マライア・リー
『マライア・リー。スキンケアとかメイク・ヘアスタイルとか、美容専門のモデル、いわゆるビューティーモデルって奴ね。最近は、端役だけどドラマとか露出も増えてきているみたいよ』
「……そうなんだ」
スマートフォンから流れて来る、親友である吉岡明莉の声をスピーカー越しに聞きながら、海帆は静かに頷いた。
目の前に開かれたノートパソコンの画面には、今話題に上っている人物の画像が大きく映し出されている。
そこに映るのは、意志の強い、野心的な佇まいの女性だった。何よりも印象的なのが、画面越しでも射すくめられるような、挑みかかる大きくて力強い瞳。
誰にも媚びない力強さがある存在感に魅了されるのか、彼女のファンはかなり多いらしく、各種SNSのフォロワー数は桁違いの数字だ。
海帆は真剣な目つきでそれらを見つめ、ようやく手に入れた手掛かりの詳細を一つひとつ確認していく。指先がトラックパッドの上でかすかに震えていた。
『それにしても、全然知らなかったな。マライアとカイルが付き合ってたなんて。カイルなんて、ファンのみんなが恋人だって言ってたのに』
明莉が呆れたような不満を口にすると、検索に没頭していた海帆の集中がほんの少しだけ逸れる。
「カイルって、具体的にどんな人なの? そっちの業界のことあんまり詳しくなくて」
『海帆はそうかもしれないね。カイルは、T-PEXっていう五人組のアイドルグループの最年長メンバーなんだよ。確かエリックと同い年ぐらいじゃなかったかな。年齢的にもアイドルとしての活動をそのまま続けるのは厳しくなってきてるから、最近は俳優業へ本格的にシフトチェンジし始めてるところだったんだよね』
明莉のわかりやすい説明を頭の隅で整理しながら、海帆は手元で速やかにそのグループ名を検索ウィンドウに打ち込んだ。
期せずして、ショッピングモールでマライア・リーの存在へとつながる手がかり(巨大なポスターの撤去作業)に遭遇した海帆は、急いで帰宅するなり猛然とパソコンに向かい、彼女についての情報を洗い出していたのだが、その最中に、世海の記者会見を見終えた明莉から電話がかかってきたのは、まさに渡りに船だった。
尋ねれば即座に的確な情報が返ってくる。
持つべきものは、エンタメ事情にやたらと詳しい頼もしい親友である。
電話の向こうで続く、アイドルグループT-PEXについての詳しい解説を聞きながら画像検索をかけると、すぐに5人組の男性グループの写真が画面に現れた。
説明文には「台湾の音楽シーンの頂点を目指し、最先端のエンターテインメントを届けるスピーディーなダンス&ボーカルグループ」と華々しく記載されている。
カイルの事もすぐに分かった。
なぜなら、グループの紹介ページのすぐ下へスクロールすると、数か月前にカイルが引き起こした「不倫・乱交パーティー」のスキャンダル記事が、本人の顔写真付きで嫌というほど出てきたからだ。
押し出しの強そうな、どこか兄貴風を吹かせたスポーツマン風の青年。日焼けした肌に浮かぶ爽やかな笑顔を、海帆は真剣に見つめる。
「不倫の手引きをした乱交パーティーを主催した責任を取って、しばらく活動を自粛していたんだよね。でも最近、少しづつメディアに戻ってきてるみたいだけど……」
『そう! 王孝文とメイ・フーのやつでしょ⁉ あの報道が出た時はすっごいびっくりしたんだよ! だって二人とも、業界ではすっごくクリーンなイメージで売ってたんだから! 王孝文は愛妻家で知られていたし、メイは見るからに清純派そのものだったもんね!』
明莉が興奮した様子で受話音量を震わせる。
本当に何でも知っているなと感心しながら、海帆は電話の声を背景に、その噂の不倫カップルに関する暴露記事にも目を通してみることにした。
報道後の取材記事によると、どうやら二人は数年前からの深い間柄だったらしく、人目を忍んだ逢引の場として頻繁に利用していたのが、他ならぬカイルの主催するプライベートパーティーだったということだ。
国は違っても、することはどこも一緒だな、と冷めた目で記事を流し読みしていると、一通り持論を展開し終えた明莉が、ふと思い出したように声を潜めた。
『海帆、この事はエリックのマネージャーには言ったの?』
「この事って、マライア・リーのこと?」
『そうよ。一番大事なところでしょ?』
「ううん、言ってない」
『なんで⁉』
驚く明莉の反応に対し、海帆は努めて平静を保ちながら答えた。
「まだ確証がないから」
『でも、確信はしているんでしょ?』
海帆は一人、誰もいない部屋で力強く頷いた。
確信はある。サングラスの女はマライア・リーだ。だが確証はない。カイルの恋人、という理由と海帆自身の勘だけでは、陳宇翔に相談するわけにはいかないだろう。
『エリックには聞いたの?』
「マライアって知ってる? て聞いてみただけ。でも知らないって言ってた。仕事で共演したことも一度もないって。嘘をつく人じゃないから、本当だと思う」
『そっか……じゃあ結局、なんで海帆やエリックがそんなに恨まれなきゃいけないのかは、分からないままなんだね』
「……………………うん」
海帆は小さく溜息をつき、背もたれに体を預けた。
相手の正体さえ分かれば、これまでずっと胸につかえていた霧のような疑問が一気に解決すると思っていたのに、知れば知るほど謎は深まるばかりだ。
なぜ世海は、面識のないはずのマライアに敵視されなければならないのだろうか。
カイルと世海の仲が悪かった、とは聞いていない。実際、例のパーティーにはカイルから誘われたと言っていたし、不倫騒動が起きる前は、カイルは世海が出演しているドラマ『Prisoner of Love ~あなたが現れたあの日から~』の共演者であり、現場でもそれなりに上手くやっていたと聞いている。
当時の知名度で言えばカイルの方が圧倒的に上で、世海が張俊凌役に抜擢された際は、シンデレラボーイと業界内でもかなり騒がれていたらしい。
BLドラマに出るんだ、と親友である呂俊宏の店で、報告をしてくれた世海の顔が脳裏に浮かぶ。
あの頃の世海は、まだ海帆に対して壁を作り、警戒心を目一杯に尖らせた素っ気ない態度を取っていた。それでも、大きなチャンスを掴んだ誇らしさと緊張感が、その表情の端々から隠しきれずに滲み出ていたのを覚えている。
あの日から、まだそれほど長い年月が経ったわけではないはずなのに、まるで遠い昔の出来事のように思えてならなかった。
過ぎ去った日々にふと意識を飛ばしてぼんやりしていると、電話口から明莉の呼びかける声が聞こえてハッと我に返った。
『ちょっとー、聞いてるの?』
「あ、ごめん。考え事してた。何?」
『だからね、あの流出画像に一緒に写っていたのは、マライア・リーなのって聞いたのよ』
海帆は一瞬間を置き、言葉を選びながら慎重に答えた。
「————————そうじゃないかと、思ってる。後ろ姿だから、絶対にそうだって言い切れる確証はないけど」
『エリックは知らない人だって言ってたんだよね?』
「うん。ただ、あの時は意識が朦朧としていたから、例え知っている人だったとしても、誰が誰だか分からなかった、て言ってたけど」
『そうなんだ……』
受話器の向こうで、明莉が重い溜息を漏らすのが聞こえた。海帆だって、できることなら一緒に深々と溜息をつきたい気分だった。
けれど、仕方がない。あのパーティーから、ほうほうの体で逃げ出して来た世海の様子を思い出すと、とてもじゃないが記憶を無くした彼の事を責めることはできない。
『…………てかさ、連絡は取れたんだね。よかった。接触禁止令が出てるって言ってたから、ずっと心配してたんだよ』
安堵したようにトーンを明るくした明莉に対し、海帆はスピーカーモードに設定したスマホに向かって軽く肩をすくめてみせた。
「まあ、禁止令は相変わらず出たままだよ。でも気にしないことにした。こっちからメッセージを送る分には問題にならないでしょう? 返信しなくていいよってちゃんと言ってあるし」
強がり交じりにそう口にしたものの、実を言えば、世海は海帆が送るメッセージのほとんどすべてに、律儀な返信を返してきていた。
「返信は不要」と書いてあるのに律儀に返してくるところがいかにも彼らしく、幼馴染の不器用な習性に少し呆れつつも、海帆はここ最近、欠かすことなく毎日メッセージを送り続けている。
世海の祖母リンさんに言われたから、という理由もある。けれどそれ以上に、海帆自身が純粋に世海とつながっていたかったのだ。
内容は他愛無いものばかりだ。今日あった事、何を食べたか、気に入った小物。取り留めのないメッセージばかりを海帆は送り続けた。
少し前まで、世海が海帆にしてくれていたことを、今度は海帆が返しているのだ。
『エリックの様子はどう? 少しは元気そうにしてる?』
心配そうに尋ねてくる明莉に、海帆は意識して声を弾ませて答える。
「元気そうだよ。毎日筋トレしてるって」
『マジで! ムキムキになっちゃったらどうしよう…………ありかも……』
どっちだよ、とツッコミを入れかけた海帆だったが、続く明莉の真面目な一言に言葉を呑み込んだ。
『でも、少しでも元気そうなら本当に良かった。あの記者会見、見てるこっちまで胃が痛くなりそうだったから……今はとにかく、心と体をしっかり休めてほしいよね』
「明莉、記者会見たんだね」
『うん……』
少し言葉を濁した親友のニュアンスを感じ取り、海帆は柔らかい声で問いかけた。
「どうだった?」
『どうって……エリックらしいと思ったよ。変に飾らないで、誠実で正直な会見だったと思う。ネットの反応を見ても、ファンの人たちは概ね納得して好意的に受け止めてるみたいだし』
「……概ね?」
引っかかったその単語を逃さず聞き返すと、明莉は少し言いづらそうに声を潜めた。
『いやね……本当にごく一部の人たちだけどさ。反省が足りないんじゃないかとか、冷静すぎて機械的だったとか言ってるアンチもいるにはいるんだよ。でも本当に、目ざとい一部の意見だから気にすることないよ』
親友は慰めるようにそう言ってくれたが、海帆の眉間は自然と険しくなる。
あれ以上どうすればいいのだ。カメラの前で嘘の涙を流し、みっともなく取り乱して見せれば、彼らは満足したのだろうか。
仮にそんなことをすればしたで、「同情を買おうとしている」「お安いパフォーマンスだ」と、好き勝手な言葉で叩くに決まっているのだ。無責任な外野の悪意に、胸の奥が冷たく疼く。
海帆の沈黙から気持ちを察した明莉が、落ち着いたトーンで取りなす。
『言いたい奴は好き勝手に言わせておけばいいんだよ。それに言ったでしょ、一部の人たちだって。ほとんどの人は好意的に受け取っていたんだから』
「…………そう」
暗い眼差しでパソコンのディスプレイを見つめていた海帆は、ひとつ大きなため息を吐き出して、強引に気持ちを切り替えた。
会見を見た見知らぬ人々の勝手な反応に心を痛めていても、何も前には進まない。不毛な感情に囚われるのはやめて、今はせっかく手に入れたこの手掛かりを、どうやって解き明かしていくかに集中すべきだ。
姿が見えた。名前も分かった。
——マライアはね、カイルの恋人なんだよ——
あの時の、コスメショップの前で、ポスターの撤去作業をしていた業者の男が漏らした一言が、脳裏で鮮明に再生される。
マライア・リーは、カイル・チェンの恋人。
その事実がピースとなり、頭の中でバラバラに散らばっていた疑問の欠片たちが、カチリと音を立てて噛み合っていく。
世海を襲った、スキャンダル報道。
顔も知らない女性が、親しい間柄であるかのように覆いかぶさっていた、不自然な流出写真。
カイル・チェン。そして、マライア・リー。
ふたつの名前が一本の線で結ばれた瞬間、暗闇の中に隠されていた構図が、徐々にその姿を現し始めていた。
でもまだ、暗がりに隠れている部分の方が多い。
海帆は胸の奥まで、深く、深く息を吸い込んだ。
手繰り寄せた細い糸の先に潜む、底知れぬ意図や悪意を感じ取りながらも、瞳には揺らぐことのない強い光が宿っていた。
読んでいただき、ありがとうございます。




