身を凝視している。
「なんだよ」
「……なんでお前、そんなに汗だくなの?」
怪訝そうに俊宏に言われて、世海は額の汗を手の甲でぐっと拭った。髪の毛先から滴るほど汗をかいて、トレーニングウェアの胸元にしみを作っている世海の様子を、俊宏は珍しい見せ物でも発見したかのように、しげしげと眺めている。
そんな親友を、世海は胡散臭そうに睨んだ。
「入んないのかよ。閉めるぞ」
「入るよ、入る入る。お邪魔しまーす」
容赦なくドアを閉めようとすると、親友はするりとした動作で滑り込んできた。
そのまま慣れた足取りで廊下を抜け、ダイニングへと向かっていく背中に向かって、世海は声をかける。
「で、何しに来たんだ?」
「陣中見舞いだよ、陣中見舞い。ほら、ビール。それと酒の肴。俺の手作りだぞ」
俊宏は手に提げたパンパンのコンビニ袋を誇らしげに掲げてみせた。袋の隙間から香ばしい五香粉とスパイスの香りがほのかに漂ってきて、胃袋をかすかに刺激する。世海は何も言わず、キッチンからグラスと平皿を数枚取り出して準備を始めた。
「おお! お前の金魚も元気そうだな。相変わらず生意気そうだ!」
リビングの隅、薄暗い部屋の中で青白くライトアップされた水槽の前で、俊宏が声を弾ませた。
この家の真の主であるかのように、悠然とした尾びれの揺らめきで水中を漂っていた金魚は、水槽のガラス越しにずいと寄ってきた無礼な闖入者に対して、あからさまな軽蔑の視線をよこし、追い払おうとガラス面に向かって頭突きをかましてきた。
「元気だったか!」
歓迎されてると盛大に勘違いして挨拶のつもりで水槽のガラスを指で突つく俊宏と、怒りに任せて頭突き倒す金魚の攻防を、世海はしばらく眺めていたが、やがてうんざりしたように肩を落とした。
「いい加減もうやめろ。金魚がストレスで死ぬ。さっさとこっち座れ」
「なんでだよ! 挨拶してるのに」
しびれを切らした世海の声に、俊宏は残念そうに溜息をつきながらソファへと移動してきた。
ソファテーブルには、手際よく準備されたささやかな酒盛りのセッティングが完成している。
俊宏はいそいそとソファの深みに体を沈めると、残念そうに溜息をついた。
「ミホさんも呼ぼうと思って声をかけたんだけど、遠慮されちゃったよ。お前によろしく言っておいてってさ」
「……今は会えないからな」
缶ビールのプルトップを引き抜き、爽快な音を響かせながら世海が言った。俊宏は缶を口に運ぼうとした手を止め、意外そうに世海を見つめる。
「会っちゃダメなのか?」
「今は、な。できるだけ接触しない方がいいって言われているんだ。ここに来るまでに、外に怪しい奴がいただろ」
「いたな。何人かカメラ持ってる奴。隠れているつもりなんだろうけどさ、結構目立つもんだな」
世海はうんざりした顔で眉間にしわを寄せ、冷えたビールを喉へと流し込んだ。苦味が口いっぱいに広がる。
「しばらくはこの状態が続くから、海帆とは会わない方がいいって言われてるんだ。あいつは一般人だし……一度、クラブで俺と撮られてる」
淡々と説明する言葉とは裏腹に、世海の表情には隠しきれない不満と不機嫌さが滲み出ていた。隔離措置が最善であると頭では理解していても、海帆との接触を禁止されている今の状況がストレスなのだろう。
俊宏はそんな親友の葛藤を察して、目の前にさらにもう一缶のビールを置いてやりながら、のんびりとしたいつもの口調で言った。
「あの週刊誌に載った、クラブで撮られたやつか。あの時写っていたミホさん、カッコよかったなー」
「…………まあな」
満更でもなさそうに返事をする世海。
機嫌を直した親友にも、俊宏は笑みを向けた。
「お前も男らしくてカッコよかったぞ。お疲れさん」
「うん」
俊宏が持参したビニール袋から、手製のおつまみを広げて、記者会見という大変な仕事を終えた親友をねぎらう。
部屋中に濃厚でスパイシーな香りが広がった。俊宏の得意料理である、豆腐とうずらの卵、そして手羽先などを八角や五香粉で煮込んだ煮込み料理だ。世海は箸を伸ばし、味がしっかり染み込んだうずらの卵をひとつ口に放り込んだ。噛み締めると、甘辛いタレと黄身のコクが口内で解けていく。
俊宏の方は、ニンニクと唐辛子、そしてごま油などで和えた茹でた枝豆をさやごと口に含み、歯で実を押し出すようにして食べると、すかさずビールで流し込んだ。
「それにしても納得できないよな。なんで責められるのがお前だけなんだよ? あの場には他にも有名人とか大勢いたはずだろ」
不満を口にする俊宏に、世海は静かに首を振った。
「どこで撮られたものなのか、具体的な場所までは言ってないからな。他にも人はいたけど、写真撮られるようなへマをしたのは俺だけだ」
「だったら余計に、写真を撮るのを許した周囲の連中にも責任はあるだろう。プライベートな集まりだったんだよな? なら、明らかに同意を得てない撮影を見過ごすなんて、おかしいだろ。俺がその店の店長だったら、撮った奴の画像消去させて、そのまま店から摘まみだしてるぞ」
自分の事のように憤る俊宏に、世海は力なく息を吐き出した。
「あの時、周囲がどうだったかなんて……もう覚えてないんだ。とにかく気持ち悪くてたまらなかった。頭が真っ白で、ただそれだけだったよ」
ため息交じりに呟く世海は、手羽先をつつきながら、ハイペースでビールを煽っていく。缶が空になるスピードが明らかに速い。
落ち込んでいる世海の横顔を見て、俊宏は空気を変えるように、殊更に明るい声を出した。
「まあ、過ぎたことをいくら言ったって、どうしようもねーもんな! 済んだことは終わったこと! 今は前を見るしかない!」
俊宏も自分の缶を勢いよく飲み干すと、世海の濡れた髪の毛先に再び目を向けた。そして興味津々といった顔つきで、強引に明るく話題を切り替える。
「で? 話は戻るけど、その汗はなんなんだ? もしかして本当に筋トレでもしてたのか? 昔から運動嫌いなお前が珍しいこともあるもんだな」
世海はうざったそうに顔をしかめた。
「運動は嫌いなんじゃない。必要がないならやりたくないだけだ」
「それを世間では運動嫌いって言うんだよ。その様子じゃ、かなりやり込んでるだろ。どんなメニューやってんだ?」
「スクワット、腕立て伏せ、クランチ。さっきまではダンベルあげてた」
「本格的じゃん。どうしたんだよ、役作りかなんか?」
「いや……」
言い淀み、視線を落とした世海を見て、俊宏はしまったと頭をかいた。
役作りも何も、スキャンダルの真っ只中にあり、記者会見を終えたばかりの今の世海に、新しい俳優としての仕事が舞い込んでいるはずがない。
「悪い、そういうつもりじゃなかったんだ」
「分かってる、別に気にすんな。今は外にも出られないし、家でやれることをやってるだけだ」
世海はそう言いながら、どこか影のある表情で枝豆を口に放り込んだ。
静寂が部屋を包む。水槽のエアーポンプが吐き出すブクブクという音だけが響くなか、世海はぽつりと、絞り出すような小さな声で呟いた。
「————次のドラマ、正式に降板になった」
俊宏は無言で世海の空になった缶ビールをどかし、新しい缶の蓋を開けて目の前に置いてやった。静かにその言葉の重みを受け止める。
気落ちしている原因は、これだったのか。
「演りたい役だったのか?」
静かな問いかけに、世海は小さく、だが噛み締めるように頷いた。
「麻薬組織を追う、新米刑事の役だった。組織に潜り込んでいる潜入捜査官とのバディ物で……すごく、演ってみたかった」
「面白そうだな」
「うん」
世海は差し出されたビールを勢いよく煽ると、肺の中の空気をすべて吐き出すように大きく息を吐いた。
その目は、仕事失った落胆で陰っていたけれど、光そのものは失ってはいなかった。
「お前の言った通りだ。過ぎたことをいつまでも言っていたって、もうどうしようもない。今回は大きなチャンスを取り逃がしたけど、これが最後ってわけじゃないからな。この先だって、素晴らしい脚本や役に出会う機会は必ず来る。今は、やるべきことをやって、この騒動を終わらせる。後は待つ。その間も、準備だけは怠らない」
自分自身に言い聞かせるような、力強い言い方だった。世海の表情にいつもの凛とした強さが戻っていた。
内心ホッとしつつ、俊宏は広げられた惣菜に再び箸を伸ばした。切り干し大根をたっぷりと混ぜ込んで焼いたオムレツは、自分で作ったものだけど、我ながら美味しい。世海も箸が進んでいるようだ。
「へこたれないでいるうちは、道は拓けていくもんだ。お前のそのしぶとい負けん気が健在でよかったよ。さすがに今回はへこみすぎて立ち直れないんじゃないかって心配してたんだ。もっとイライラして、不機嫌に八つ当たりしてくると思ってた」
「俺はそんなにガキじゃない」
ムッとする世海に、俊宏はポンッと自分の膝を叩いた。何か重大な秘密に思い当たったような顔で、世海を指差す。
「あ、分かった。お前、事務所から接触禁止されてるくせに、実はミホさんとこっそり連絡取ってるんだろ! だからそんなに心に余裕があるんだな!」
「……………………」
世海は缶ビールを傾け、あからさまに答えるのを避けたが、頬の辺りに喜色を浮かべている。
「なんでそんなに分かりやすいかなー」
そこがお前の良い所なんだけど、と俊宏に呆れたように笑われ、世海はぷいとそっぽを向いた。
「…………言っとくけど、先に連絡を寄こしてきたのは、あいつの方だからな」
「はいはい、なるほどね。それが一番嬉しかったわけだな」
「おい」
気色ばむ世海に、俊宏は笑いながら新しい瓶ビールを渡してやり、話の続きを促した。
「それで? どんな話をしたんだ? なんかミホさんってさ、精神論とか哲学っぽい話しをサラッと話しそうだよな。宗教の勧誘とかミホさんにされたら俺、簡単に入信しちゃう自信ある」
「あいつはそんないかがわしい奴じゃねーよ。ああ見えて、結構単純なんだぞ。送って来るメッセージは普通だし。……むしろ普通より短い」
世海は心外だと言いたげに顔をしかめたが、渋々と認めた。
「……大したやり取りはしてないよ。今日こんなことがあったとか、なに食ったとか、本当にそんなことだけだ」
「そういう何気ないのが嬉しいんだよなー」
「……うん」
素直に頷く世海を見て、俊宏は深く感心していた。誰に対しても礼儀正しさで壁を作り、どこか冷めた印象を与えていたこの男を、ここまで可愛くさせてしまう海帆という存在感。
罪な人だよな、ミホさん。
「————そういえば」
ビールをちびちびと飲みながら、世海が思い出したように呟いた。
「マライアって女を知っているか、て聞かれたな」
「は? だれ?」
ビールを飲みながらの世海の呟きに、よく聞こえなかった俊宏は聞き返した。
「マライア・リー。モデルだって言ってた。お前知ってるか?」
俊宏は天井を見上げ、記憶の引き出しをしばらく探ってから、思い当たったように大きく頷いた。
「知ってる。モデルだよな、化粧品とかの。かなりの美人だよ。それがどうかしたのか?」
「共演したことあるか、て聞かれた」
「共演? ないだろ。俺、お前が出てるドラマも映画もバラエティも全部チェックしてるけど、マライアはいなかったと思うぞ。なんでミホさんはそんなこと気にしてるんだ?」
「さあな。それ以上は何も聞かれなかったし」
世海は枝豆をひとつ口に放り込むと、噛み締めながらぽつりと呟いた。
「……あいつに言われたんだよ。チャンスは必ず来る。でも、それを掴み取って自分のものにできるか、また取り逃がしてしまうかは、日頃の準備で決まるんだって」
言葉の意味を噛みしめる様に言う世海に、俊宏はなるほどと深く頷いた。
「おお、さすが元スポーツマンのミホさん。言う言葉が熱血だな」
「まあな」
ふっと世海の口元が柔らかくほどける。
今日一番の穏やかな表情だった。俊宏は空いた缶やタッパーを片付けながら、一人で深く納得した。
「なるほどな! それで刺激を受けて、筋肉をガッツリ追い込んでたってわけかー」
しみじみと言う俊宏の言葉に、世海は何か嫌なことでも思い出したのか、急に苦々しく顔をしかめた。
「……それだけってわけじゃないけど」
「いやいや、準備は大事だよ! シュッとしたクールな見た目なのに実は脱いだらマッチョ、ていうのが女子は大好物だからな。どんな子でも軽々とお姫様抱っこで抱え上げられる力強さは、男には必要だよ!」
「……………………」
ビキッと音がして、その場の空気が凍りついた。
キョトンとした顔でこの部屋の主の方へと視線を向けると、世海は見たこともないほど凶悪な顔付きで、無言のままビールを喉へ流し込んでいた。
握り込まれた缶ビールが明らかにひしゃげていて、ビキッミキッとさらに音を立てている。
何があったのか詳しいことは知らないが、どうやら俊宏は地雷を踏んでしまったようだ。
まあ、何があったのか、大体想像がつくけど。
「俊宏」
「なんだ」
「俺は体を鍛える」
「そうか。いいことだよな」
応援するよ、と全力で激励しながら、俊宏は新しいビールを世海の手に渡してやった。
読んでいただき、ありがとうございます。




